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あるBARでの出会い
あるBARでの出会い
夜の路地裏で、私はふらりと
都会の夜は、どこか嘘っぽい。煌々と輝くネオンも、行き交う人々の楽しげな声も、どこか遠く感じる。あの夜、私はそんな薄っぺらい喧騒から逃げるように、人気のない路地へと足を進めた。
心にぽっかりと穴が空いている。恋人と別れてから1年近く経っても、まだその穴を埋められないでいた。仕事に没頭すれば忘れられるかと思ったが、忙しさの中で感じる虚無感が、逆に孤独を際立たせる。そんなときだった。
ふと目に留まったのは、小さな黒い木のドアだった。看板もなければ、眩しい照明もない。ただ控えめに「OPEN」と書かれた札が揺れている。まるで私だけに「ここに来い」と言われているような気がした。
迷うことなく、そのドアを押し開けた。
その店で出会った異世界
扉を開けると、そこには全く異なる世界が広がっていた。外の喧騒は嘘のように静まり返り、ジャズピアノのメロディが空間を優しく包んでいる。店内は薄暗く、暖かな間接照明が作り出す陰影が幻想的だった。
「いらっしゃいませ。」
カウンター越しに柔らかい声で出迎えてくれたのは、50代くらいのバーテンダーだった。無駄な言葉を一切省いたその対応に、かえって安心感を覚える。この店は、特別だ――そう直感した。
店内を見渡すと、客はわずか数人。奥のテーブル席には白髪の紳士が静かにウイスキーを楽しみ、カウンターには黒いドレスを纏った女性が一人。
彼女――その存在に、私は一瞬で目を奪われた。
彼女の存在感
肩にかかる短い髪は雨でしっとりと濡れ、艶めく光を放っていた。ドレスは控えめだが、胸元に控えめなアクセサリーが輝いている。その手にはスリムなグラスが握られ、薄紅の唇がグラスに触れるたび、カウンターの照明が氷をきらめかせる。
その美しさは、ただの「綺麗」という言葉では言い表せない。そこには“何か”があった。魅力というより、影のようなもの。苦しみなのか、悲しみなのか、それとももっと深い何か――私にはまだ分からない。
注文したジントニックを飲みながら、私は彼女の横顔を盗み見る自分に気づいた。そして気づいたときには、もう視線を外すことができなかった。
声をかけられた瞬間
「あなた、この店に来るのは初めて?」
不意に、彼女の澄んだ声が耳に届いた。驚いて顔を上げると、彼女は私の目をじっと見つめていた。その視線には妙な力があり、私の中で何かがざわついた。
「ああ、そうだね。偶然見つけて入っただけなんだ。」
「偶然?」彼女は軽く笑った。「偶然、ね。でもこの店に入る人に、偶然なんてないと思うけど。」
その言葉が、私の胸に不思議な重みを残した。
短い会話が教えてくれたこと
その後、私たちはお互いの名前すら名乗らないまま、ぽつりぽつりと会話を交わした。彼女の声には落ち着きと余裕があり、しかしどこか寂しさも滲んでいた。
「この店、居心地がいいわよね。」
「そうだね。なんだか、時間が止まっているみたいだ。」
「そう、ここは“止まる場所”なのよ。」
“止まる場所”――彼女のその言葉が妙に心に引っかかった。私は何を“止めたくて”ここに来たのだろう?そして、彼女は何を止めたかったのだろう?
彼女が語る一つ一つの言葉に、私の心は少しずつ揺さぶられていた。まるで、長い間閉じ込めていた感情が、彼女の言葉に呼び覚まされるかのように。
「また会える?」
気づけば深夜1時を回っていた。グラスを空にし、彼女は立ち上がる。その動作はゆっくりで、まるで時間を惜しむかのようだった。
「もう帰るの?」
思わずそう尋ねる私に、彼女は振り向いて微笑んだ。そして一言、「また会えるかもしれないわね。」
それだけを残して、彼女は雨に濡れたドアを静かに開け、夜の闇に溶け込むように消えていった。
彼女の去った店内には、まだ彼女の残り香が漂っているように感じられた。その香りは甘く、ほろ苦く、私の中に深く刻み込まれるものだった。
そしてその夜から、私は彼女の姿が頭から離れなくなった。次にこの店を訪れれば、彼女に再び会えるのだろうか?それとも、彼女は幻のように消え去ってしまうのだろうか?
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