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なんだよ牙狼って!~GARO-VERSUS ROAD-とは何だったのか~
ごきげんよう、WIREDです。
突然だが諸君は、『牙狼<GARO>』という特撮シリーズは好きだろうか。
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人間に憑依し人を喰らう魔獣ホラーと、人知れずホラーから人々を守る魔戒騎士、魔戒法師ら"守りし者"達の、古の時代から続く闘いを描く本作は、その美しくもグロテスクな唯一無二の世界観やストイックなヒーロー像、超人的でド派手なアクションシーンで深夜放送ながらジワジワと人気を獲得し、今現在に至るまで幾多もの続編や、異なる時代・主人公を描いた後継作が作られた。
かくいう僕自身もその独特の世界に魅了させられた一人であり、中学の頃にシリーズ触れて衝撃を受けた以来、成人を過ぎた現在に至るまで夢中になってシリーズを追いかけている。
……まぁ、こんな記事をわざわざ読むような人間なんて牙狼好きな人しかいないハズなので、社交辞令はここまでにしておこう。
というわけで本題に移ろう。
諸君は、『GARO-VERSUS ROAD-』を知っているだろうか。
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このタイトルを見て眉間にシワが走ったそこの君、そんな君のためにこの記事を書いてるからとりあえず最後まで読んでほしい。
冴島シリーズの集大成であり、冴島三代が集結した『牙狼<GARO>-月虹ノ旅人-』が大成功を収め、大いに盛り上がっていた牙狼界隈に、この『GAROVR』は突如として現れた。
「シリーズ15周年記念作品」と銘打たれ世に放たれたこの完全新作は、月虹で冴島一族への熱量が最高潮に達していたファンの期待を盛大に裏切り、なおかつシリーズのお約束をことごとく打ち破る挑戦的な展開に大いに物議を醸した。
「こんなの牙狼じゃない」
「牙狼でやる意味がない」
今なおTLやスペースでこうした意見をちょくちょく見かけるのだが、僕はこの作品についてこう断言する。
これは牙狼だ。
紛れもなく、むしろめちゃくちゃ牙狼だ。
正直、この作品を語るにおいて面白い面白くないは二の次であり、"牙狼シリーズとして"存在すること、そして世に出たこと自体に意味がある作品と言っても過言ではない。
この記事では今年で5周年を迎え、再放送もスタートしたシリーズ屈指の異端児『GAROVR』に宿る"牙狼らしさ"と、そこに込められた痛烈なメッセージを紐解いていこうと思う。
先に言っておく。この作品のコンセプトは「原点回帰」だ。
※本記事では、作品自体を「牙狼」、作中に登場する黄金騎士を「ガロ」と表記しているので注意されたし。
0.そもそも"牙狼らしさ"とは?
本作の時代では、我らが黄金騎士ガロは死んでいる。
それどころか魔戒騎士、魔戒法師も全て滅び、守りし者という概念が滅亡した末法の世なのだが、本作はそんな絶望的な状況など露知らず、日常を生きる一般人達がガロの鎧を巡るゲームに巻き込まれるという形で物語が展開する。
騎士でも法師でもホラーでもない、一般人の視点による牙狼。そんな"牙狼らしくない牙狼"は、これまでとは全く別の切り口で魔戒騎士、魔戒法師という救済を徹底的に描いている。
そもそもホラー絡みのゲームなんてシリーズでは手垢の付くまで擦られたネタであり、本作の放映中においても「でも最後はガロが助けに来てくれるんでしょ?」という声が多数あった。
しかし蓋を開けてみればガロはおろか魔戒騎士の登場すら絶望的な状況であり、ヒーローの助けなどないまま登場人物達は終盤まで黒幕の掌の上で転がされ続けることになる。そんな無情で非道、理不尽で衝撃的な展開に、視聴者の希望は完膚なきまでに破壊されることになる。
ホラーにおいても、これまでのシリーズであれば騎士や法師達にバッタバッタと倒されていた、いわば“戦闘員ポジ”だった素体ホラーが、本作ではNPCとしてプレイヤー相手に猛威を振るっている。
魔導具で力を制御されているとはいえ、目にも止まらぬ猛スピードで飛び回り、圧倒的パワーで標的を蹂躙する。ほんの少し制御を解放しただけであの天羽が吹き飛ぶほど、最後までプレイヤー達はなす術が無かった。
「遭遇したら最期、倒すことはおろか逃げることすらできずにほぼ即死確定」というこのホラーの理不尽さは、例え素体であってもホラーという存在が一般人にとってどれだけ恐ろしい脅威であるかが改めて提示されたと言えよう。
このように、守りし者不在の"牙狼らしくない"世界を通して、逆説的に守りし者の存在を描いているのである。
……というかそもそも、諸君は“牙狼らしさ“と聞いて、何を想像するだろうか?
煌びやかな鎧?
華麗に闘う魔戒騎士や魔戒法師?
不気味でグロテスクなホラー?
雨宮監督の和洋折衷の世界観?
緻密な造形物と映像美?
答えは、全てYESだ。
では、牙狼という作品からこれらを全て抜いたとき、一体何が残るのだろうか?
それは、思想だ。
ヒーロー番組がシリーズとして作品を展開していく上で、最も重要なものであり、絶対に失くしてはいけないもの。それこそが作品の根底を流れる思想、言うなればヒーロー哲学であり、シリーズ"らしさ"の根源、本質である。
この『GAROVR』では鎧や魔戒剣、ホラーはおろか、魔戒騎士、魔戒法師でさえも物語の主軸ではなく、ましてや雨宮作品を象徴する漢字演出や魔戒文字は本編に一切登場しない(なおこの作風はもう一つ深い意味を持つのだが、それは後述)。
本作は牙狼という作品からこれらシリーズを通したアイコン、ハッキリ言うなれば上っ面だけの牙狼らしさを殺し、一切排除することで、牙狼という作品の本質をえぐり出し、「ガロとは?ヒーローとは?」を問うているのである。
では改めて、牙狼らしさこと"牙狼の本質"に迫っていこう。
1.光と闇の人間賛歌
牙狼シリーズでは、人間の邪心=陰我をゲートに絶えず出現するホラーと、それに立ち向かう勇気ある「守りし者」達という構図を通じて、「光と闇を併せ持ってこそ人間の営みであり、それを第三者が奪ってはならない」という、所謂人間賛歌を掲げている。直近だと『牙狼<GARO>ハガネを継ぐ者』での道外流牙の「俺が肯定しているのは人間だ!」というセリフがわかりやすい例だろう。
どんな人間にも闇はある。しかし同時に眩く輝く光も確かに持っている。この尊き光を信じて、人間は守るべきである。無論、私利私欲のために人を殺めるような人間は遅かれ早かれしっぺ返しを食らうことになるが……
さて、『GAROVR』にてゲームに集められた者達は、アウトローや我欲が強かったり一見無害そうだが強い狂気や暴力性を秘めていたりと、皆強い陰我を生み出す素養を持った者、すなわち歴代シリーズならばホラーに憑依される立場の人間である。
それは主人公空遠世那も例外ではなく、困っている人を放っておけないお人好しな性格ながら、アザミに他者への疑念を増幅させられた際やナグスケを殺害された際などに激しく陰我を発露させている。
そんな陰我にまみれたプレイヤー達だが、話数とゲームを重ねるにつれ、心の奥底に隠された"光"が姿を現していく。幾つか例を挙げて説明しよう。
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奏風大はそもそも半グレという負の世界の住人であり、裏社会でのし上がるために暴力の嵐に自ら飛び込んでいく凶暴な男だが、#8でアンデッドに変貌した際に天羽との約束である決着をつけるために自我を取り戻し、彼と誇りをかけて最期まで戦う姿には、紛れもなく輝く意志があった。
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香月貴音は幼い頃に同級生二名と担任教師を殺害した少年Xであり、平気で殺人も辞さない狂気に満ちた青年だが、その根底には「ただ普通の人間らしく生きたい」という純粋で悲痛な願いがあった。
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ナグスケこと南雲大輔は始めは他者を利用し貶めるバズと金目的の卑劣な配信者だったが、ゲームの異常性とその背後で蠢く闇にいち早く気付き、次第に正義の怒りを胸に真実を追うジャーナリストの様相を見せていった。特に#11での怒涛の活躍と奮闘は語るまでもないだろう。
このように、それぞれが明確な陰我を持っていると同時に、その中で微かにでも輝く光を持っている。いつホラーに憑依されてもおかしくないような陰我にまみれた人間でも、守るに値する光は確かに存在するのである。
本作ではその輝きの美しさと尊さを、陰我という光と闇のコントラストをもって鮮烈に描いているのだ。
「闇もあれば光もあるのが人間、この光を奪ってはならない」と。
また、この要素に付随して特筆したいポイントがもう一つある。
それは、「義憤の肯定」である。
陰我の一つに、"怒り"があることは諸君も十分知っているだろう。
大切なものを奪われた怒り。
自分を虐げる者への怒り。
己の心を踏みにじった者への怒り。
他者への嫉妬心が転じた怒り。
等々、牙狼シリーズではこれまで様々な怒りにつけ込まれ、ホラーに憑依される人間の姿を描いてきた。『GAROVR』でも、天羽が殺害された怒りで空遠から爆発的に陰我が放たれ、ベイル誕生の最後の一押しとなっている。
ではどうしようもない理不尽、非道を前にして、怒ることは果たして悪なのか?
歴代の主人公や他の魔戒騎士達も、目の前の邪悪に対して怒り、戦ってきた。その怒りは悪なのだろうか?
──答えは否だ。#11の、ナグスケのこのセリフを思い出してほしい。
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でもなぁ、こんなことされて怒らないなんてできるか…?
怒れよ空遠、俺たちを弄んだやつらに食らわせてやれ…それで全てひっくり返してやれ……!
怒りは確かに陰我だ。怒れば怒るほど葉霧達の思うツボであり、陰我は発露しガロの鎧はダークメタルで満たされていく。
しかし、こんな理不尽を前にして、怒らないなんてできない。否、怒らなければならない。
陰我だろうがなんだろうが、思う存分怒ればいい。この怒りは下劣な悪なのではなく、邪悪に立ち向かう高潔な"正義の怒り"なのだから。
陰我でありながら、燦然と輝く光。
この正義の怒りこそが、悪を倒す剣となり、拳となり、鎧となる。
正義の怒り、義憤は肯定されるのだ。
また、上のナグスケのセリフについて、どこかで似たフレーズ、文言を聞いた覚えはないだろうか?
……そう、シリーズを代表するOP曲『牙狼〜SAVIOR IN THE DARK〜』の「怒りの刃叩きつけて」という歌詞。あのセリフはこの歌詞のオマージュなのである。
このように、無印の時点でほんのり触れられていたこの「義憤の肯定」という概念を、本作では作中にて明言、言語化し、本作に留まらず歴代の守りし者達をも肯定するファクターとして用いた。
そして騎士ではない一般人の視点で守りし者の根底にあるこの"怒り"を描くことで、その概念をより身近に、騎士だけでなく僕らでも実践できることだと説いているのである。
この理不尽に対する正義の怒りは、人間誰しもが守りし者になれる第一歩であり、それを肯定することで原点である『牙狼<GARO>』に回帰し、歴代シリーズで掲げてきた「人間という存在の強さ、素晴らしさ」を讃えているのだ。
この章を〆るにあたって、ナグスケのあのセリフを引用して次の章に移ろう。
世に蔓延る悪や不正を見逃すな!
見て見ぬ振りはお前の心を蝕み、あっという間に腐らせる。
目を背けるな!拳を上げろ!戦え!
信じれば誰だってヒーローになれる。
2.受け継がれる想い
牙狼シリーズを構成する重要な要素の一つとして、「想いの継承」というものがある。
守りし者達、特に名有りの魔戒騎士の間ではこの概念が恐ろしく重要視され、先祖代々守りし者としての使命や誇りを親から子に伝えることで、未来へと繋げてきた。
また、親から子だけでなく、これまで出会い共に戦ってきた盟友達、更には英霊となって見守っている歴代の継承者の想いを背負い、その想いを力に変えて守りし者達は戦ってきたのだ。
前作にあたる『月虹ノ旅人』では、シリーズを通して描かれてきたこの概念を全面に押し出し、「人から人へ受け継がれる想いこそガロの真髄」としてシリーズの集大成を締めくくった。
では、その全てが失伝してしまったら?
そんな最悪のIFを描いたのがこの『GAROVR』なのだが、無論この作品でもその魂は消えてはいない。
「人から人へ受け継がれる想いこそがガロの真髄」と説いた月虹に対し、本作は、
「一般人でもガロを継げるのか?」
「赤の他人でも想いは継承されるのか?」
と月虹のカウンターともいえるテーマを描いている。
「月虹の後にVRをやったのは運がなかった」という声があるがそれは大きな間違いであり、むしろ必然なのだ。
一般人達による群像劇という体裁で描かれた本作は、当然ながら登場人物の間に血の繋がりなんてものはなく、ましてや職業や年齢もそれぞれ異なる完全な赤の他人である。
そんな一般人100人が魔界に召還され、凄惨なゲームに挑んでいくことになるのだが、血で血を洗うような極限状態を重ねる内に、友情(に近い感情)がプレイヤーの間で芽生え、共有されていく。
そしていつしかそれは、「生き様を背負う」という形で赤の他人同士の"想い"を繋げていくことになる(後述)。
それを何度も繰り返し、最終回での眩い奇跡へと繋がっていくのだが、そもそもこのゲームの中で描かれたもの、特に空遠の行動には、最終回に至る、すなわち真の守りし者に至るにおいて必要な要素、そして段階を踏んでいたことに気付いただろうか。
ではここからは、改めて各ラウンドでの空遠の行動と、それを踏まえたそれぞれのゲームが意味したものを振り返る。(なお、あくまで『GAROVR』という作品における意味であり、作中においてこの殺し合いに意味などない)
※所謂ストーリー解説なので、某K氏のように本編を理解してる人は「2章総括」までジャンプ推奨
誰か為に戦うのか
まずは一回戦。NPCとして現れたホラーからの命懸けの鬼ごっこが突如として始まるが、ここで特筆すべき点は勿論、空遠が星合をかばい、彼を守るために戦ったことである。
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この時点ではプレイヤー達は皆、この殺し合いが現実だということを知らず、あくまでリアルな質感のVRゲームとして、プレイヤー同士NPCホラーから生き残るために蹴落とし合っていた。
しかし空遠は、親友である星合の危機を前に迷うことなく立ち上がり、星合を殺害せんとする浪岡に敢然と立ち塞がった。そして浪岡をその拳で見事撃破する。
ボクシングを嗜む空遠にとって己の力そのものと言える拳を、彼は真っ先に己の欲望のためではなく親友を守るために振るったのである。
「自分以外の誰かのために力を行使する」
特別な力を振るう守りし者の前提条件を、空遠は無意識で実行していたのである。
続く二回戦では、ダンジョンからの脱出に必要な「鍵」を巡る争いが巻き起こる。
NPCホラーにプレイヤーを補食させることで鍵がドロップすると判明し、他のプレイヤーを貶めホラーの餌食にする者、限られた鍵を奪い合う者とプレイヤー達がエゴを剥き出しにして争い合う中、空遠だけがアイテムを鍵に変化させられることに気付き、直接的にも間接的にも犠牲者を一人も出さずにダンジョンから脱出した。
一回戦で浪岡を倒した際、空遠はあくまでゲームだと知覚しながら「自分は人を殺してしまった」と感覚で悟り、ゲームの最後にプレイヤーの殺害をあと一歩のところで踏みとどまった。
そしてこの二回戦において、一回戦を経て誰も殺したくない、傷付けたくないという想いが深層心理にあったからこそ、空遠はアイテムを鍵に変えるという誰も思い付かなかった抜け道に気付いたのである。
あくまでこれは僕の推測だが、この一人の犠牲者も出さない攻略法は、恐らく葉霧達はおろかこの殺し合いを生み出した士導院すらも想定したものではなかった。
空遠の「誰も傷付けたくない」という強い想いが、敵の想像を超えた活路を切り拓いたのだ。
この意志は、ゲーム序盤での空遠の行動に最も強く表れている。
無力な男(灰原)に集団リンチを行う男達を制した際、激情し襲い掛かってきた男達を空遠は迎え撃つが、勢い余ってその一人が落下しそうになる。
その時、空遠は咄嗟に男の手を取った。そして迷うことなく他のリンチしていた男達にも声をかけ、共に男の命を救ったのである。
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……お前らも早く助けろよ!!
一、二回戦にかけて、空遠は己の私利私欲のために潰し合い、殺し合うプレイヤー達の陰我、醜さを痛いほど目の当たりにし、苦しめられてきた。
それは、「こんなにも人間は醜く愚かな存在だが、それでも守るのか?」と空遠、そして僕ら視聴者を試すかのように。
そんな中でも、彼は目の前で命が消えようとしている者を先程まで集団リンチをしていようが決して見捨てず、一切の躊躇いもなく咄嗟に手を差しのべたのだ。これをただのゲームだと理解しながらである。
「誰であろうと困っている人を見捨てない」
最終回でも言及していた人の痛みに寄り添える心を、空遠は最初から持ち合わせていたのだ。
三回戦、アザミの策略によって星合がホラーに憑依されてしまい、完全にホラー化する前に殺さざるを得なくなってしまう。
星合の「殺して」という頼みを受け空遠は彼を介錯しようとするが、小学校の頃からの親友を前に躊躇し手が出せない。
そんな空遠を前にし自分を殺せないと悟った星合は、今にも消え入りそうな意識の中で最後の力を振り絞ってチョーカーの自爆ボタンを押し、塵となって消えた。
陰我を持つ人間に憑依するというホラーの特性上、そして心が暗黒面に囚われ闇に堕ちた騎士、法師のケースを踏まえ、守りし者が家族、友人など大切な者と対峙し、手に掛けなければならない可能性は少なからず存在する。あの御影神牙でさえ成し遂げたし。
たとえ大切な者だとしても、ホラーと化した、もしくは闇に堕ちた以上斬らなければならない。その「いざという時は大切な者でさえも殺す覚悟」を、一般人である空遠は持ち合わせていなかった。しかし星合は、アザミの洗脳で自分に不信感をぶつけてきた空遠を最期まで案じ、彼のために自ら死ぬ道を選んだのである。
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「僕は人の命を奪わないと手に入らないようなものは欲しくない!」
「戦わないと…死ぬんだぞ……!」
「それでも!僕は誰も殺したくない!そして何とか、このゲームを終わらせたい」
「そんなの俺だって!当たり前だろ!でも…そんなの綺麗事だ」
覚悟を持っていたのは、あの場で誰よりもこの殺し合いを終わらせたいと願い、「綺麗事」を貫いた星合だったのである。
こうして大切な者を失ってしまった空遠だが、歴代の主人公も皆、どこかしらで大切な者、とりわけ家族と死別、離別している(鋼牙における大河、流牙における波奏、レオンにおけるアンナetc)。
「他人同士による想いの継承」を目指した『GAROVR』において、その役割はズバリ親友である星合だろう。星合を救ってあげられなかった空遠は、ここで己の不甲斐なさ、「覚悟ができなかったことの意味」を痛感することになるのである。
自爆する間際、星合は形見となるキーホルダーの剣を空遠に託す。その剣は、空遠と星合との友情の証であると共に、星合が最後に託す"想い"の象徴だ。
星合が剣を通じて空遠に託した、「ゲームを終わらせたい」という切なる想いと覚悟は、続く四回戦で大きく実を結ぶこととなる。
生き様を継ぐ者
星合の死を受け悲しみに暮れるまま始まった四回戦、ゲーム開始後も独り戦えないまま苦悩する空遠に業を煮やした天羽は、彼に己の本心をぶつける。
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「俺には、守るものがある!」
「守るもの……?」
「俺自身の誇り!……今のお前を見て、あいつは何て言う!何のためにあいつはお前を生かした!!」
天羽のポリシー、それは「己、そして他人の生き様と誇りを守る」こと。
目の前に立ち塞がるもの、己に危害を加えようとする者がいるなら誰であろうと真っ向から立ち向かう。
戦うこと、抗うことが天羽の生きる術であり、自身の誇りを守る術であり、生き様であった。
しかし、高い志を持つ者、誇りを持つ者はそれを尊重する。たとえ命を守ることはできなくても、それが相手の命を奪うことになるとしても自分自身の手で決着をつける。
相手の存在を認め、それを背負って生きていくこと。それが天羽なりに相手の生き様を肯定する、想いを受け継ぎ"守る"ことなのだ。
それに対し空遠は、せめて人間として親友に殺されたかった星合を介錯してあげることもできず、想いを託されても本人の死から立ち直れずにいる。だから天羽は、彼に己の生き様をぶつけたのである。
星合の死を、誇りを、生き様を、尊厳を無駄にしないために、覚悟を決めろと。
それでもなお踏み出せない空遠に、天羽と奏風は己の生き様を見せつけるように戦い合う。それは人ならざるアンデッドと化した奏風を介錯するためであり、「決着をつける」という彼との約束を果たすため。互いの誇りのための、純粋な魂のぶつかり合いだった。
親友に魔剣で斬られ、人間として満足そうに死ねた奏風と、それを受け止めた天羽。親友の生き様を守った男の姿を見て、初めて空遠は想いを継承することの本当の意味を理解した。
こうして遂に自分達を弄ぶ邪悪と戦う覚悟を決めた空遠は、アンデッドと化し本能のまま暴れる日向を前に、99.9秒を過ぎると心滅するリスクすら恐れず魔剣を手に取り、奴に突き立てたのだ。
腕のキーホルダーが金色に輝いたその光景は、星合の持つ覚悟と「こんなゲームを終わらせたい」という想いを空遠が”継承”した瞬間だった。
「生き様を背負い、誇りを守る」
#7,8で提示されたこの概念は、シリーズを通じて描いてきた「想いの継承」を、力を持たぬ我々一般人にも則した新たな形として再解釈した。
騎士でも法師でもない一般人同士でも、想いは継承できる。
そしてそれを、力に変えることができるのだ。
決勝戦、残ったプレイヤーは4人。それぞれが闇の中で光を信じて戦ったその想いが、戦いを通じて伝わっていく。
天羽は貴音の「生きるためには戦うしかなかった」という悲痛な叫びを、同じ哀しい宿命を背負った者として受け止め、決着を付けた。
ナグスケはアザミに抗い、その邪悪な心に打ち勝った姿を見せつけると共に、ゲームの真実を空遠に教え、己が抱いてきた「正義の怒り」を託して事切れた。
慟哭し、何度も噛み締めるように「絶対に許さない」と怒り、激しく陰我を発露させる空遠の胸には、ナグスケから受け継いだ正義の怒りが吹き荒れていた。
散ったプレイヤーの想いと生き様を背負った空遠と天羽。二人の胸にあるのは同じ「ゲームを終わらせる」という意志であり、勝ち負けなどどうでも良かったのだ。勝った方がこの悲劇に終止符を打つ、ただそれだけ。だからこそ二人は、四回戦での奏風と天羽のように、己の信念と誇りのままに正々堂々とぶつかり合った。
天羽が己の負けを悟った際に奏風のことを話したのも、死ぬ前に己の想いと生き様を空遠に託そうとしたからだろう。
天羽が倒れ、空遠は勝った。殺し合いの上に成り立つガロという存在を否定し天羽を殺さなかった空遠の姿は、かつてガロになるために五五を斬った葉霧とは対照的であり、その心に陰我はなかった。それに憤慨した葉霧によってベイル完成のために天羽を殺害された時、天羽は空遠に最後の想いを託す。
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勝て……お前は、俺たちの希望の光だ……!
泣くな、生きろ……!!
葉霧の非道を前に怒りを爆発させるが、無情にもガロの鎧は砕け散りベイルが顕現する。
しかし空遠はそんな絶望的な状況に怖じ気付くことなく、“陰我を断ち切る“決意を固める。その想いに応えるが如く天から牙狼剣が現れ、英霊の声が彼を導く。
そして空遠は牙狼剣を引き抜き、黄金騎士ガロとなった。
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星合の覚悟、貴音の純粋なる願い、奏風と天羽の想いの継承、ナグスケの正義の怒り、そして「生きろ」。
彼らの光、そして今までこのゲームに怒り、苦しみ散っていった全てのプレイヤー達の想いを継承した時、このヒーロー亡き暗黒の世界に一人の「守りし者」が誕生した。
それは「どんな望みでも叶う」という偶像に縋ることなく、「もう誰も殺さない」という綺麗事を貫いた、騎士としての血も知識も鍛錬もないただの一般人である空遠の精神が、過去の英霊達に真の守りし者として認められるものにまで成長したことを意味していた。
鎧という偶像が砕け散っても、本当のガロは、希望の光は空遠の心の中にあったのだ。
それに呼応するように虚空から現れた牙狼剣と鎧は、ガロ亡き世界に「ガロ」、そして「牙狼」という概念が蘇った証なのだ。
最終決戦
これまでの11話で受け継がれてきた幾多もの想いが、ここで結実する。
本来、魔戒騎士である葉霧と一般人である空遠では絶望的な実力差があり、到底叶う相手ではない。事実剣での戦いにおいて、鎧を纏う前後を通して葉霧=ベイルに蹂躙されていた。
素手でも押され、今にもベイルに絞め落とされようという時、戦友達の“想い“がよぎり大きく形勢は逆転、見事ベイルを撃破する。
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かつて歴代の黄金騎士達は、人々の想いを受け取ることでガロの鎧に幾多もの奇跡を与えてきた(翼人、光覚獣身、双烈融身etc)。
この『GAROVR』でも、散っていった戦友達の想いに鎧が応え、ガロを上回る力を持つベイルを打ち破るほどの爆発的な力を発揮したのだ。
ガロの象徴である剣を捨て、慣れ親しんだ素手でベイルに挑んだのは、ガロの心を持ちながらゲームに苦しめられた一人の一般人として怒る、すなわち「ガロでありガロでない」空遠世那という人間のあり方の象徴だ。そして戦友達の技を用いて戦ったのは、空遠自身そしてガロの鎧が沢山の想い、生き様、誇りを背負っていることの証明であり、言うなれば『牙狼<GARO>』最終回での「俺は一人ではない!」や、『月虹ノ旅人』での「一つではない!」のオマージュであると言える。
ガロの鎧は、“その想いを、姿を、希望として未来へ運ぶ鎧“なのである。
2章総括
この悲惨な殺し合いの中で、空遠は幾多もの想いを継承し、正義の怒りを叩きつけたことで、一般人でありながらガロの鎧を継承した。
人から人へ受け継がれる想いは誰だって例外ではなく、その想いが人を、そしてガロの力になる。
『月虹ノ旅人』で描かれたテーマに、本作では全く異なる切り口でアプローチし、カウンターという名の補完を叩きつけた。
そう、どんな状況でも「人から人へ受け継がれる想いこそガロの真髄」なのである。
ただ、強いだけではガロ足り得ない。しかし正しく強い“守りし者の心”を持てば、誰しもがガロになり得る。
守りし者は心から。せっかくなので、この際ハッキリと断言しよう。
理不尽に怒り、人に寄り添える正しい心こそ守りし者の本質であり、その上で想いを背負い戦う者こそガロなのである。
それこそが"牙狼らしさ"であり、ガロという概念なのである。
3.偶像と本質
さて、ここまで“ガロと守りし者の本質“の話をしてきたが、本作ではそれに対比するが如く徹底して描いているものがある。
当時観ていて一番衝撃を受けた要素であり、この記事で最も伝えたかったこと。
ここからがこの記事の肝である…というか、実をいうとこれまで書いてきたものは全てこの章の前フリであり、このためのあの長文と言っても過言ではない。
というわけで、改めてお付き合い願おう。
形骸化した偶像
まず単刀直入にいうと、『GAROVR』の舞台は「ガロ=牙狼が死んだ世界」である。
騎士も法師もほぼ全滅と言えるほど大きく数を減らし、ただの殺し合いでガロを生み出せると本気で信じているほど教えや伝統は失伝・曲解され、ホラーを制御し傀儡にするほど士導院は腐敗し切っている。
「人々を守りたい」という志を持つ騎士達は、ホラーから人々を守れぬまま絶対にガロになれない選抜試験で皆無意味に命を散らす。
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こうして未来への可能性を持つ若い芽が同じ守りし者の手によって潰されていき、希望の光の象徴であるはずのガロの鎧に騎士達は憎悪をぶつける。
生き残った葉霧によって導師達が虐殺され、守りし者は完全に滅亡した。ホラーの情報が一般社会に筒抜けなのもそのためである。
その後も、葉霧達の手によって無意味な殺し合いは続いてしまう。「GARO-VERSUS ROAD-」などというバカげた茶番の景品に祭り上げられ、ガロの存在によってガロに守るべき一般人が血を流し、鎧は一般人の陰我で満たされていく始末だ。
そんな救いのない世界に、英霊達は愛想を尽かした。
牙を閉ざし、曲線構成から直線構成になったガロの鎧はそんな英霊達の心の表れであり、その瞳から溢れるダークメタルは、人々に陰我を向けられ世界に、そして人間そのものに絶望した彼らの涙だろう。
ガロは死に、騎士や法師は全滅し、根底に流れる守りし者の心すら失われた、言うなれば英霊に見捨てられた時代が本作の舞台である。
このように、本作ではあらゆる側面でガロという存在を冒涜、尊厳凌辱する形で、ガロが、そして守りし者が死ぬことの意味を徹底的に表現している。
そもそも前述の通り、本作に雨宮監督らしいアイコンは一切と言っていいほど登場しない。
騎士も法師もホラーもほぼ登場せず、肝心の鎧は浮いているだけ。ファンタジックな世界観の筈なのに全体的にSFチックな映像であり、法術ですらもATフィールドじみている。漢字も魔戒文字も登場せず、タイトルも「GARO」のみ。
これまで故意に排してきた「時代がわかる描写」を当然のごとく入れ込み、アクションもスタイリッシュどころか泥臭い。画の派手さも皆無で良く言えばソリッド、悪く言えばチープである。
シリーズを通して守ってきた「雨宮監督らしさ=偶像としての牙狼らしさ」を殺しその真逆をいくことで、本編内外のあらゆる角度から存在としてのガロも作品としての牙狼も死んだ、アンチ牙狼とでもいえる世界を構築しているのだ。
観ていて「こんなの牙狼じゃない」と思ったそこの君、その考えはある意味間違っちゃいない。
中盤までどう見てもこれまでのシリーズとは大きく逸脱したデスゲームを見せ、視聴者に「俺の知ってる牙狼じゃない!」と思わせ、後から「そうだよ?君の知っている当たり前は全て破壊されてしまったからね?」とカウンターを叩きつける構成として製作陣は狙って作っているのだから。こう思ってしまった時点で、製作陣の掌の上なのである。
──では、一体なぜこんなことをしたのだろうか?
ガロと守りし者の本質と共に『GAROVR』が描こうとしたもの、それは「偶像崇拝の否定」だ。
牙狼シリーズが誕生してから十数年が経ち、幾多もの作品やパチンコが世に出され、沢山のファンが生まれた。
しかし同時に、既存のキャラや設定に固執し新しいものを受け入れられず、「こんなの牙狼じゃない」と考えなしに否定するファンが増えたり、パチンコの演出のために作られる作品にシリーズ自体が成り果てたりと、ハッキリ言って牙狼という作品における偶像の形骸化が深刻化しているのは認めざるをえない。
#9にてアザミが言った、「あれ(ガロ)が大好きな人達はみんな陰我でいっぱいだもの」というセリフは、まさにそれを痛烈に皮肉っている。
そんな形骸化した偶像の崇拝を上記を始めとした様々な切り口で戯画化し、構築された「ガロ=牙狼が死んだ世界」。本作ではそんなゼロスタート、いやマイナススタートの中で空遠世那という何も知らない一般人がガロになるという過程を通して、偶像としての形だけのガロ=牙狼を否定し、シリーズの本質を問直しているのだ。
その「偶像」を最も投影させた存在が、本作の黒幕である葉霧宵刹である。
(当然とはいえ)ガロに選ばれず拗らせた結果、ガロを超える"史上最強の守りし者"になるために守るべき人間を生贄にする本末転倒なゲームを始め、そうして生み出した力を人々を守るためはおろか世界支配のために用いようとする。
「強い力を持つものが守りし者」、ただそれしか見えておらず、空遠に敗北してもなお彼をガロと認めようとしなかったこの哀れな男は、騎士や鎧という形だけに囚われ、作品の本質を見失った業界、界隈、そして僕らファンそのものといえる。
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「こんな不甲斐ない男に、どうやって世界を守れる…なぜ私を選ばない!…ガロを、超えたかった…守りし者になりたかった……!」
「お前は何と戦い、何を守った?自分の正義を振りかざし、守ったのは自分だけ……!」
ガロに固執し、ヒーローという名の形だけの偶像、ただの力に縋り続けた結果、守りし者の本質を、人々を守ることの意味を見失い大勢を殺した葉霧。
どんな絶望の中でも決して偶像に縋らず、何も知らない一般人でありながら守りし者の本質、すなわち心を得ていた空遠。
この二人の対比は、本作が問うている「偶像と本質」の象徴だ。そして空遠が葉霧を倒しその間違いを看破することによって、その形だけの偶像を完膚なきまでに破壊、否定するのである。
鎮魂歌
ラストシーン、空遠はガロの称号を放棄し、ただの人間として生きる選択をする。
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「あなたはガロとして生きる運命だったのね」
「ガロとして生きるわけじゃない」
「……ではなぜ生きる?」
「俺が死ぬことは許されない。だから、ただ生きる」
希望のない世界で、彼は希望となりうる力を自ら捨てた。
しかしそれでこの世にヒーローは生まれなかったという結論は大きな間違いである。
ヒーローは、守りし者は確かに誕生した。
この戦いの中で、空遠は幾多もの戦友達の想いを受け継ぎ、最後に「生きろ」と託された。
ここで牙狼剣を引き抜いたならば、ゲームで散っていったプレイヤー達の誇りや生き様を否定し踏み躙ることになってしまう。
それをせず、彼らの想いを背負って生きることで、空遠は彼らの誇りや生き様を"守った"のだ。
またラストシーンにおいて、牙狼剣は人間の血に塗れていた。本来、召還後の武器が血に汚れるなどありえないことである。
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この血塗れの牙狼剣は、人々を守るための力が、守るべき人間の手によって穢されてしまったことの象徴だ。黄金騎士ガロという英雄は、人々の意味なき犠牲と、悲しみと憎しみの連鎖の果てに成り立つものになってしまったのである。
それはシリーズが始まって15年という歳月の中で、ガロという存在が極端に祭り上げられ歪んでしまったことを暗示しているともいえる。
そもそも牙狼剣はガロという存在にとってシンボルだが、空遠にとっては忌まわしい力の象徴でしかなく、そもそも鎧も剣も単体ではただの力でしかない。
そんな穢れた力を放棄することで、この「人々の犠牲の上に成り立つ力」を否定し、殺し合いでガロを、ヒーローを生むことはできないと改めて定義したのである。
これを見て「どうしてガロにならなかったんだ」と否定するならば、それは間違った解釈で大勢の騎士達を犠牲にした士導院の導師達と何も変わらないということを肝に銘じなければならない。
こうして空遠は牙狼剣を放棄することでプレイヤー達の生き様を守り、人々の犠牲で成り立つ力を否定した。自分以外の誰かのために、彼は力を捨てたのだ。
葉霧は戦いの最後まで剣を手放さず、死に際に放った言葉も「ガロよ……!」と最期の時まで力に執着していた。
対して空遠は、剣を手放したまま素手で戦い、プレイヤー達を守るために牙狼剣を、ガロの称号を放棄した。
自分以外の誰かのために力を行使し、自ら力を捨てられる者こそ真の守りし者に相応しいのである。
それはかつて、冴島鋼牙がハガネの状態でエイリスに苦戦する雷牙の未来を見て、躊躇うことなくガロの称号を譲渡したように。
仮にここで牙狼剣を抜こうとしたならば、英霊達は空遠を見放し、二度と剣は抜けなくなっただろう。
剣を捨てたことで、英霊達は空遠を真の守りし者、ガロと認めたのだ。
アザミの行方はわからない。
空遠の輝く意志に感化され世界を静観するかもしれないし、手に入れたダークメタルで再び世界を闇に包もうとするかもしれない。
しかしどちらにせよ、この世界に再び危機が訪れ、人々の命や尊厳が脅かされそうになった時、牙狼剣は再び空遠の元に飛んでくるだろう。
そして空遠も躊躇うことなく剣を引き抜き、人々を守るために邪悪に立ち向かうに違いない。
ガロの称号を持たずして、ガロである者。
空遠世那は現代を生きる守りし者である。
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終章
正直な話、この『GAROVR』はかなり歪で不親切な作品である。
宣伝でデスゲームを謳ってるくせに本題そこじゃないし、(意図的とはいえ)視聴者がテーマを理解できるようになるのは中盤以降でそれまで一切の説明もなしにストーリーが進むし、守りし者サイドの状況があまりにも説明不足だし、JAMのカッコいい主題歌をバックに無双するヤクザとか吹っ飛ばされて5回跳ねる貴音とかシュールな絵面が割とあるし、そもそも(意図的とはいえ)映像面の面白さは歴代シリーズのそれと比べるとほぼ皆無に等しい。
しかし、テーマが明言化された瞬間作品の見え方が180°変わる構造はとても鮮烈で、最終回のガロ召還に向かって様々な要素が集束していく展開は本当に素晴らしい。
何より、15周年という節目にシリーズの根源に全力で向き合い、批判前提で本作を世に出した姿勢は大いに評価できる。
今の牙狼シリーズの状況に疑問符を投げ掛け、これまでとは全く異なる切り口で、それでいて真正面から守りし者を描いてみせた本作は、紛れもなく「牙狼」であるといえよう。
初心忘るべからず。シリーズ15年目の原点回帰、それが『GAROVR』なのである。
ロクに本質を見ようとせず、「こんなの牙狼じゃない」と否定する者達よ、
"お前は殴らないと理解らない"
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