フリーアナウンサー(元フジテレビ)の福原直英さんとトークイベントした

フリーアナウンサー(元フジテレビ)の福原直英さんを上岡馬頭観音マルシェのトークイベントにお招きした。

毎月催していたマルシェをひと段落させるにあたり、望外のビックネームだ。

皆さん驚かれたかもしれないが、実は知らない仲ではない。

共通の知人がいて、彼を介して何度か食事をしたことがある。

なので今回も彼を頼り、登壇をお願いしたところ快諾してもらったというのが経緯だ。

さて。ではトークイベントで何を話すのか?



ちなみにその「共通の知人」というのは変わっている方で、なんと愛読書は競馬四季報だという。

「競馬四季報」とは中央競馬全ての登録馬のデータベースとなる本。

それを彼は「ア」から読んでいたという。

しかも大体内容を覚えちゃってる。

尋常ならざる競馬オタクな人。



福原さんはそんな彼の友達だからというか、もちろん競馬番組の司会を務めるような人だから、やっぱりとにかく競馬に詳しい。

一緒に食事をした時も「何年の有馬記念で云々」なんて話がすぐに出てくる。



一方わたしといえば、管理している馬でさえ、名前がパッとは出てこない人間だ。

某Nノ宮先生との打ち合わせでも

「なんでしたっけ?あの鹿毛の、頬の張った、尻のデカい馬」

みたいな言い方をして苦笑されていたのもしょっちゅう。

とにかく競馬を知らないのがわたしだ。

ただ言い訳をさせてもらえば、わたしの競馬に対する無知ぶりは「四季報」の彼と一緒に仕事をするようになって酷くなった。

だってそばに詳しい人がいるから。

自分が覚える必要がない。

どのレースの話を聞いてもスラスラ答えてくれるから、わたしは一切の労力を競馬知識に注がなくなった。



だから福原さんとの会食中も、馬そのものの話であれば良いのだが、こと「何年の」みたいな話になるのは苦手だった。

無機質に口角を上げて、そっと視線を外す。

「あー・・」と魂がポッコリ抜け出していくような生返事を繰り返し、ひたすら話題が変わるのを待っていたのを覚えている。


だから、馬の話はやめようと思った。

トークイベントの趣旨からすれば本末転倒かもしれない。

けどやっぱり競馬の話はできない。

「思い出のレースは?」とか「好きな馬は?」とか聞いちゃったら、こっちの魂がいくらあっても、もれなく全て抜け出すだろう。

機械的にほほ笑むおっさんが、ずーっと「あー・・・」と生返事をし続けているのは、見ているほうも辛いにちがいない。



というわけで「いつから競馬好きなのか?」とか、福原さんの人生をなぞっていくような質問をしていくことにした。

トークイベント当日までの間、すごいと思ったのは話す内容について一切の質問がなかったこと。

伝えてあるのは、わたしが福原さんに質問をしていく形式でのトークイベントですよ、という事だけ。

さすがプロである。

どんな質問でもとっさに受け答えできますよ、という事なのだろう。


これは実は大きな勘違いであり、そもそも失礼であり、それによって魂が抜けだすどころか、トーク中に司会であるわたしが現実逃避をする、という大失態をすることになるのだが、とりあえずは読み進めてもらいたい。



当日。

残念ながら風がとてもとても強く寒い日となってしまった。

ウマ娘のパネルを屋外に設置するのを躊躇するほど。

そのせいか参拝者が全然・・来ない。

10時の「馬に乗って観音参り」に合わせて来てくれた人も、さっと居なくなってしまう。

かなり不安になった。

いくら温厚な福原さんといえど機嫌を損ねてしまうのではないか。

トークイベントは昼の12時開始予定で、30分前に福原さんが到着した時も、まだ人はまばらだった。

社務所で休憩してもらい、雑談。

5分前になって、急に人が集まりだした。

これだけ寒い風が吹いているから、みんな車中などで待っていたのだろう。

それはそうかと思いながら、やはりホッとする。

いよいよ時間となった。



「いつから競馬が好きなんですか?」の最初の質問。


言いたくはないが、冷静だったのは、この内容のトークの間だけ。

以降、わたしは完全にパニックに陥る。

今までのトークイベントでも、質問に対しての答えが予想以上に短かったりして、慌てて無理やり話を繋ぐ場面はあった。

今回は勿論そういう事ではない。

福原さんはさすがアナウンサーである。

いつまでも喋れるし、何ならわたしがずっと黙っていても喋り続けてくれるだろう。

活舌の良さ、内容の面白さ、話術そのもの、すべてがショーを見ているようだ。

なのに何故わたしはこんなにも慌てているのか。



それはわたしの(2つ目以降の)質問に対する福原さんの答えが予想外だったら。

本来、意外な答えが返ってくるのは楽しい。

むしろそれがトークイベントの真骨頂でもあろう。

えーそうなんですか!となってガンガン掘り下げていく。

そうやって本来盛り上がっていくべきだろう。

だが、福原さんの答えはそれ以上だった。



例えば、寿司職人に鮮魚の仕入れについて聞いたとして、どんな答えだったら驚くのか。

セリの始まる時間か、競り落とすまでか、仕入れる量か。

どれも想像を超えるものであれば楽しく掘り下げられるではないか。

だが福原さんの答えはそうではなかった。



「イヤ僕は寿司職人じゃないから。そば打ち職人だから。」



こう答えたのだ。

例え話ですよ念のため。

そもそもの前提が全てひっくり返ってしまった。

以降、考えていた質問が全て反故になってしまったのだ。

すると人はどうなるのか。


トークのプロであれば「じゃあ、そばの話を」となるのだろう。

だが、わたしはそうはいかない。

すでに魂は抜けて中空からわたしを眺めている。

要は他人事のように責任を放棄している。

そうなると不思議なもので寿司の話を続けようとするのだ。

だって、そばの話をされても困るのだ。

そば粉の原産について熱く語る福原さんに

「まあまあ、その話は置いておいて。でお魚は何処の市場で仕入れるのですか?」

とか聞いちゃう。

だから会話自体が成立しなくなる。

それでもさすがの福原さんである。

わたしの様子がおかしいと察したのだろう。

言葉のキャッチボールを始めるべく、気を利かせて色々なボールを優しく投げかけてくれる。

だがわたしは、あらぬ方向に打ち返すのならまだしも、それを完全スルー。

「で、どんな寿司を提供したいですか?」

と問い続ける。

わたしも会話が成立していないのは、どこかで自覚しているのだが、戻るべきレールが見当たらない。

よって、最後までわたしは寿司にこだわり続けていた。



帰りの車の中、ため息しか出なかった。

最初は「大丈夫?」と気遣ってくれた某夫人であったが、思い切って「今日のトークイベントの悪かったところを指摘してくれ」と言ったとたん豹変した。

「え、言っていいの?」

の前置きの後が凄かった。

「福原さんに頼りすぎ。打合せしてないなんて偉そうに言っていたけど要は丸投げじゃん。相手がプロだからって甘えてただけじゃん。トークイベントなのに福原さんの話全然聞いて無いじゃん。違うって言ってるのに同じこと何度も聞いてるし。」


力が入りすぎて半オクターブ声が高くなる某夫人。

寿司の呪縛から解かれなかったわたしにこれでもかと寿司を叩きつけてくる。

顔面が寿司ネタだらけになった気分だった。

うっすら涙もにじんでくる。

ごめんさない寿司は悪くないです。



帰宅後に撮影した動画の編集作業を始めた。

これが辛い。

今回はトーク中にお互いに黙ってしまう所とか、「アー」とか「エー」とか全然無い。

さすがの聞き取りやすい活舌で、字幕を付ける必要もないだろう。

だから本来作業は楽なのだが、とにかく辛い。

だって自分が寿司に憑りつかれている様を、何度も何度も繰り返す見ることになるから。


改めて見ていると福原さんの気遣いが溢れまくっていた。

異形の寿司妖怪と化したわたしに、根気よく優しい投げかけを続けてくれている。

だが寿司妖怪はそれをものともせずに「寿司がぁ寿司がぁ」と騒ぎ続ける。

これを延々と繰り返し見るわたし。

もはや羞恥プレイの様相を呈してきた。

―・-・-・-・-・

無分別とある


物事を比較せず、ありのままに受け入れる視点を持つことを意味する。

善悪、大小、優劣、長短など、特に相対的な観念に縛られてはいけない。

とはいえ区別能力は認識能力だ。

ものごとを理解する能力といえよう。

智慧の開発を促す知識的な働きということだ。

見るもの、聴くもの、嗅ぐもの、味わうもの、触れるもの。

もし区別ができなくなったら、単純に危険だろう。


だから問題は区別能力ではなく、先に比較判断をしてしまうこと。

ただ誰もが、ついそうしてしまう。

おいしいもの、美しいもの、高価なもの、人気あるもの、ブランドのもの。

これらを、つい「まず判断してから、区別してしまう」のがわたし達。

判断とは煩悩の感情であり、こころは感情に囚われていると自覚する必要がある。

わたしは福原さんを「判断」して、それから区別していた。

アナウンサーと区別する前に「競馬が好きだから」という「判断」が過分に入っていた。

全てにおいて、その前提が入り、先に「判断」してしまったので、福原さん当人の発言すら受け入れられず、自分の「判断」にすがり続けたゆえの大失態といえよう。

―・-・-・-・-・

辛い辛いと言いながら編集作業を続けるわたしに、某夫人が言った。

「なんか楽しそうだね」

そう。確かに楽しくなっていた。


ここまで不出来な自分を繰り返し見ているうちに楽しくなっていたのだ。

この感覚は修行中にもあった。

できない己を受け入れて、それを楽しむ。

関わってくれた人からすれば、なんと勝手な言い草かと思うかもしれないが、そうしなければ正直立ち直れないというのも事実だろう。


それにしてもだ。

この圧倒的にプロフェッショナルな福原さんの手際を生で感じて、さらには何度も何度も繰り返し見ることができるのはわたしだけだ。

そこには必然的にわたしの恥ずかしいシーンも含まれるのだが、有益でしかない。


残念ながらアップする動画はわたしの寿司へのこだわりはそれほど感じられないだろう。

だって編集しちゃうから。


動画中、質問シーン自体が無くて、テロップで「****は?」となっている時は、わたしが寿司ネタの鮮度にこだわっていたのだなと察して欲しい。

あと福原さんの投げかけをマル無視している部分は、面白おかしく編集しようかとも思った。

最初のうちは。

だが、あえてそのままにした。

これはわたしへの戒めとしてのオベリスクなのだ。

ごまかすことなく、そのままの今のわたしが此処にある。

このブログを読んだ人は、諸々察したうえで、もう一度動画を見て欲しい。

きっと面白いと思う。

だから寿司じゃないんですよ、蕎麦なんですよと延々繰り返す福原さんの慈悲を感じて欲しい。

読んでくれるかどうかわかりませんが福原さん、本当に失礼をしました。次回は無いでしょうけど、これを活かして寄り寄り傾聴&反応ができるように精進いたします。

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