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『遺作』が弾けたからといって「ピアノが弾ける」わけじゃない

「ビートルズの曲をぜんぶ暗記して、カタカナ発音で歌えたとしても、それを『英語が話せる』とは言わないですよね。俺は、ちゃんと『英語が話せる』ようになりたいんです――」

 2018年8月、十数年ぶりにヤマハのピアノ教室へ通うことにした俺は、初回の体験レッスンで講師にこう訴えた。


『ラ・カンパネラ』

 2月3日のNHK『おはよう日本』で、徳永義昭さんという人が紹介されていた。
 佐賀県に住む海苔漁師さんで、テレビで観たフジコ・ヘミングのピアノ演奏に感銘を受け、全くの初心者なのにいきなりリストの『ラ・カンパネラ』を弾こうと一念発起し、1年後には弾けるようになったそうだ。当時52歳だったという。
 テレビでは演奏は一部分しか映らなかったが、全曲がYouTubeに上がっていた。

 立派なものである。正直、決して技巧が優れているとは言えないと思うが、なんせ『ラ・カンパネラ』である。全音楽譜出版社(全音)のピアノピースでは難易度E(上級)である。素人がおいそれと弾ける曲ではない。弾けるだけでも凄いことだ。
 なお、他に難度Eといえば、同じくリスト『愛の夢第3番』、ショパン『夜想曲(Op.9‐2)』(あのいちばん有名なヤツ)、ベートーヴェン『月光ソナタ』などがある。
 ネットで検索した記事によれば、徳永さんは楽譜が読めないのでYouTubeの練習動画を教材にして、フレーズを数秒ずつ区切り、一日8時間の練習(右手2時間、左手2時間、両手4時間、のサイクル)によってワンフレーズずつ習得し、ついに最後までマスターしたということだった。
 練習過程をYouTubeにアップしていたことも話題になり、マスターした後は各地の演奏会から声がかかるようになっているという。
 他の曲は弾けないが、現在レパートリーを増やすべく、特訓中とのこと。次の目標はショパン『革命のエチュード』だそうで、これは全音ピアノピースでいえば難度F(上級上)である。


『夜想曲 嬰ハ短調(遺作)』

 この徳永さんの努力は尊敬に値するし、イベントなど人前でミスせずに弾きとおす技術や度胸も大したものだと思う。「奇跡のピアニスト」等と称されてあちこち引っ張りだこなのも頷ける。

 しかし失礼を承知で言えば、且つまた「単なるやっかみだろう」と謗られるのを承知で言えば、この方は「『ラ・カンパネラ』を弾ける」だけであって、「ピアノが弾ける」わけではない。少なくとも、俺が考える「ピアノが弾ける」状態ではない。
 同様に、ピアノ初心者として3年弱の経験を積んだ2001年7月、所属していたピアノ教室の発表会でショパン『夜想曲 嬰ハ短調(遺作)』を弾いた当時の俺も、「ピアノが弾ける」という状態ではなかった。
 当時の俺は、『遺作』は弾けたが、決して「ピアノが弾ける」わけではなかった。

 より正確に言うと、俺はあの曲を弾くまで、「俺はピアノが弾けるようになった」と思っていた。発表会を重ねるたび、演奏する曲もそれなりにステップアップしていき、「徐々に上達してきた」と悦に入っていた。
 しかし、あの曲を弾いたことを契機として、俺は初めて、本当の意味で「ピアノが弾ける」ようになりたい、と思うようになったのだ。


『トルコ行進曲』

『遺作』は、全音ピアノピースでは難度D(中級上)である。曲がりなりにもそれを弾き切った俺は、「だったら、難度D以下の曲ならどれでも弾けるんじゃない?」と思った。まあ当然の高望みだろう。
 それまでにも、難度B(初級上)のベートーヴェン『エリーゼのために』やドヴォルザーク『ユーモレスク』は発表会で弾いたことがあった。前者はボロボロの演奏だったが、後者はそれなりに真っ当に弾けた(と、当時の日記に書いている)。
「今ならBぐらい余裕余裕」と考え、買ってきた楽譜がモーツァルト『トルコ行進曲』(難度B)だった。

 これが、さっぱり弾けなかった。

 いや、諦めずに練習を継続すればいずれは弾けるようになったのだろう。しかし、それまでにマスターしてきた曲の数々と同じぐらいの熱意と練習量を注いでも、弾けそうな気配がまるで見えてこない。嫌気がさして、放棄してしまった。
 俺は素人なりに考えた。
『トルコ行進曲』は、とにかく速い。しかし、運指そのものは、特に奇抜なものではない。ただ速いだけだ。それが弾けない。あと、オクターブで弾くところがあるが、指の広がりがオクターブにならない。俺は指が長いので充分に広がりはするのだが、オクターブの位置に指を保持できない。

 それともう1曲、どうしても弾いてみたい難度Cの曲があったのだが、出だしは弾けるようになって喜んでいたのに、中盤で左手がたららららららん、とアルペジオを弾くところがさっぱり弾けなかったので、これも断念してしまった。別にさほど込み入った運指ではなかったと思う。でも弾けなかった。

「基礎」ができていないからだ。そう考えた。
 基礎からちゃんとやろう、と決めた。
 だから、2002年5月の発表会でショパン『前奏曲(Op.28‐7)』(太田胃散のヤツな)と、同僚の受講生だったOさんとの連弾で『マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン』を演奏したのを最後に、発表会への参加をやめた。
 それ以降、「曲を弾く」のではなく、「ピアノを弾く」ことを志した。講師のK先生ともその旨を相談し、「じゃあヤマハのグレード受ける?」と言われて、それに向けて練習もした。


再開

 残念ながらその後、会社が多忙になり、さらに転勤があったことで、教室は休会→退会し、それきりピアノからは遠ざかってしまった。
 それから十数年経った2018年7月、偶然にも、かつて通った教室の近くの職場に転勤してきた。
 これも何かのめぐり合わせ。今こそ、あの時の続きをやろう。そう思って通うことにした。それが、冒頭の場面である。

 ヤマハの教室も様変わりしていて、以前は存在しなかった「全国のヤマハ教室の共通テキスト」があり、まずはそれをマスターするというカリキュラムになっていた。さまざまな運指、和音、スケールなどの練習、初見の練習、簡単な練習曲、などから構成されており、まさに俺がやりたかった「基礎練習」そのものだった。
 昔取った杵柄などは全く残っていないので、俺は嬉々として初心者用のレッスンをこなした。

 しかし好事魔多しというのか、会社の都合で、たった1年でまた別の職場へ異動させられることになり、泣く泣く退会せざるを得なかった。テキストは途中のままである。
 しかし捨てる神あれば拾う神ありというのか、共通テキストのおかげで、申し送りさえしてもらえれば、全国どこのヤマハの教室でも途中からカリキュラムを再開できるのだという。
 ということで、新しい職場への通勤途上にある教室へ通うことにした。
 約半年通い、最初のテキストを修了することができた。

 残念ながら、仕事の都合でこの教室も昨年末で退会することになってしまったが、今回は十数年前とは異なり、自主練習は継続するつもりである(現に続けている)。
 とりあえず今はいろいろ多忙で余裕がないので、本格的に練習を再開する日に向けて、朝晩欠かさずハノンをやっている。加えて、それだけだとさすがに寂しいので、簡単な初心者向け曲集を練習するのと、さらにもうひとつ、自分を鼓舞するための背伸びとして、かつて発表会で弾いた曲に順次再挑戦していくことにした。
 でも、新しく弾きたい曲に挑戦するのは、「ピアノが弾ける」ようになってから。そう決めている。


「ピアノが弾ける」ということ

 冒頭の場面には続きがある。

「――それと同じで、3年ほどそればっかり練習したら、『革命のエチュード』だって弾けるようになるかもしれません。でも、俺はそれを『ピアノが弾ける』とは言えないと思っています。俺は、『ピアノが弾ける』ようになりたいんです」

 徳永義昭さんは、俺が考えるところの「ピアノが弾ける」人ではない。しかし徳永さんのニュースは、格好の目安を与えてくれた。
 上の発言で、俺は難曲の一例として「3年で『革命のエチュード』を」と言ったが、果たしてそれが可能かどうか、その相場観には自信がなかった。
 それを、「次は『革命のエチュード』に挑戦」という徳永さんのニュースを観て、「自分が考えていることを説明するための例示として、必ずしも絵空事ではない(実現できるか否かは別として)」という確信を得たのである。徳永さんNHKさんありがとう。いやまあ実際に『革命』を弾きたいってわけじゃないんですけど(・_・)ゞ

 では、俺が考える「ピアノが弾ける」とは、どういう状態のことを指すのか。明確な考えがあるわけではないが、造語めいたワードも使いながら説明するなら、四つの能力を獲得することだと思う。
 この四つは、ひとつの大きな総合的能力をそれぞれ違う側面から照らしているだけ、ということになるのだろうが、ともあれ自分の頭の整理として、弁別して書いておく。俺が独りで勝手に考えたことなので、世の中にすでに存在している音楽理論や練習メソッドに照らせば全く見当外れかもしれないが、責任は負わない。

 ここではそれぞれ、「初見力」「即興力」「途中力」「習熟力」と称しておく。

1:初見力

 文字通り、初見で演奏する力である。
 以上。おしまい。

 というのはあまりに愛想がないのでもうちょっと書いておくと、プロの鍵盤奏者であっても、『ラ・カンパネラ』レベルの「新曲」を初見で弾きとおすことはできないのではないかと思う(実際はどうなんだろう? プロの方、ご教示ください)。
 しかし、簡単な曲なら、全く初見の初弾きイッパツでミスなく弾きとおせる――かどうかは分からないが、少なくとも2,3回ペラペラペラっと練習すれば、もうそれで弾きとおせるのではないだろうか(実際はどうなんだろう? プロの方、ご教示ください)。
 まあ「簡単な曲」のレベルをどの程度を見積もるのかにもよるが、市販の「初心者向けピアノソロ曲集」の最初のページに載ってる『ふるさと』、みたいなイメージである。

 もう一点、初見についてはぜひ身につけたいことがあって、初めての譜面を見て、即座に「どの指から開始するか」を見抜く、あるいは決めることができる力っていうのが欲しい。これも経験を積めば自然とできるようになるのだろうか?

2:即興力

 文字通り、即興で(以下略)

 ここで俺が考えているのは、「既知の旋律にその場でコード伴奏を付け、左でコード、右で旋律を弾く」みたいなことである。
 ギターなら、複雑なコード進行やテンションコードや転調を伴う場合はちょっと難しいが、まあ歌謡曲とかフォークソングの部類なら、その場で即興で適当にコードを付けてジャカジャカとストロークで弾いたりポロポロとアルペジオで弾いたりしながら歌うことができる。これをピアノでできるようになりたい。歌の代わりが右手である。

 もちろんこれは初見力とも関連していて、未知の旋律なら右手には初見力が要求される。
 あと、ギターなら慣れているので、リズムや曲調に応じてどんなストロークにするかアルペジオにするかは何となく自然に決定できる。それ以外の選択肢は、カポを嵌めて移調するか、ハイコードを使うかローコードを使うか、とかその程度に収斂するが、ピアノの左手の伴奏は選択肢が多そうで厄介な気がする。

3:途中力

 すまん。日本語になってないのは承知の上だ。
 よく合唱練習の伴奏で指導者から「練習記号Mの2小節前からやって」みたいな指示が出るが、あれができるようになりたい。
 あれって実は難しくないですか?

 ハノンに載ってるスケールの練習を日々欠かさずやっているのだが、あれは下のほうのトニックから弾きはじめて、4オクターブ上のトニックまで上昇して、下降してくる。それはできるのだが、上のトニックからはじめて下降だけ、というのが実は苦手で、オーソドックスに右小指・左親指で上昇が終わる調のスケールは下降から開始しても問題なく弾けるが、他の指で終わる調だと「えーっと……どこからだっけ?」てなことになる。
 結局、下から弾いて「そうそう、右薬指・左人差し指終わりだった」と思い出すことになる。上昇と下降のワンセットで覚えてしまっているので、途中入りができないのである。それができるようになりたい。
 途中入りができるようになれば、「苦手な個所だけを集中的に練習する」という作業の効率が格段に上がることも期待できる。

 途中といえばもう一点、途中で間違えたり抜けたりしても止まらずに弾き続けられる力がほしい。
 初見力の項で、「2,3回ペラペラっと」云々と書いたが、その場合でもひとつのミスタッチもなしに弾き切れるとは限らないだろう。でも、プロの人は、それでも咄嗟に止まることなく、躊躇なく弾き続けると思う。もちろん、練習済みの曲においても同様である。その力を身につけたい。


そして「習熟力」

4:習熟力

 これもやや日本語になっていない。というか、何を言わんとしているのかピンと来ない単語だろう。
「習熟力」とは、「練習量に対する上達度合いの高さ」という意味だと考えてほしい。
 テキトーな謎理論で、これを説明してみよう。

 まず、練習量を数値化する。
 試みに、「一日1時間の練習を1か月続ける」ことを、1単位と置く。つまり約30時間ってことだが、とりあえず話を簡単にしたいので、これが1単位な(・_・)ゞ
 例の徳永さんが『ラ・カンパネラ』をマスターするのに要した練習量は、一日8時間×12か月なので、96単位ということになる。

 次に、俺がかつて『遺作』を弾いた時の練習量を積算してみる。記録も記憶も残っていないが、当時の俺は一日1時間ぐらい練習していたのではないかと思う。日記によれば、楽譜を与えられてから発表会まで7か月だったので、練習量は7単位である。
 しかし、発表会での俺の演奏は、決して充分なものではなかった。「いちおう、楽譜に書かれている音符は、書かれている通りの指番号で、押さえることが出来ている(しょっちゅう止まるし抜けるし間違えるけど)」という程度だった。

 ネット記事によると、徳永さんは「3か月で楽譜通りに指が動くようになった」らしい。俺の『遺作』もこの程度だったとするなら、充分にマスターするには、4倍の練習量が要求されたはずだったことになる(徳永さんが1年かかっているので)。
 つまり、俺が『遺作』をマスターするには、7×4で28単位の練習が必要だったという計算だ。

 次に、演奏の難易度を考える。同じ演奏者であっても、曲の難易度によって必要な練習量は変わってくるからである。
 これを数値化するのは困難というか不可能だと思うが、どうせ不可能ならテキトーな謎理論でもかまわないだろう。
 全音のピアノピースに設定されている難易度は、AからFまでの6段階ある。これに、100から600まで、100刻みの数値を当てはめる。『ラ・カンパネラ』はEなので500の難易度を有し、『遺作』はDなので400の難易度を有している。Bの『エリーゼ』なら200である。
 ここから、当時の俺は400の難易度を持つ『遺作』を克服するために28単位の練習が必要だった、ということが指摘できる。28単位で400の難易度を克服するのだから、練習1単位当たりでは、400÷28≒14.3なので、14.3の難易度を克服できることになる。

 この14.3が、「習熟力」である。
 この数値が大きければ大きいほど、難曲でも短期間でマスターできることになる。正確には、「習熟力」を直接計測することはできなくて、当該の曲の難易度と習熟所要時間から計算して後付けで判明する指標でしかないが、年季を積めば何となく「この曲なら何か月ぐらいでイケそうだな」≒「今の自分の習熟力は●●ぐらいの数値だろうな」という感触が身につくのではないか、と想像している。
 習熟力を測定するスカウターがあればいいんですけどね。そんなのないし。

 なお、計算によれば徳永さんが『ラ・カンパネラ』をマスターした際の習熟力は、5.2となる。はい、要するに「俺のほうが習熟力は上だ」と自慢したいだけですね(・_・)ゞ


ジグソーパズル

 んで、今まで延々と書いてきたことを否定するようだが、「基礎をやらずにとにかく曲を弾く」というのも、それはそれで有効な練習方法である。そこで身についた技術や知識は、他の曲にも活用できるかもしれないし、体系立てられていないだけでそれも「基礎の一部分」でもあるからだ。

 俺は漢字検定の準一級を持っているが、一級は合格できなかった。ただ、もし再挑戦するとしたら、一級対応の漢字は、漢字そのものを覚えるだけではなく、その漢字が単語や熟語として登場する文章をたくさん読むほうが効率的だろうな、と予測している。文脈や前後の意味とセットで覚えたほうが記憶に残ると考えるからだ。
 これはおそらく英単語もそうで、単語カードでせっせと覚えて数を稼ぐのも大切だが、きちんとした文章を読んでその中での使われ方を覚えていくことも有効だろう。

 ピアノも同じだと思う。だから、両方やる。
 上のほうで、「自分を鼓舞するための背伸びとして、かつて発表会で弾いた曲を順次再挑戦していく」と書いたが、これは密かにこの効果も期待しているのである。
 練習をジグソーパズルに例えれば、基礎をきっちりやることは端からひとピースずつ順序よく埋めていくようなものだろう。ただ、「とりあえずここにはこのピースだろう」てな感じで置いておいたのが、布石のようにぴたっと嵌ることがあってもいい。いきなり曲をマスターすることは、これに相当するのではないかと思う。


最終目標

 俺が初めてピアノを弾いたのは、34歳の時だった。やむを得ない事情とはいえ数年で教室をやめ、それ以降いっさいピアノには触らず、再開したのは54歳の時だ。
 この年齢から始めて、どこまで上達することができるものだろうか。
 やめずにずっと継続していたら、今ごろは『トルコ行進曲』ぐらいは朝飯前だったのだろうか。
 ともあれ、過ぎた時間は戻ってこない。いまこの時点から、最善を尽くすのみである。

 そして――
 最終的な目標は、上のほうで書いた「どうしても弾いてみたい曲」を「1か月で弾けるようになること」である。
「どうしても弾いてみたい曲を弾くこと」ではない。「『どうしても弾いてみたい曲』を1か月で弾けるようになるだけの『習熟力』を獲得すること」である。
 その曲は難度Cなので、300の難易度ポイントを有している。これを1か月でマスターするには、300の習熟力が必要ということになる。
 たくさん練習して、「今なら習熟力300あるはず」と思えるようになったら、着手しよう。それが何年先であってもかまわない。

 果たしてほんとうに1か月で弾けるようになるか。それはその時をお楽しみに。


※「こんなもん書いてるヒマがあったら小説書け」と叱ってきそうな人が何名かいらっしゃるような気がするが、ちょっと大袈裟だがこの文章は、俺の人生において今この時にどうしても書いておかなければいけない気がしたので、書いた。ご宥恕ください。

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