『怨霊が棲む屋敷 呪われた旧家に嫁いだ花嫁』 第9話
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第2章 押し入れにひそむ多佳子
2 跡継ぎを産むだけの女
離れの部屋で眠っていた雪子は、ふと、何かの気配を感じて目を覚ました。枕元に置いた時計を見ると、午前二時を過ぎている。
辺りは静かで、物音どころか虫の声ひとつ聞こえない。
どこからともなく、ひやりとした冷たい風が流れ込み、雪子は両腕で自分の肩を抱き身を震わせた。
季節はそろそろ初秋。
山奥にある孤月村も、かなり冷え込むようになってきた。だが、冷たさは気温のものとは別のような気がして、雪子は不安に瞳を揺らす。
肌が粟立つ寒々しい気配。
背筋に悪寒が走るような、何者かにじっと見つめられている感覚。
寒さのせいだろうか、身体の調子もよくない気がする。胸のあたりを圧迫されるような息苦しさを感じ、雪子は胸元に手をあてた。
苦しい。
今まで感じたことのない息切れを覚え不安を抱く。
誰かを呼ぼうか。
いや、こんな時間に起こしては迷惑をかけてしまう。それに、横になっていれば、胸の苦しさもおさまるかも。
唐突に、真っ暗な闇が怖くなり、枕元に置かれた照明の灯りをつけようと手をのばすが、どういうわけか灯りがつかない。
電球が切れたのだろうか。
すると、扉の向こうから、ヒタヒタと廊下を歩く音が聞こえ、雪子は息をつめる。
こんな時間に誰なのだろう。
ゆっくりその足音が近づき、ピタリと部屋の前で止まった。
雪子はごくりと唾を飲み込む。
静かに障子が開かれた。
開いた隙間から、白い手がぬっと現れ、雪子はびくりと肩を跳ね上げる。
「まだ起きていたのですか?」
「あ……」
間の抜けた声が雪子の唇からもれた。
現れたのは隆史だった。
「すみません。灯りがついていたから、もしかしたら眠れないのではと心配したのですが」
「灯り?」
雪子は枕元の照明に視線を向ける。つかなかったはずの灯りがいつの間にかついていた。
「どうして、さっきは……」
「大丈夫ですか? もし眠れないようなら」
「いいえ、大丈夫です……ご心配をおかけしてすみません」
「何かあったら、僕に言ってください」
「はい……っ」
隆史が去って行こうとしたその時、雪子は突然、胸のあたりに突き刺すような痛みに襲われ布団に突っ伏す。
「胸が……」
「雪子さん? 雪子さん!」
隆史の叫ぶ声が、意識の遠くに聞こえる。
大丈夫です、と答えたものの、はたして声になっていたかどうか。
そのまま、雪子は気を失った。
◇・◇・◇・◇
それからすぐに隆史が村医者の元まで走ってくれた。
深夜であるにもかかわらず、医師は利蔵の屋敷に駆けつけた。
医師の名は八坂正平といい、赤ら顔のひたいが後退しかけた、齢六十を超えた老医師である。
「おそらく心労でしょう。慣れない村での生活に心身ともに参ったのかもしれませんなあ。なあに、ゆっくり療養していれば、じきよくなるでしょう」
そう言って、八坂は飲み薬を用意する。
「すみません」
雪子は申し訳なさにうなだれ、駆けつけてくれた八坂医師に礼を言う。
「しかし、都会の者は繊細ですな」
棘のある八坂医師の一言に、雪子は顔を上げられなかった。
「それでは、これで。また何かあったら呼んでください。深夜だろうと早朝だろうと、かまいませんので」
「先生、ほんとうにありがとうございます」
隆史が深々と八坂医師に頭を下げる。
その横で、背筋を伸ばして正座している世津子は不機嫌さもあらわに眉をひそめていた。
夜着姿のままの隆史に対し、世津子は着物に着替え、薄化粧までほどこしていた。医師が来るということでわざわざ着替えたのだろう。
本当に申し訳ない思いで頭が上がらなかった。
「いえいえ頭をあげてください。利蔵さんの頼みとあれば駆けつけないわけにはいかないですからね。奥方様もこんな深夜だからって、気にすることはないですよ」
さらりと嫌味を言い、医師はすごすごと利蔵の家を後にした。
去り際、八坂医師があくびをしたのを見て雪子はさらに申し訳なく思った。
八坂医師が部屋を出て行くと、世津子がこれ見よがしにため息をつく。
「心労だなんてあなたも嫌味な人ね。八坂先生に笑われたわ。この家に何か不満でもあったの」
「そんな……」
けれど、本当にただの心労なのだろうか。
雪子は胸元に手をあてた。
先ほどの痛みも不快な感じも、嘘のように消えていた。
今はもう何ともない。
「まあまあ、雪子さんはまだ身体の調子がよくないのだから」
嫌味を言い出した世津子を隆史は笑って止めようとするが、世津子はひかなかった。
「何かあったなら言ってくれればいいのに、そんな状態になるまでためこまなくても。おまけに、こんな夜更けに八坂先生を呼びつけて、後でみなに何を言われることか」
世津子は厳しい目で雪子を見据える。
「利蔵家の恥ですわ」
世津子にとっては、雪子の体調のことよりも、家の体面のほうが気になるらしい。
早く横になって眠りたいところだが、なかなかそうはさせてもらえず、雪子は頭を下げたまま世津子の小言を聞いていた。しかし、雪子のそんな姿が世津子の癇に障ったようだ。
「その態度はなんなのかしら。ちゃんと聞いているの? 私の若い頃はとにかくお姑さんの言いつけをよく聞き、嫁ぎ先に馴染もうと一生懸命努力をしたものです。なのに、今の若い人はそういう努力もこらえ性もないのね。それでいて自分の主張はあたりまえのようにする。私がこの家に嫁いだときは、自分のことなど二の次でしたよ」
「申し訳ございません」
「そうやって口先だけで謝ってごまかすところも……」
「もうそのくらいにしてあげてください。それに、雪子さんだって頑張っているではないですか。まだここへ来たばかりで屋敷のことに慣れないのもあたりまえだし、多少の疲れだってでるのは仕方がないですよ」
隆史が困惑顔で世津子を宥めるも、それでも一度口に出したら止まらないとばかりに小言は続く。
「だいいち、こんな身体の弱い人を嫁に迎えただなんて。雪子さんには跡継ぎを産んでもらわなければ困るというのに。あなた大丈夫なの? ちゃんと跡継ぎを産んでくれるのでしょうね。月のものはまだちゃんとあるの?」
「まだ?」
雪子は聞き返す。
「だって、あなたもういい年じゃない。まさか、閉経したなんて言わないわよね」
言葉がでなかった。
私は、跡継ぎを産むだけの女。
それがこの家にとって私の唯一の価値。
こんなことになるのなら、無理にでも隆史を引き止め、医師を呼ぶのを待ってもらえばよかったと後悔する。
実際、今はもう何ともないのだから。
たぶん、置いていった薬も必要はないだろう。
「その話はもうこのくらいに」
世津子はいいえ、と首を振る。
「いいですか雪子さん。跡継ぎである男子、女子ではだめ、とにかく男子を産まない限りあなたはこの利蔵の嫁とは認めませんからね」
世津子の厳しい一言が、胸に深く突き刺さった。
「はい……」
さすがにこの雰囲気はまずいと察した隆史が、なかば強引に世津子を部屋から連れ出してくれたものの、結局、雪子は眠れずに朝を迎えた。
ー 第10話に続く ー