私はあなたの引き立て役じゃない 第2話
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2 変化
「え? ちょっと誰?」
始業時間のチャイムが鳴る少し前、職場に颯爽と現れた女性の姿に社内は騒然とした。
「もしかして、新しい派遣さん?」
「聞いてないけど」
みなが注目する中、その女性は軽やかな足取りで、ヒールの踵をかつかつと鳴らし、真っ直ぐに部長席へと向かい頭を下げた。
部長もまるで豆鉄砲を食らったような表情だ。
さらにその女は迷うことなく依子の席につく。
そこで、ようやく現れた女が井田依子だということにみなが気づく。
「え? まさか井田さん?」
うそ、と誰もが口々に驚きの声を上げた。
依子だとわからなかったのも無理はない。
明らかに誰の目から見ても依子は変わった。
あか抜けない黒縁の眼鏡を外し、重く野暮ったいだけのストレートの黒髪は軽い雰囲気にカットされている。
化粧っけのなかった顔には上品なメイクをほどこし、何より体型がすっきりした。
「まるで、別人」
「井田さん、どうしたの?」
「全然雰囲気が違うんだけど」
女たちは仕事もそっちのけで、興味もあらわに依子の周りに集まってきた。その輪に塔子も遅れてやってくる。
「依子、体調は大丈夫なの?」
「ええ、長い間休んでごめんなさい。迷惑をかけた分、仕事頑張るから」
今まで見せたことのない明るい笑顔で周りを見渡し、依子は長々と休んだことを詫びた。そして、最後に塔子に視線を向ける。
「それにしても……」
変わったのね、と言って塔子は依子の頭から足元へと視線を移し目を見開く。
「その白いパンプス」
ふっくらとした唇に、ピンク色のリップで彩られた依子の口元がふっと笑む。
「塔子が履いているのを見たらやっぱり欲しくなって、お店の人に頼んで取り寄せてもらったの」
白いパンプスは、依子のすっきりと、そしてほどよく筋肉のついた足に似合っていた。
その日一日、誰もが依子に注目した.
以前なら、自信なさげにいつもおどおどしていた依子だが、別人かと思われるほど、きびきびと動き回り、積極的に仕事をこなしていた。
他の部署の人間が事務室に立ち寄ると、やはりえ? と驚いた反応で依子を見る。
井田依子が別人のように変わり、綺麗になったという噂は、たちまち会社中に広まり、用もないのにわざわざ他の部署から見に来る者までいた。
最初は遠巻きに眺めるだけだった者も、次第に依子に話しかけてくるようになり、数日後には、彼女の周りにたくさんの人が集まるようになった。
さながら甘い蜜に群がる蜂のよう。
「依子ちゃんがこんなに美人で明るい人だとは思わなかったよ。それに、スタイルも抜群だね」
「それ、セクハラだから!」
セクハラ発言をした男は困ったように頭に手を当てる。
その顔はデレデレであった。
「いや、ほんと依子ちゃんきれいだからさ。褒め言葉として受け取ってよ」
「ありがとう」
「ね、ランチに行こうよ? 俺、おごるから」
「ええーいいなあ。あたしたちも一緒していい?」
男たちが集まれば、おのずと女子たちも寄ってくる。
「依子って、肌がきれいだよね。エステとか行ってるの?」
「コスメは何使ってる? 教えて」
「すごーい、これブランドものの時計じゃない。高かったでしょう」
安月給だったが、今まで使うこともなかったので貯金はけっこうあった。
その貯金で、服やバッグ、アクセサリーを買いあさった。
これまでは、誰も自分に話しかけようとする者などいなかったのに、きれいになっただけで、誰もが自分に興味をしめしてくれる。
男性にも声をかけられ、女性たちからはメイクやファッションのことを聞かれるようになった。
外見が変わっただけで自分に自信が持てるようになり、物怖じすることなく、誰とでも自然に会話ができるようになった。
いや、きれいになったことで、他人から受ける扱いも変わるのだ。
何もしなくても人は集まってくるし、話しかけてくる。
会話は途切れることがない。
なぜなら、相手の方から質問を投げかけ話題を振ってくるからだ。
美人は得なのだということを改めて依子は知る。
そう、あの日を境に依子は変わった。
失恋の痛手と、塔子をホームに突き飛ばそうとした罪悪感に苛み、部屋に引きこもるようになった依子の体重はまたたく間に落ちていった。
今まで着ていた服が身体に合わなくなり、思い切って立ち寄ったショップで、着てみたいと思う服が着られるようになったのがきっかけだった。
さらにファッションやメイク雑誌を読み、これまでまったく興味のなかったデパートのコスメ売り場のカウンターに出向き、メイク方法を教わった。
もちろん自分でもメイクの腕を磨いた。
お化粧一つで変化した自分の表情が、依子にさらに自信をつけた。
鏡を見ることが楽しくなった。
そうなると、今度は伸ばしっぱなしの髪が気になり、雑誌で見た美容室を予約した。
「若くてきれいなのに、髪もきちんとお手入れをしないともったいないわ」
と、言われ依子の心はさらに有頂天になった。
髪を切って明るめに染め、緩く巻いた。
以前、依子は元が悪くないと塔子が言ったが、その通りであった。
磨くたびに依子は、どんどんきれいになっていく。
流行の服に上品なメイクをし、外を歩けば男たちが吸い付くように声をかけてきた。
誰もが自分をちやほやし、良い気分にさせてくれた。
もう以前の私ではない。
私は生まれ変わった。
一度、会社の廊下で鴫野と会った。
「あの……井田さん……僕」
何か言いかけようと口を開いた鴫野の脇を、依子は目を合わせることもなく通り過ぎていく。
完全無視だ。
すれ違う瞬間、鴫野がうなだれたのが視界に入った。
依子の口角がつり上がり、薄い笑いが刻まれる。
その笑みは優越感に満ちていた。
あんたなんか、相手にするわけないでしょう。
職場に復帰してから、塔子との関係も変わった。
これまで、ランチを一緒にしたり、仕事帰りに食事や買い物に付き合わされたりと、何かと塔子に振り回されることが多かったが、彼女と行動をともにすることはなくなった。
依子自身、塔子を避けていたし、塔子もそんな雰囲気だった。
そんなある日、会社の廊下を歩いていた依子は、階段の踊り場で塔子と男性が抱き合っている姿を目にする。
依子の存在に気づいた塔子は、咄嗟に男から離れた。
ちらりと見た相手の顔は、営業部の安積だった。
小走りに走り寄ってきた塔子は、お願いをするポーズで胸の前で手を合わせた。
「みんなにはまだ黙っていてね。お願い」
安積は社内でも人気のある男だ。
付き合っていると女たちに知られたら、妬まれて嫌がらせを受けるのは間違いない。
「鴫野さんはどうしたの?」
どこか棘を含んだ依子の問いかけに、塔子は眉をひそめた。
「彼とは何でもないって言ったじゃない。それに、会うたび本の話ばかりで退屈。つまらない男よ。セックスもね」
塔子はくすりと嗤う。
依子は安積を見る。
「つき合っているの?」
「うーん、まあね。告白されたの」
「ふーん」
依子はもう一度、階段の踊り場に立つ安積に視線を向ける。
彼は塔子と抱き合う場面を見られても、動じる様子も見せない。
こういうことに慣れているといったところか。
安積の目が塔子を通り越し、自分に向けられているのは気のせいか。
さらに、安積が自分に笑いかけたのも。
しかし、それは思い過ごしではなかった。
◇・◇・◇・◇
仕事を終え、会社を出てしばらく歩いたところで、安積に呼び止められたのだ。
「依子ちゃん」
馴れ馴れしく名前で呼ぶ安積が、片手を上げこちらへ歩み寄ってくる。
きっちりと三つ揃えのスーツを着こなし、ピカピカに磨かれた革靴を履いた彼は、やはり女たちが騒ぐのも無理はなく、スマートでカッコいい。
隣に立った瞬間、ふわりと良い香りが漂ってきた。さらりと髪をかき上げる腕にはブランドものの時計。
「飯、食いに行かない?」
「誘う相手が違うんじゃない」
眉をひそめて安積を睨み、依子は再び歩き出す。が、咄嗟に前に回り込んだ安積に行く手を阻まれた。
目を細め依子は安積を見据えた。
「何のつもり、どいて、邪魔よ」
安積はへえ、と眉を上げた。
「人って、こんなにも変われるものなんだね。驚いたよ。あの井田さんがさ」
「だからなに?」
「今までそんな強気な態度とったことなかったのに。いつもおどおどして、みんなの顔色を覗っていた君が」
依子はふっと鼻で嗤った。
「言いたいことを我慢するのはもうやめたの。自分のやりたいようにやらなきゃ損だってことにも気づいた」
もう損をするだけの人生なんてごめんだわ。
誰かに振り回されるのも。
安積は口元に笑みを浮かべた。
「本当に変わったね。きれいになったのは事実だし、今の君は魅力的だよ」
安積の甘い声が耳元に落ちる。
きれいと言われて胸が鳴る。
その言葉は依子にとって魔法の言葉。
何度聞いても気持ちを舞い上がらせた。
「いい店、知っているんだ。ご馳走するよ」
慣れた手つきで腰のあたりに手を回してきた安積にうながされ、依子は断ることもできず歩き出した。
◇・◇・◇・◇
私、何やっているのだろう――。
ベッドから身を起こし、依子は乱れた髪を手で整えた。
泣きたいような、笑いたいような、わけのわからない複雑な感情が依子の胸を揺らした。
自分自身でも呆れた。
以前、酔った勢いで、何となくそういう関係になったと言った塔子の言葉を思い出す。
ほんとうだ。
あまり飲めないお酒を雰囲気に流されて飲み、好きでもない男とこういう関係になった。
ベッドに仰向けで寝そべる安積を、肩越しに振り返る。
こんな最低な男と。
依子の視線に気づいた安積は、身体を起こし抱きついてきた。
すかさず依子は、するりとその手から逃れる。
「こうやって、たくさんの女と遊んでるの?」
「そうでもないよ。特別気に入った女とだけ」
案の定、目の前の男はクズな発言をする。嫌悪もあらわに依子は眉根を寄せた。
それが遊んでいるというのではないか。
「塔子とつき合っているんでしょう」
「気になる?」
「全然」
「まあ、付き合っていたというか、身体だけの関係。もちろんお互い納得してね」
「塔子はそう思っていないみたいよ」
安積は参ったな、というように頭をかく。
「そうやって、勘違いする子いるんだよねー。割り切って遊ぶ子だと思ってたんだけどなあ」
ああ、めんどくさい、と安積は小声で文句をこぼす。
「私には関係ないけれど」
「そういう依子ちゃんこそ、けっこう遊んでる? ブランドもので身を固めてよくお金があるね。うちの会社ってそんなに給料よくないはずだよ。もしかしてパパ活でもしておこづかい稼いでいるとか? 依子ちゃん、魅力的だから男が寄ってくるでしょ」
「さあね」
依子は素っ気なく答える。
もうイヤだ。
この男も自分も。
「帰るわ」
立ち上がろうとした瞬間、安積に腕をつかまれ引き寄せられた。
「もう帰っちゃうの? せっかくこうして知り合えたんだから、もう少し楽しもうよ」
強引に腕を引かれ、再びベッドの上に仰向けに寝かされる。
安積の身体が覆い被さってきた。
抵抗する間もなく、唇をふさがれる。
依子は目を開けたまま、自分の唇を貪る安積の姿を冷めた目で見ていた。
唇が離れたと同時に、依子は安積を手で突っぱねる。
「しつこいわね。帰りたいって言ったでしょ」
一瞬、呆気にとられた顔をする安積だが、すぐに肩を揺らして笑った。
「そういう態度も新鮮でいいね。気に入ったよ。もっと依子のことが知りたくなってきた。今度いつ会える? また俺と会ってよ」
安積のその言葉に依子の胸が高鳴った。
安積が自分を求めてきている。
初めて塔子から何かを奪えたと――。
その後も、誘われるまま安積と会い、会うたび身体を重ねた。
愛のない行為による嫌悪感も、いつしか塔子よりも優位にたてたという優越感へと変わっていった。
ー 第3話に続く ー
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