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経験だけからしか学ばないのは心許ないかもしれない

直に経験しないと皮膚感覚で理解はできないものだと、最近、感じ始めています。

少し前までは、経験則でしか語らない人に対して軽い抵抗感を覚えていました。一面的にしか捉えていないのに決めつけてしまうのは、あまりに視野狭窄なのではないか、と感じていたのでしょう。そんな思いからか特段の悪意はないけれども私は聞き流していて、気がついた時には経験を伝えてくれていた人達から何も言われなくなっていました。
しかしながら物事は、理屈や正論だけで動いていく訳ではありません。頭の中で描いている通りに事が運ばれず、焦りや苛々を募らせる日々が続くことになります。複数の人間がそれぞれの立場で利害や感情を絡め捕られる中で、自身の都合が優先される訳がないことは当たり前過ぎる話なのですが、どこか納得できずに悶々としていました。経験則を軽視したり自己都合の「あるべき姿」に固執した報いを受けた感じです。
それらを反省して、今は面倒なことであっても、逆に面倒だからこそ自ら買って出る様に心掛けてはいます。
確かに、実際に買って出てみると本当に面倒くさい。ただ、その面倒なところに経験する意味が込められているのだという感触は得ています。特に慣れていないことは、必死になるし頭の中が真っ白になるし、みっともない姿を晒すことにもなります。
反面、悔しさや恥ずかしさを感じている時は、同時に感情も大きく揺さぶられているので、助言や調べた事項に対する吸収力は格段に高まっている実感は得られています。おそらく、心の底から解決策を求めているからでしょう。

「若い時の苦労は買ってでもしろ」。
現代では、非効率性の代表格として批判の対象にもなりがちな諺です。けれどもその真意は、追い込まれて生活に窮して背負わざるを得ない苦労の強制という意味合いよりも、自発的に新しい経験に取り組んで試行錯誤を繰り返しながら物事の機微を掴んでいくことの必要性にあるのかもしれません。。

自分で経験を重ね朧気ながらでも浮かんできた解答は非常に濃いものになるし、太い支柱にもなるでしょう。経験することの重みは犇々と感じています。しかし、自分の経験から得た知見は、あくまでも一例にしかすぎないし、自身では伺い知れない要因も複雑に絡んでいます。
心血注いだ経験知を絶対視したくはなりますが、安易に引っ張られることなく、自分で事例や根拠を調べながら、人からの助言にも素直に耳を傾けることが、さらに大切な姿勢だと感じています。
一手間を惜しまなければ、通信機器の活用で簡単に、実例や学説など含めた資料を豊富に得られる時代環境にあります。

物事は経験を通して感覚で理解すると共に頭脳を駆使して体系的に理解していく。いわば両輪によって学習していくことが大切という実感を書き連ねました。

最後の選択と決断は自分が担うことが前提ではありますが。

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