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伊月一空の心霊奇話 ーそのいわく付きの品、浄化しますー 第34話

◆第1話はこちら

第2章 死を記憶した鏡

12 成仏するための手伝い 

 和夏は泣いていた。
「痛かっただろう。辛い思いをしたね。もう大丈夫。君が望めばいつでも上にあがれる。そのための手伝いをしよう」
 しかし、和夏は激しく首を振り拒絶する。
 血に濡れた手には携帯電話が握りしめられていた。

『助けを』

 か細い声であった。
「残念だが、もう助けを呼ぶことはできない。和夏さん、君はもう死んでいるのだから。分かるね?」
 和夏は首を横に振る。
 突然の死を受け入れられず成仏できない者もいる。
 死者とはいえ、一人の人間。
 説得して分からせようなど、本当は難しいのだ。

 彼女にとってこの世は本来、存在してはならない場所。
 この機会を逃せば、彼女は二度と上にあがれなくなる可能性がある。
「和夏さん、あなたの心残りを僕に話してみるといい」

『私を殺した犯人が憎い。このままじゃ、どこにも行けない。犯人は今も捕まらず、のうのうと生きている。犠牲になった人は私の他にもいる。絶対に許せない……』

「犯人はすでに捕まっている。和夏さんの言う通り、その男は何人もの女性を殺害した。君が住んでいたアパートの、一人暮らしの若い女性を狙って」
 一空の言葉を聞いた紗紀は、え? と声を上げた。
「伊月さん、どうしてそんなことが分かるの?」
 と、疑問を投げかける。
 紗紀を振り返ることもなく、一空は答える。

「この鏡を通して犯人の残影を捕らえ、そいつの意識に接触した。犯人は痩せ形の男。背はそれほど高くない。四十代前半。ああ、名前が出た。木暮毅こぐれたけし。宅配人をよそおい、一人暮らしの若い女性を狙い何人も殺害している。彼女以外にも同じアパートに住む女性が立て続けに殺されている」
「え? ちょ、それって殺人事件じゃないですか! 今すぐ警察に通報するべき」

 スマホを手に、警察に連絡しようとした紗紀を一空は止める。
「その必要はない。犯人はすでに捕まっている」
「捕まっているって、いつ?」
「十二年前」
「そんな昔っ!」
「埼玉で起きた連続婦女暴行殺人の犯人だ」

 紗紀はスマホでその事件のことを調べ始める。
「あった」
 事件の記事を見つけた紗紀の手が小刻みに震える。
「こ、これって、嘘でしょう……」
 腰が抜けたように、紗紀はその場に座り込む。

「何? どうしたの紗紀」
 スマホの画面を食い入るように見ながら唇を震わせる紗紀の横から、恭子も覗き込み、目を見開いた。

 知っている。
 一人暮らしの女性が狙われたアパートは──。

「〝レジェンド級の事故物件〟!」

 数日前に暎子が嬉々として見せてくれた物件であった。
『嫌よ。もし犯人が牢から出てきたら、また同じことを繰り返す。許せない」
 一空は口元に笑みを浮かべ、泣きじゃくる和夏に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を継ぐ。

「大丈夫だよ。犯人はまだ拘置所にいる。そして、そいつは一生そこから出ることはできない」
 今まで聞いたこともない、優しい口調と言葉であった。
 紗紀はさらにスマホで事件のことを調べる。

「あった。あったわ! 木暮毅、当時四十三歳。一人暮らしの女性を狙い殺害した連続殺人犯。四人も殺している。裁判中、拘置所で自分の首を自分の手で絞め自殺……自殺したのは八年前」
「そう、木暮毅はとうの昔に死んだ。だが、彼の魂は今もまだ牢に捕らわれたまま出ることは叶わない。それどころか、首を絞め息絶える瞬間を何度も繰り返し一生、地獄の苦しみを味わい続ける。そして、その苦しみから解放されることはない。つまり、そいつはどこにも行けず、転生を望むこともできない」

「悪霊になって、誰かに悪さをしないの?」
「いずれ自我を失い悪霊になる可能性はある。だが、その場から動けないのだから、他人に悪さをしようがない」
 一空は意地の悪い笑みを口元に刻む。
「その牢に別の人が入ったらどうなるの?」
「そこまでは、さすがの僕にもどうにもできないよ」
「確かに、そうだけど」
 再び鏡の中の女性に向き直った一空は、にこりと笑い和夏に手を差し伸べた。

「これで分かったね。そいつはもう人になって生まれ変わることもできず、己の犯した罪をその身でもって永遠に償い続ける。さあ、僕の手をとって。僕ならあなたの苦しみを解き放てる」
『私の苦しみ? 生きているあなたに何が分かるの。私はやりたいこともできず、夢を叶えることもできず殺された。幸せも奪われた。悔しくてたまらない』

 一空のひたいに浮かぶ汗が、こめかみを伝い流れ落ちる。
 端整な横顔は、鏡の中の女性を落ち着かせようとするため笑ってはいるものの、その笑いは苦しそうに見えた。
 おそらく、呼びかける一空の説得に鏡の中にいる女の霊は応じず、そのせいで浄霊に手こずっているのだと紗紀は察する。

「伊月さん……っ!」
 紗紀は口元に手を当て悲鳴を上げた。
 鏡に映る一空の姿が、おびただしい血で濡れていたからだ。

「伊月さん、もうやめて!」
 近寄ろうとした紗紀を、一空は来るなと手で制する。
 霊視によっては、相手の過去に起きた体験をそのままその身に受けることがある。

 以前、紗紀が曾祖母の過去を体験したように。つまり、一空は和夏の身に受けた痛みや悲しみのすべてを、自らの身体にも受けているのだ。

 このままでは一空が死んでしまう。
 私に何が出来る?
 どうしたらいい?

 咄嗟に紗紀は、床に無造作に転がっていたスコップを見つけ、掴んだ。そして、スコップを手に腕を振り上げる。
「ちょ、それ、趣味のベランダガーデニング用のスコップ!」
「枯れてたじゃない!」
 部屋に入ってすぐ、一空が窓のカーテンを開けた時に、枯れてしなびたトマトの苗が一鉢あったのを見つけた。

 何が、ベランダガーデニングが趣味よ。
 だいたい、何で部屋の中に土のついたスコップがあるの。
 部屋が汚いにもほどがある!

「鏡の中にいるあなた! 一空の説得に応じないなら、私がこの鏡を壊してやる! そうしたら、あなたは一生鏡から出られず、成仏ができなくなる。それでもいい?」
 鏡の中にいる視えない相手に向かい、紗紀は怒鳴りつける。
 スコップを手に持ったまま紗紀は肩で何度も息をする。
 和夏は泣くのをやめ、呆然とした顔で紗紀と一空を交互に見る。

『その人、あなたの恋人?』

「いや、違うな」
 一空は肩をすくめ苦笑いを浮かべる。

『でも、あなたに気があるみたい』

「それは気のせいだ。僕は嫌われている」

『そうかな。そうは見えないけれど。ねえ、鏡を壊されたら私、困る?』

「そうだね。だが、彼女はそんなことはしない」

『どうかな? あなたのために必死よ。一途で優しい子ね』

 和夏はくすりと笑った。

『私、まだ死にたくなかった。やりたいことがたくさんあった。そう、彼は今どうしているかな。私、あの日は彼とデートだったの。彼に会いたい。会える?』

 一空は静かな眼差しで和夏を見下ろした。
「君の彼が今どこで何をしているのか探し出すことは可能だが、すでに彼は君のいない人生を受け入れ歩み始めた。それでも知りたいか?」
 和夏の瞳から涙がはらはらと落ちる。そして、いいえと首を振る。

『優しい人だったの。穏やかで温かくて。あの人が幸せならそれでいい。きっと、姿を見たら、この世に未練が残ってしまうから。あの人……私が死んで悲しんでくれたかな』

「恋人が亡くなって悲しまない人なんていない」
 和夏はうつむいた。

『それともう一つね、殺されたあの日、私の誕生日だったの』

「そのようだね」

『どういう意味? どうして分かったの?』

「ところで、まだ苦しい?」
 その問いに、和夏は静かに首を振る。
「あなたと話していたら、楽になったわ」
「なら、自分がいいと思う状態を思い浮かべてみるといい。できるか?」
 和夏はゆっくりと立ち上がった。
 その姿は爽やかな花柄の白いワンピースを身につけていた。

『彼とのデートに、ずっと何を着ていこうか迷っていた。でも、これに決めたわ』

「そうか。とても似合う」

『ありがとう』

「それと、左手の薬指を見てごらん」
 一空に言われ、和夏は左手を持ち上げた。

『これ……』

「彼が君に渡す筈だった婚約指輪だ」
 先程、一空がそのようだね、と言ったのはこういう意味であった。

『彼が私に? じゃあ、彼がレストランを予約してくれたのは』

 一空は頷く。
 君の誕生日に結婚を申し込むつもりだった。
 和夏はわっと泣き出した。
 薬指に嵌められた指輪を、愛おしそうに触れ何度も何度も恋人の名前を呟く。

「君の手の辺りに柔らかい光が見えたから何だろうと思った。君が亡くなった後、彼は君のお母さんに指輪を託した。そして、その指輪は君の実家のお仏壇に大切に添えられている」
 指輪に触れたまま、和夏は目にたまった涙を拭う。そして、にこりと微笑んだ。

『もう、これだけでじゅうぶん。何も、思い残すことはないわ』

 旅立つ決心がついた表情だ。
「行こうか」
 差し出してきた一空の手に和夏は自分の手を重ねた。
 するりと和夏の身体が鏡から抜け出たと同時に、天上から柔らかい光が落ちてきた。
 和夏の身体がその光にのり、やがて、吸い込まれていくように昇っていった。

 ――ありがとう。

 どこからともなく聞こえてきたその声に、一空は静かに微笑んだ。
「あちらの世界は優しいところだ。だから、安心して行くといい。そして、和夏さんが迷うことなく旅立てるように」
 呟いて、一空は数珠を指に絡め、経を唱えた。
 服の裾をくいっと引かれ、紗紀は我に返って振り返る。

「なんか、うまくいったみたいだよ。それ、降ろせば?」
 恭子がスコップを指さしながら言う。
「え? あ、うん……」
 恭子に指摘され、紗紀は力が抜けたように腕を降ろした。
 そして、経を唱え続ける一空の背中を見つめ、彼の無事に安心したのか、知らず知らず流れた涙が頬を濡らした。

ー 第35話に続く ー 

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