伊月一空の心霊奇話 ーそのいわく付きの品、浄化しますー 第52話(完結)
◆第1話はこちら
第4章 思い出の酒杯
3 あなたの呪いが解けるなら
「旅立ったようだな」
「よかったです」
一空と紗紀は空を見上げた。
「紗紀、僕たちもそこに座って飲まないか?」
一空はバッグから酒瓶と酒杯を取り出した。
「ええ! わざわざ持ってきたんですか?」
「あの夫婦がうまく浄化できなかったら、上にあがる道を開き手を貸そうと思っていた。だが、その必要もなくなった。きれいにあがっている」
確かに、心なしか空気が澄んでいる気がした。
一空は持参した酒杯に酒を満たし紗紀に手渡し、自分の酒杯にも酒をそそぐ。
酒杯を手に取った紗紀はちろりと舐めるように口をつけた。
日本酒はあまり飲み慣れていないが、癖がなくさっぱりと、フルーティーな香りで飲みやすい。
「おいしい」
笑みを浮かべる紗紀を、一空は目元を和らげ見つめ返す。
そんな一空の穏やかな表情を見て、とくんと胸が鳴り、紗紀はさっと目をそらした。
紗紀はもう一口お酒を飲む。
まだ二口しか飲んでいないのに頬が熱くなった。だが、一空の顔を見て頬を染めてしまったことをうまく隠せると思い、紗紀はさらにもう一口飲む。
手にした酒杯に桜の花びらが舞い落ち、透明な液体の上で静かに揺れている。
「きれい」
不意に一空の手が頬に触れ、紗紀は息を飲む。
「顔が赤くなったな。大丈夫か?」
「だ、大丈夫です」
「風が出てきた」
いくぶん気候が穏やかになってきたとはいえ、やはり夜ともなれば冷える。
そういえば、あれから一空にまとわりつく黒い靄を見なくなった。本当にあれは何だったのだろう。一空にかけられたという呪いとは関係のないものだったのか。
一空は本当にあの黒い靄に気づいていないのか。聞いてみるべきか。いや、言わない方がいいのか。
紗紀は不安そうな顔をする。
自分ではどうしたらいいのか判断がつかないからだ。
「さて、風邪をひいたら大変だ。帰ろう」
立ち上がろうとした一空の腕を、紗紀は咄嗟に掴んで引き止めた。
「どうした?」
「前世とかそういうの、私にはまったく分かりません。思い出すこともできないです。でも、私は一空さんのことを尊敬しています」
最初は嫌な奴だと思っていた。どちらかといえば苦手だった。ううん、そんなことよりも私、突然何を言い出すのだろう。
一空は表情一つ変えず紗紀の言葉を聞いていた。
「だから、私が一空さんを呪い殺すわけがないです。絶対に。それはつまり、呪いは解けていると思うべきではないでしょうか」
一空は静かに笑い、そうだな、と答えた。
紗紀はぎゅっと一空の掴んでいた腕を握りしめる。
「真剣に聞いてください」
「もちろん、聞いているよ」
「チャラ……いえ、あの弁護士は、私が一空さんにキスをすれば呪いは解けるかもなんて言っていたけれど、それで一空さんの命が助かるなら、呪いが解けるなら、どんな可能性にもかけてみたい。だって、死んで欲しくないから。だから、一空さんが死なない方法があるなら、私っ!」
そこまで言って紗紀は我に返る。
自分が強く一空の腕を握っていたことに今さらながらに気づき、慌てて手を離した。
それに、今なんて言った私?
しかし、高ぶった感情は抑えられなかった。
紗紀は続ける。
「もし、私が一空さんと前世で関わっていた巫女だというなら、一空さんにかけた呪いを解く方法を頑張って思い出します。だから……っ」
「紗紀」
一空に名前を呼ばれ、紗紀はようやく、気持ちを落ち着ける。
「ご、ごめんなさい。何かおかしなことを口走って。よく事情も知りもしないくせに、生意気なことを言ってすみません。帰ります」
離れようとした紗紀の腕を、今度は一空が掴んで引き戻した。
一空の指先が紗紀の頬にかかり、そっと撫でる。まるで、壊れ物を扱うような優しさであった。
「紗紀、僕は紗紀が思っているような男ではない」
「一空、さん?」
「僕は自分が助かるためなら……君に呪いを返そうと考えていた」
最後の方は小声だったため、聞き取れなかった。
目にたまった紗紀の涙を、一空は指で拭い取る。
『ミイラ取りがミイラにならないように』
以前、迅矢に言われた言葉が一空の脳裏を過ぎる。
あの時は、そんなことはないと思っていたが。
傾けてきた一空の顔がゆっくりと、紗紀の顔に近づく。
あり得ないくらい心臓が音をたてて鳴る。
一気にお酒が回ったのか、目がぐるぐると回る。震える手から酒杯が落ちそうになったが、一空の手が重ねられ、酒杯ごと大きな手で包み込まれた。
ゆっくりと傾けた一空の顔が近づいてくる。
拒むとか、逃げるとか、そういう行動を起こす考えもなかった。
ただ頭の中が真っ白になって相手の唇が近づいてくるのを間近で見ているだけだった。
一瞬、唇が重ねられると思った。
紗紀は身を硬直させ、唇を震わせる。
落ちてくると思った一空の唇は横にそれ、紗紀の耳元に触れそうになるくらいに近づけられた。
「ありがとう、紗紀」
囁くような声に、身体がぞくりとした。
「紗紀がそう言ってくれるのなら、僕は大丈夫かもしれない。そう思うことにした」
そう言って、一空は笑った。
「そうに決まってます」
何だったんだろう今のは。
まだ胸がどきどきして、心臓が口から飛び出しそう。
「さあ、行くぞ。本当に風邪を引かれたらたまらないからな」
「一杯、付き合えって言ったのは一空さんですよね。それに今のは何だったんですか!」
「キスをしてくれたら、僕の呪いが解けるのでは?」
「私じゃなく、チャラ弁が言ったんです。もう、真面目に心配していたのに、からかうなんてひどい」
「なら、本当にキスをすればよかった?」
「お断りします!」
紗紀は頬を膨らませ、そして、鳴り止まない鼓動をおさえようと胸に手を当てた。
一空はくつりと笑う。
「腹がへったな。怒らせてしまったお詫びに、おごってやる。何が食べたい?」
「ウニ」
間髪入れずに答えた紗紀の返答に、一空は肩を震わせ笑う。
「寿司か。なら、うまいところを知っている」
一空はスマホを取り出した。
どうやら、おいしいウニが食べられる寿司屋に予約を入れるようだ。
「え、待ってください! 私、回っているお寿司でじゅうぶんです」
「いいから、行くぞ」
歩き出した一空の後を追いかけるように紗紀はついて行く。
一空の背中を見て、紗紀は強く手を握りしめた。
私、絶対に一空さんを死なせたりはしませんから。
(了)