『怨霊が棲む屋敷 呪われた旧家に嫁いだ花嫁』 第38話
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第4章 村はずれの社に住む男
10 再び孤月村へ
「本当に村に戻るつもりか」
町へ来たときと同様、高木が運転する軽トラックに乗り、村に戻る途中であった。
窓の外を見上げると、薄暗い灰色の雲が空全体を覆い陰鬱な雰囲気を漂わせ、雪子の鬱々とした気持ちと重なった。
休憩もかね、トラックは孤月村を見下ろす山の頂上の展望所でいったん止まった。
高木の問いかけに雪子は言葉もなく頷く。
「戻ってどうするつもりだ」
どうするつもり?
その言葉に雪子は答えを見つけられなかった。
村に戻ってどうするのだろう。
いや、どうするつもりと考えるほうがおかしい。
自分は利蔵家に嫁いだ身であり、あの屋敷に帰るのがあたりまえのこと。
この先一生、利蔵の人間として生きていくのだ。
「私はあの家に嫁いだ身だから」
そう答えるしかなかった。
けれど、それが本当の理由ではないような気がした。
事実、利蔵の家も隆史の妻としても、心のどこかで、もうどうでもいいような投げやりな気持ちもあったのは事実。
ただ、二十五年前に行方不明となった多佳子を見つけ出せないかと考え始めている自分がいた。
おそらく、多佳子はもう生きてはいない。
ならば、彼女の遺体は村のどこかにあるはず。
その遺体を見つけ出すことはできないだろうか。
隣で高木の深いため息を聞く。
「利蔵家には何の思い入れもないんだろう?」
高木に言い当てられ雪子は胸をどきりとさせる。
思えば、隆史に結婚を申し込まれてこの村に来たが、隆史のことを愛しているかと聞かれると、答えられない自分がいる。
出会った頃は優しい人だと思っていたし、多少なりとも好意はあった。
自分が行き遅れたという焦りも少なからずあったのは事実。
結婚して両親を安心させたかったという思いも。
隆史のことも、少しずつ知って好きになれたらいいと思っていた。
だがあの晩、跡継ぎができればそれでいいと言った隆史と世津子の言葉の棘がいまだ胸に突き刺さり、取り切れないでいた。
本当に、自分は利蔵の家でこの先、やっていけるのだろうか。
遥か遠くに見える村を見下ろし高木は口を開く。
「俺たちは村の外からやってきたと話したが……」
唐突に語りだした高木に、雪子は耳を傾ける。
「妻は村に馴染もうと懸命だった。鈴子が生まれてからはとくにだ。鈴子が他の子どもたちから嫌がらせを受けないよう、村人たちのわがままや頼みごとを嫌な顔ひとつせず、笑顔で答えていた。積極的に村の行事を手伝い参加したり、時には身体の不自由な年寄りどもにせがまれ、町まで買い物に行ってやったりもしていた。そのためにわざわざ車の免許までとったくらいだ。自転車に乗るのだっておぼつかない妻だったのに」
亡くなった奥様のことを思い出しているのか、高木は口元にかすかな笑みを浮かべ、どこか懐かしそうな目で遠くを見やる。
「あまり丈夫な身体ではない妻だったが、本当によくしてくれた。俺にはもったいないくらいよくできた女だった」
「素敵な奥様だったんですね」
「ああ」
亡くなった奥様のことを語る高木に、雪子の胸がちくりと痛んだ。
「だが、村に来てから二年たった頃、妻は結核で病床に伏すようになった。すると、村人は手のひらを返し俺たち一家を遠ざけるようになった。あれだけ、村の人間たちによくしてやったのに、やつらは妻をあからさまに、まるで汚いものを見るかのように扱った。中には余所者が村に疫病を持ち込んできたと悪態をつく者も。妻が倒れたと同時に、鈴子に対して村の子どもたちのいじめも始まった。
ある日怪我をして帰ってきた鈴子を見て逆上した俺は、村人たちにあんたたちのために妻がどれだけ尽くしてきたか忘れたのかと食ってかかった。だが、それでも状況が変わることはなかった。妻は弱々しい笑みを浮かべ、俺にこう言った。今度はあなたが村の人たちと仲良くやっていかなければ、鈴子がかわいそうでしょう? 鈴子を守ってあげて、と。そして、その数日後妻は死んだ」
つまり、高木父子が村人から阻害されていたのは、奥様の結核のせいであったのだ。
「俺が妻を殺したようなものだ。俺があんな村に妻を連れていかなければ」
何も言えなかった。
慰めの言葉も何も。
「早く村をでるべきだったと後悔している」
「高木さん……」
雪子は両腕を伸ばし、うなだれる高木の頭を胸に抱え込むように抱きしめた。
どうしてこんなことをしたのか分からない。そうして、雪子は何度も震える高木の背中を優しくなでた。
しばらくして、高木は苦笑いを浮かべながら顔をあげた。
「すまない……情けないところを見せた」
雪子ははっとなって高木から離れ、顔を赤くしてうつむく。
「いいえ……」
それきり言葉がでなかった。
◇・◇・◇・◇
鈴子を町の病院に連れて行ってから、かれこれ三日間、屋敷をあけていたことになる。
みんなに何を言われてしまうだろうか。
きっと怒られてしまう、と重い気持ちを抱きながら屋敷へと向かう道を歩いていた雪子は、ふと、自分がどこへ行っていたのか知らないはずはないのに、隆史は心配して実家まで駆けつけてくれることもなかったのだと今さらながらに気づく。
そんなものなのだろうか。
心配して欲しいわけではなかったが、虚しい気持ちであったのは否めない。もっとも雪子自身、隆史のことを今のいままで忘れていたのだから彼を責められない。
屋敷に戻るとやはり、待ちかまえていたように世津子の遠慮のない叱責が飛んできた。
「三日も家を空けるなど、何を考えているのでしょう。あなたは本当に利蔵の嫁としての自覚が足りなさすぎます! いいえ、これは許されないことですよ!」
「鈴子ちゃんが怪我をしていました。放っておくわけにはいきません。それを許されないことだとおっしゃるのですか?」
いつになく反発する雪子の態度に、世津子は目を吊り上げた。
屋敷の使用人たちが物陰でこの様子を遠巻きに眺めている。
ちらりと彼らに視線を走らせると、揃って呆れたような、ばかにしたような笑いを浮かべていた。
「あなた! 嫁の分際で口答えをするのですか! そんなことよりも、あなたには利蔵の嫁としてやるべきことがあるでしょう」
ああ……と嘆いた声をあげ、世津子は大げさな仕草でひたいに手をあてた。
「祝言をあげてからずいぶん経つというのに、跡継ぎもまだなんて! 子どもができない女など嫁にもらわなければよかった。あなたは外れです。子どもが産めない。それどころか、屋敷のしきたりにも従わない。こんな生意気な女だったなんて! 私たちは外れをつかまされたのです! すっかり騙されました。ああ、隆史もかわいそうに……こんな女にそそのかされて」
そんなことよりも?
自分のことを罵られるのはいっこうにかまわない。だが、鈴子の怪我をそんなことよりも、という一言で片づけた世津子に腹立たしさを覚えた。
この人たちは跡継ぎや家の体面の方が大切なのだ。だが、それも仕方がないこと。
利蔵は昔ながらの名家。跡継ぎを絶やすわけにはいかないし、家名を汚すことも許されない。
そもそも、価値観が違うことは以前から感じていた。
本当ならばここへ嫁いだ以上、利蔵家のしきたりに従わなければならない。
だが、雪子にしてみればそんな考えを持つこの屋敷の家風は肌にはあわないと今さらながらに思った。
雪子は手を握りしめる。
「ですが!」
「雪子、おまえが悪い」
さらに、この場に現れた隆史の言葉に、雪子は絶望を抱く。
それ以上、何も言えなかった。いや、反論する気力も削がれた。
口をつぐむ雪子を、世津子は理解してくれたと勘違いしたらしいが、雪子にしてみればこれ以上、話をしても無駄だと思ったから口を閉ざしたのだ。
その夜、隆史に厳しく問いつめられた。
もちろん、これも覚悟はしていた。
「あの男とは何もなかったのか?」
「どういう意味でしょうか」
おのずと口調が刺々しいものになってしまう。
「つまり! あの男と三日間も一緒にいて関係をもったりしなかったのかと聞いているのだ」
雪子は唖然とした顔で目の前の男を見つめ返した。
「私を疑うのですか?」
怪我をした鈴子を必死の思いで町の医者に連れていったというのに、この男は高木との関係を疑っているのだ。
そんなに自分の妻が信じられないのか。
それとも、そう思わせた自分が悪かったのか。
多分、後者であろう。
利蔵家は正しい。
悪いのは、嫁ぎ先に従わない自分。
「何もありません。あるわけがないです」
「だがおまえは村の嫌われ者の娘を町まで病院に連れていった。僕に断りもなく勝手な真似をして」
「嫌われ者?」
「あの父娘は村からはじかれている」
隆史の口からそんな言葉を聞くとは思わなかった。
正直、がっかりした。
「非常事態だと私は判断しました。それとも、隆史さんにお断りをしなければいけませんでしたか? そんな時間はありませんでした」
「雪子!」
「私を一方的に責める前にあの村医者に一言言うべきです。目の前に怪我人がいるというのに、その怪我人を放って飲みにいくなど医者としてあり得ません。他の者も例外ではないです。誰一人鈴子ちゃんのために手を貸そうとする者はいませんでした。この村の人たちは……っ」
そこで頬がかっと焼けるような痛みをともない熱を放つ。
耳の奥がじんとして痛んだ。
耳鳴りとともに視界が揺らぎ、自分の身に何が起きたのか理解するのに時間がかかった。
ようやく、目の焦点が結び始めて隆史に頬を張られたことに気づき、雪子は頬を手でおさえながら唇をきつく噛みしめる。
うつむいて唇を震わせる雪子を見た隆史も、雪子が泣き出すのではと思って眉根を寄せ申し訳なさそうな顔をつくる。
「すまない……こんなことをするつもりではなかった」
「いいえ……」
雪子は静かに声を落としただけであった。
唇を震わせたのは、込み上げてくる怒りのせいであった。
深呼吸を繰り返し爆発しそうな怒りを、かろうじてこらえた。
叩かれたことで心の何かが、音をたてて崩れ落ちていった。
「本当に高木とは何もなかったのだね?」
「ありません」
隆史がほっとした声をもらし雪子の頬に手を添えた。その手が徐々に下へと落ち首筋をなで、夜着の帯を解かれる。
「隆史さん、私……」
やめて。触らないで!
拒否しかけた雪子の唇を隆史はふさいだ。
抗うことは許さないとばかりに。
そして、隆史に抱かれた。
そんな気分ではなかったが、いや……もはや、雪子にとって隆史との行為は苦痛以外の何ものでもなかった。
早く終わって欲しいと心の中で叫んだ。
抱かれながら、ぼんやりと暗い天井を見つめる雪子の目は虚ろであった。
なぜ、こんなところに戻ってきたのだろう。
何を律儀に私は守り続けているのだろう。
静かに眼差しを閉ざす雪子のまなうらに映ったのは、別の人の姿。
彼の姿を思い浮かべた途端、胸のうちが熱くて苦しくて、切なく震えた。
気遣うように優しく肩を抱いてくれた、彼の手の温もりを思い出す。
いたわるような眼差しは、本心から自分のことを心配してくれる温かい目だったことも。
あの人が側にいてくれて、どんなに心強いと思ったことか。
雪子の目に涙が浮かんだ。
夫に抱かれながら、他の男性のことを思うなんて。
ことが終わって早々、頭まで布団をかぶり雪子は隆史に背中を向けた。精一杯の雪子なりの拒絶であった。
叩かれた頬がまだ熱をもったように疼く。
背中越しに、隆史が何か言いたげに自分を見つめている気配を感じたが、気づかないふりを貫き通した。
やがてあきらめたのか、隆史は枕元の灯りを消し布団に入り込む。
ほっとしたと同時に、雪子は眠りの底に落ちていった。
深い泥沼の底に沈んでいくように。
第39話に続く ー