これはつまり”シュレーディンガーの唯我成幸”って理解でいいんですかね(・_・)?
はじめに断っておくと、俺は『ぼくたちは勉強ができない』(以下、『ぼく勉』)の熱心な読者ではないし、単行本も所持していない。毎週、「週刊少年ジャンプ」(以下、ジャンプ)での連載を楽しく読んでいる程度である。一週も読み逃したことはないが、内容を詳らかに憶えているわけではない。
※3月17日追記
3月16日発売のジャンプ16号を購読したところ、『ぼく勉』は予想外の手を打ってきた。
予告どおり理珠編が始まったのだが、いきなり「花火の夜のシルエットは実は理珠でした」という設定の宣言から始まり、物語は10か月後に飛ぶ。成幸も理珠も大学生になっており、既に恋人関係にある(周囲には明らかにはしていないようだが)と読み取れる描写になっていたのである。
かつ、問141でのうるかの告白は、無かったことにされているみたいなのである。
つまり、問69の花火で分岐はしているのだが、問70以降の展開は無視されているのだ。従来の問70から問141(のうるかの告白の手前)までの展開は、理珠編においてもその通りだったのか、あるいは、シルエットが理珠であったことによる通奏低音の影響を受けた別の展開が為されていたのか、それは明らかにされていない。
巧い処理だとも思うが、同時にちょっと卑怯であるとも感じた。この処理だと、俺はやはりうるかルートが正史で他はボーナストラック、という印象を受ける。
「マルチエンド」への賛否
ご承知のように、ジャンプの連載マンガである『ぼく勉』は、ジャンプ15号で大団円を迎えたと思いきや、マルチエンドを全て描ききるという前代未聞の展開となった。
この文章を読んでいるであろう人には説明不要だと思うが、念のため前提条件を。
▼『ぼく勉』は、「ラブコメ」に分類されるマンガ作品であり、若い男女の恋愛模様とその帰趨が主題である。
▼主人公・唯我成幸はいわゆる草食系男子、というかはっきりと「恋愛にはオクテ・鈍感」という描写がなされている高校三年生である。
▼成幸の周囲に、同級生を中心として5名の魅力的な女性、つまりヒロインが登場し、各人各様に成幸との間にエピソードを積み重ねて、彼への好意を抱いていく。
▼それらのエピソードの質および量は、若干の差異はあるものの、各ヒロインともほぼ均等に配置されており、客観的には「誰が成幸と結ばれるか」は推測困難な状態で物語は進む。
▼成幸本人は、ヒロインたちのことを憎からず思ってはいるものの、特定の誰かを特に好きであるという状態ではない。むしろ、自らの恋愛感情について無意識かつ無頓着である。
という状況で、ついに5名のヒロインのうちの一人、武元うるかと結ばれて完結――と思わせておきながら、他の4名と結ばれる展開も順次掲載していくというのである。
ネット情報を漁ってみたところ、賛否両論のようだ。まあ当然だろう。
いま「当然だろう」と書いてはみたが、なぜ「当然」と思ったのかは、少々説明を要する。
この種のマルチエンドは、小説やマンガではあまり見かけるものではないが、いわゆるギャルゲー等では別に珍しいものではない。複数ヒロインのそれぞれと結ばれるルート(あるいは、誰とも結ばれないバッドエンドとか、逆にハーレムルートとか)が存在していることが、ごく自然に受容されている。もっとも俺はその手のゲームをプレイしたことがないのでこれは伝聞と推定に過ぎないのだが。
だったらなぜ『ぼく勉』のマルチエンドに賛否の「否」が発生するのかというと、作中における主人公・成幸が、あくまで唯一無二の存在だからだろう。
ギャルゲーとの対比
ギャルゲーのストーリー内の各エピソードによって惹起される感情は、プレイヤーそれぞれによって区々である。従って、自らの中に惹起された感情によって、プレイヤーがどのヒロインのルートを選択するのかも、これまた区々であるのが当然である。
厳密には、ギャルゲーのストーリーは一気通貫ではなく、様々な選択肢によって分岐し、プレイヤーがどの選択を行うかによって、出現するエピソードの種類やその出現順が変わってくる(伝聞と推定)から、各プレイヤーが単一のストーリー/同一のエピソード群を経るわけではないが、その分岐そのものがプレイヤーの感情によって招来されるのであり、その結果として一人のヒロインが選択されることになる。
しかし、『ぼく勉』はマンガ作品であり、作中でこのような選択の自由性は存在していない。読者である我々が体験したのは、確定した一気通貫のストーリーであって、それは成幸も同じはずである。
もし成幸ではなく俺自身がこの作品世界の中の人間だったとして、成幸と同じ立場に置かれ、成幸と同じエピソードを経験していったとしたら、別のヒロインを選ぶことになったかもしれない。そしてそれは、俺と同じように『ぼく勉』を読んでいるアナタや、アナタや、アナタにとっても同様だ。
が、作中における成幸はたった一人である。ギャルゲーに準えるなら、いわば彼は、俺でもなく、アナタでもない、「唯我成幸」という、他の誰とも違う一人のプレイヤーなのだと言える(こうなると、唯我という姓がいかにも象徴的である)。
その彼が、武元うるかというヒロインを選択したのは、作中の様々なエピソードを経験してきた末に惹起された感情に基づく行為であったはずだ。だから、他のヒロインを選択するルートは、本来ならあり得ないはずなのである。
無論、ギャルゲーのプレイヤーは、自分の推しヒロインと結ばれるルートでゲームをクリアした後、二周目三周目のプレイを楽しむことだろう。他のヒロインを選択したらどんな過程を経てどんな結末を迎えるのか、その関心を満たそうとするだろう。しかしそれは、あくまで「オマケ」であり「デザート」である。
今回の『ぼく勉』のマルチエンドはどうだろうか。うるかルートを正史とし、付加サービスのような扱いで他の4名のルートを描くのだろうか?
ジャンプ15号に掲載されているマルチエンド予告ページの作者コメントでは、「『どの物語が本当の結末か』は、読者の皆様次第です」と書かれている。つまり、五つのルートは並行であり等価であるということだろう。
おそらくだが、成幸に自分を重ね合わせて、「自分ならこう感じる」「自分ならこう行動する」「だから、自分が成幸なら●●ルート一択!」という感覚で主観的に本作を楽しんでいた人のうち、うるかルート以外を好む読者は、このマルチエンドを歓迎するのだろう。より厳密に言えば、「俺の推しヒロインルートさえ描いてくれればあとはどうでもいい」といったところか。
主観的に本作を楽しんでいた人でも、うるかルートを好む人は、せっかく自分の願いどおりの結末に至ったのに、「実は等価の5ルートのうちの一つに過ぎませんでした」と言われたようなものだから、あまりいい気分ではないかもしれない。うるかルートが正史であとはオマケ、という扱いなら問題なかっただろうが。
そして、あくまで客観的に楽しんでいた人は、一個の作中人物として確立されているはずの成幸のマルチエンドが全て描かれることは、納得しづらいだろう。
納得しづらい理由の最大のものは、「バランス感覚に抵触する」ということではないかと思う。
「花火のエピソード」による通奏低音
問150(15号掲載の、一応の最終話。『ぼく勉』では「第●話」ではなく「問●」という形式で話数をカウントしている)のラスト近くで、夜空の花火を背景に、うるかが成幸の手をとっている場面が描かれている。
俺は記憶していなかったので、記憶していた娘(俺に劣らずジャンプ愛読者)に教えてもらったのだが、これは問69での一場面の再現らしい。作中では、文化祭の花火の時に触れ合っていた男女は必ず結ばれる、という学校内の言い伝えがあるという設定になっている。
問69では、当該の場面で成幸の手を取っている女性はシルエットになっており、5名のヒロインのうち誰なのかは判別できない。成幸自身はそれが誰であるかを認識しているが、読者に対しては明かされていない――という表現方法だったのだそうだ。
だから、問150において、「実はあのシルエットはうるかだったのだ」「つまり、言い伝えどおりに成幸はうるかと結ばれたのだった」という種明かし(?)をした、ということになる。
素直に考えると、そんな言い伝えがあるなら、問69の花火のエピソードは成幸の心に何らかの影響を与えているはずである。
いかに恋愛に鈍感とはいえ、彼は5名のヒロインそれぞれに好感を抱いている(それは尊敬や、友情や、憐憫や、同志としての連帯感であるかもしれないが)のだから、こんなエピソードを経れば、「うるかが俺の運命の女性なのだろうか?」という意識が芽生えてもおかしくない。
たぶんギャルゲーならここで「このシルエットは誰か」という選択肢が提示され、その選択によって先行きが大きく分岐していくことだろう(伝聞と推定)。
となると、問70以降の物語において、成幸の心理には「うるかが俺の運命の女性なのだろうか?」という意識が通奏低音のように流れているはずであり、その前提で各エピソードが進捗していくことになる。そして、その通奏低音があったからこそ発生したエピソードやそれによって惹起された感情、逆にその通奏低音があったがために生じなかったエピソードや湧かなかった感情、があったはずだ(「生じなかったエピソード」が「あったはずだ」というのもおかしな言い草だが)。
それらの積み重ねによって、物語は問150の結末に到達し、成幸はうるかと結ばれたはずなのだ。
遡り箇所の予測(3月11日時点)
ところが、ジャンプ14号に掲載の「マルチエンド予告」では、花火の夜に他の4名のヒロインが成幸の手を取った場面がそれぞれ描かれている。文字通り、「あのシルエットが●●だったら……?」という表現なのである。
であれば、成幸がその時点で抱くであろう、「●●が俺の運命の女性なのだろうか」という意識が、問70以降の物語の通奏低音にならなくてはならない。そして各々のヒロインに応じて、発生するエピソードや惹起される感情が変化を来たさねばならない。
いや、「変化を来たす」と言ってしまうと、「本来あるべき正史からのバリエーション」みたいな意味合いになるから、ちょっと不正確か。「各々のヒロインに応じてチューニングされた展開になっているはずである」ぐらいのほうが正確だろう。
俺が思うに、「問69を分岐点とし、問70から問150までを、4名のヒロインそれぞれの通奏低音に応じて描き分ける」というのなら、このマルチエンドは完璧で素晴らしい労作になるだろう。
しかし、現実にはおそらくそうではない。次号掲載分を読んでみないと確言はできないが、そんなに手前まで遡ることはないだろうと思う。たぶん、遡るのは単行本一冊分のボリュームになるはずだ。
ジャンプの単行本は、ストーリーマンガの場合、平均して1巻に9話所収される。ただ、第1巻は話数が少なく、だいたい6話ぐらいしか所収されない。新連載第1回から第3回までは増ページだからだ。
俺は『ぼく勉』の単行本を持っていないから想像で書くが、おそらく一応の最終話である問150で、ちょうど第17巻が終わる計算になっているはずである。
そこから9話遡ると、第17巻の内容は、「泡沫の人魚姫は約束の[X]に濡つ」というサブタイトルが冠されたエピソードの第1回から第8回である問142~149、そして最終話の問150という構成になるはずだ。
第16巻は問141で終わっているはずだが、この問141は、うるかが成幸に告白をする回である。それを受けた成幸が自らの心を問いただして結論を出し、うるかの告白に応諾する、というのが、「泡沫の人魚姫は約束の[X]に濡つ」の内容だ。作者およびジャンプ編集部は、「泡沫の人魚姫は約束の[X]に濡つ」+最終話がちょうど一冊の単行本に収まるように話数を計算していたものと思量される。
となると、どう見たって、「泡沫の人魚姫は約束の[X]に濡つ」と同じボリュームである8話分のエピソードを他のヒロインにも宛がい、それぞれに最終話を1話加えた9話で、ヒロインそれぞれの単行本最終巻を作る――というソリューションになるだろう。
つまり、作品における外形的な分岐点は、問69ではなく、問141だということになる。
事実は小説よりも奇なり?
ひとまず、問69のシルエットが誰だったかは度外視して、問141までは、誰と結ばれるかは成幸自身にも読者にも判断できない状態だったとしよう。
その問141でうるかの告白を受けた成幸は、様々に自問自答し、うるかと結ばれることを選択した。「泡沫の人魚姫は約束の[X]に濡つ」という8話分のボリュームを通して。
それまで141話分のボリュームをもってしても出なかった結論が、たった8話分のボリュームで決着してしまうのか?
否、うるかルートならさほど問題はない。問141で、告白という特大エピソードをぶち込んでくれているのだから。
しかし、うるかによってメガトン級の爆弾をぶち込まれた後、わずか8話分のボリュームで、成幸が他のヒロインを選択するに至るような合理的な展開が成立するのか? 141話かけて勝ち得ることができなかった「成幸に選ばれること」が、たった8話で、不利な状況から逆転して達成できるのか?
だったら、それまで積み重ねてきた141話はいったい何だったのか?
もちろん、今から描かれるマルチエンドの末尾には、うるかと同じように花火の場面が再掲され、「実はあのシルエットは●●だったのだ」「つまり、言い伝えどおりに成幸は●●と結ばれたのだった」という処理がなされることだろう。
しかし、前述したように、それが●●だったなら、問70以降は●●という通奏低音に影響を受けていたはずだ。
その通奏低音である●●が理珠でも、文乃でも、真冬でも、あすみでも、問70以降のエピソードは、果たして今まで描かれてきた通りに、●●がうるかだった場合と同じように展開してきたのか?
問70以降のエピソードで、各ヒロインとイイ雰囲気になったとき、危ない雰囲気になったとき、エッチな雰囲気になったとき、成幸の意識下の通奏低音がどう作用していたのか。それは花火の夜の●●が誰であったかによって異なるのではないのか?
それとも、問70以降で発生したエピソード群は、●●が誰であったかに起因する違いは全く無かったというのだろうか?
振り返ってみれば明らかに「ヒロイン選択の分岐点」だったと考えられる問69の花火の場面は、それ以降の成幸の行動にさしたる影響を与えない程度の軽いものだったのだろうか?
そして、外形的なエピソードは全く同じでありながら、でも成幸の心の中では●●ルートにチューニングされた感情が支配的になっていったのだ、という理屈で強行突破するのだろうか?
ほんの小さな偶然の出来事が、人生を左右する大きな決断を導くことは、現実にもある。しかしそれは、俗にいう「事実は小説よりも奇なり」というやつで、マンガや小説の企画書でそんなプロットを書いたら、編集さんに「リアリティが無い。やり直し!」とボツにされることが多い。
単行本一冊分のボリュームで、うるかの告白という大事件を凌駕し逆転して他のヒロインと結ばれる展開を描くというのは、それに近い綱渡りになるのではないだろうか。
賛否両論の「否」の人は、そこに違和感というか、危惧を抱いているのだと思う。
俺自身の感想
俺自身はどうかと言うと、『ぼく勉』は毎週楽しく読んではいるが、さほど強い思い入れがあるわけではないので、まだしばらく楽しめるのならばそれはそれで有難いな、という程度の気持ちである。しかし一方、今までつらつらと書いてきたような事情で、もろ手を挙げて歓迎もできずにいる。
『ぼく勉』には5名のヒロインが登場するが、同級生の緒方理珠と古橋文乃の二人が、作品開始時点でのダブルヒロインだった。遅れて、幼馴染の武元うるか、高校の教師である桐須真冬、さらに遅れて一年先輩の小美浪あすみが参戦する。
この手の複数ヒロイン制のラブコメでは、途中参戦のヒロインは結ばれないパターンが多い。真冬は教師なので結ばれるハードルは高かろうし、あすみはかなり遅れての参戦かつ人物造形的にもボーナストラックっぽい印象を受ける。そして初期ダブルヒロインの二人は甲乙つけ難いがゆえに却ってどちらかを選ぶのが難しい。
だから俺は、本作の決着点を推測できないでいた。強いて言えば、「誰も選ばない」という結末を予測していた。
だから、問141でうるかの告白を描き、その後の「泡沫の人魚姫は約束の[X]に濡つ」で一気にうるかルートでの決着をつけた展開には、驚きかつ感心していた。
うるかは成幸と同じ中学出身であり、作中での参戦は遅れたが実は成幸とのつき合い歴は最古であるというアドバンテージを持つ。「泡沫の人魚姫は約束の[X]に濡つ」を読み終えた時点では、途中参戦の不利を補う巧い処理だったんだな、と思ったのだ。
また、複数ヒロインのうち誰かが勝利を収める展開は、敗れ去るヒロインの退場の仕方も重要になる。「良き敗者」は、勝者の勝利の物語をより美しく輝かせ、敗者もまた、本意ではないだろうけれど敗者として輝くのである。
「泡沫の人魚姫は約束の[X]に濡つ」の終盤では、海外に旅立とうとするうるかにひと目会うべく、高校の卒業式を脱走して空港に向かう成幸の奮闘が描かれる。
そのシークエンスにおいて、初期ダブルヒロインの二人は、うるかに思いを告げるべきか逡巡する成幸の背中を押し、成幸の脱走が教師に見咎められるのを体を張って止めるというサポートを行う。また、真冬とあすみは、成幸が空港へ駆けつける行程を、自動車とバイクでリレーしてサポートする。
いずれも、成幸への好意を、「成幸の好意を勝ち得る」という形ではなく、「うるかへの成幸の好意を成就させる」という形で行動に表すのである。
見事な敗者ぶりである。また、四人が成幸に助力を与える姿は、無印セーラームーンの最終回を観るような思いを俺にもたらし、一抹の感動すら与えてくれた。
だから俺は、一応の最終話である問150に納得していたのである。
果たして作者は、うるかルートと同じだけの納得感を与えてくれるだろうか?
残る4名のルートは、理珠→文乃→あすみ→真冬という順序で描いていくらしい。
キャラクター人気投票では真冬が圧倒的なトップらしいので、この順序はまあ順当だとは思うが、やはりオーラスのヒロインにはそれだけで何らかの重みづけを感じてしまうので、全て終わった後で「真のヒロインはやっぱり真冬!」という議論が喧しくなるだろうな、とは予想している。
ただ、真冬については、問144の392ページの1コマ目で、彼女自身が非常に美しい形で自分の感情に決着をつけており、俺はその描かれ方が非常に好ましかったので、それが無かったことになるのは少々残念ではある。
量子力学的唯我成幸
それはさておき、ふと考えたのだが、ここはいっそのこと、問69の花火の場面、シルエットの女性が誰であったのか、成幸自身にも判然とはしていなかったのである――という解釈にしてはどうだろうか。
そのため、問70から141までのエピソードも、どのヒロインにも肩入れすることなく、完全にフラットな状態で進んでいった。
そして、問141でのうるかの告白という大きな出来事を契機とし、成幸は8話分のエピソードを通して自分の内面をじっくりと見つめ直し、どのヒロインを選ぶのか結論を出す。
結論を出してみて、「ああそうか、自分でもおぼろげだったあのシルエットは●●だったんだ」と改めて気づく。こうして、結果的に花火の言い伝えが成就する。
つまり、成幸の選択=シルエットの女性は、成幸が内面を具に観察することによって確認されるまでは、5名のうちの誰でもあり得るという状態だった――
シュレーディンガーの唯我成幸、というわけですね(・_・)ゞ
そう考えると、成幸はほんとうに「影の薄いキャラ」で、マジで最後の最後まで自分の感情を認識していなかったとしても、「まあそうかもな」と思えてしまうほどだった。
単に影の薄い主人公なら長篇連載を維持するのは難しいが、『ぼく勉』には「受験勉強を乗り切る」というモチーフがあり、成幸は努力して「受験勉強のエキスパート」になった人物で、このモチーフにおいては非常にパワフルな活躍を見せるため、感情面での薄さがさほど気にならない。
ここは、作者が巧みだったという解釈をするほかはあるまい。
今はとにかく、3月16日発売のジャンプ16号を楽しみに待とう。俺の予想どおりに問141が外形的な分岐点なのかどうかもまだ分からないのだし、マジで問69まで遡ってくれるのかもしれないのだし。
考えてみれば、推算では単行本第8巻がちょうど問69で終わっているはずなので、単行本9冊分のマルチルートを5名分描くつもりだった可能性も微レ存なわけだ。オラわくわくしてきたぞ!
で、実はこの後、今まで書いてきたことから牽強付会して、俺がふだん考えている、
「人はどうやって己自身を知っていくのか」
というテーマに繋げるつもりだったのだが、なんかもうくたびれたのでヤメにする。気がむいたらまた日を改めて書きます(._.)
おしまい。