永遠の「王子」としての兄と僕

「我が家の物語は、ひとえに“兄の機嫌”によって動いていた。」

今振り返れば、それがどれほど異様だったかが分かる。今の僕の視点から見る兄と母の関係は、まさに『家族劇場』と呼ぶにふさわしい。母は我が家の主演を兄に譲り渡し、脇役たる自分と私が支える…
ただし、兄のその“王子気分”が不動なのは、母の徹底したサポートによるものだ。そして僕は、小さい頃からずっとそのおこぼれ役として機能していた。今なら笑い飛ばせるが、その頃の僕にとっては不条理の一言に満ちていた。


ある日の朝、リビングのドアを開けると、そこには、気だるそうにソファに沈む兄の姿があった。案の定、理由はコーヒーの温度が気に入らないだの、空気が少し湿っぽいだの、そんなくだらないことばかりだ。今思えば、「この歳になって、まだこんな小さな不満にしがみついていられるのか」という呆れさえ持っていたかもしれない。そしてそんな「理由」に振り回されるほど滑稽なものはないが、当時の母にとって、兄の機嫌は国家レベルの一大事であり、母はまるで王のために仕える臣下のようにあれこれと気遣っていた。

そして母は、当然のようにその”王子”へお伺いを立てる。
「◯◯くん、何か食べる?」

…いや、待ってくれよ母さん。なぜ僕の朝食の心配は常に後回しなんだ?母にとって僕は17歳でありながら、まだ世話が必要な存在のはずだ。にもかかわらず、20歳の兄だけが変わらず王子扱いだった。

ただあの時は、そんなことが日常だった僕には一瞬不満を湧き上がるもの正常な感覚も麻痺していたのだろう。母に抗議するわけでもなく、ただ自分でご飯を準備していた。


そしてそんな朝食が終わろうとした時、兄が突如として「海外に行く」と言い出した。それはまるで朝の天気の話でもするかのように唐突で、根拠も計画も何もないものだった。僕が「何しに行くの?」と聞けば、母はすかさず「大丈夫よ、お金ならあるから!」と大盤振る舞いをしだ
した。

…いや、その“ある”お金って、家族全員の生活費じゃないのか?兄の気まぐれ旅行に使うほど余裕があるとは思えなかったが、母には違う理屈があったらしい。

当然、母の「足りないものがあれば何でも言ってね」という優しい一言が兄に投げかけられる。兄はそれが当然のように頷いている。だがその視線が一瞬僕に向けられた。嫌な予感がした。
そう、兄が想定する「足りないもの」には僕のなけなしの貯金や時間が含まれていたのを感じたからだった。


数日後、兄は出発に向け僕たちを兄の部屋に集合するように命令を出してきた。
何事かと思いきや、いきなり目の前に兄の私物が置かれた。
兄が大事にしていたものまである。。。

次の瞬間、嫌な予感は的中した!
「お前はこれにいくらまで出せる?」と僕に言ってきたのだ!

いやいや、僕はまだ高校生だ。しかも家のルールでバイトは禁止で
親からの雀の涙のようなお小遣いしか収入源はなかった。
そんな僕に、全財産をよこせと言っているのである。

冗談かと思ったが、しかし兄の目は本気だった。

目線をスッと母の方にずらした。母はすでに資金を渡すことを決めているらしい。目があっても「兄の言うとおりに」と目線で訴えかけてくるだけだった。援護は期待できそうになかった。

兄は、一応疑問形で投げかけているが、全財産を出すまでは納得しなさそうなぐらい目が血走っており、小動物を狙う狼のようだった。
こうなると、兄は全てを差し出すまでこの部屋から出してはくれないだろう。覚悟を決めて心でため息をつきながら、今出せる全財産を兄に渡した。

心の底では「弟の僕にまで搾取するのか?」という不満を噛み締めていたが、母にとって兄の願望は絶対命令のようなものだ。拒否権なんてものはそもそも我が家の中の僕にはありはしなかった。

今後のために色々なことを我慢しないといけないと思うと、兄の「王命」を果たす自分の役割にますます嫌気が増していった。


そしてようやく兄が旅立つ日。母は「◯◯くんが安心して行けるように」と、分厚い封筒に現金を詰めて兄に渡していた。まるで英雄を送り出すかのように誇らしげな顔をしていたが、僕にはその理由が理解できなかった。渡した金額を横目で見ながら、「あれだけ渡したのに何を心配するのか」と内心呆れていたことを覚えている。

兄が空港のゲートをくぐったとき、母はようやく僕に向かって「ありがとう。〇〇くんを助けてくれて」と微笑んだ。その微笑みはどこか取ってつけたようで、まるで「ついでに」という程度のものでしかなかった。
そんなことに慣れっこになっていた僕はスルーを決め込んで「しばらくの間、やっと兄から解放される」と胸をなでおろし開放感を噛み締めていたのだが、、、

それも束の間だった。

兄はわずか二日後、「用事は済んだ」と言って日本に舞い戻ってきたのだ。母はまたしても何も聞かず、「おかえり!」と笑顔で彼を迎え入れ、その顔にはまるで長期遠征から戻った英雄を見るような誇らしさが漂っていた。それはもはやコメディをみているかのようだった。


そしてこの話には後日談がある。
兄がなぜ突然海外へ行ったのかというと、当時の彼女がワーホリで海外へ行くことになり振られそうになったからだったそうだ。。。
彼女の説得のために焦っていたらしいのだが、そんなことのために自分の全財産を使われたのかと思うと笑えてくる。
そもそも彼女が行く直前になって兄に告げた意味を考えるべきである。
と今でも思っている。

そして、予想通り兄が使い込んだ僕のお金が戻ってくることは――当然、今もない。

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