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他者に“肯定してもらう”という体験――自己認知のお話

よく、「自己認知力が高い」と言われる。

すごく簡単なことで、「私はここが足りない」「私はこういう傾向が強い」「私は、こういうクセがあるから、こういう所にはいまひとつフィットしない」そういった“欠点の認識”がおさえられていると、自己認知できているように見えるのだ。

その上で、「だからこんな事してもっと伸びる!」と向上意欲もプラスすれば、多くの人が「ほう、自己認知できてるね」と関心するか、応援してくれる。実際そう見えるし、自分のことを内省して改善しようとしている人には誰も文句を言わないからだ。


ただ、私自身は自己認知力が極めて低い――あるいは、偏っているのではないかと思っている。


“自己認知”には2方向あるように思う。

1つは“改善の視点”。上述のような、欠点や足りないところ、もっと伸ばせるところの認知がこれに当たる。

そしてもう1つが、“容認の視点”。「自分はこれが出来ますよ」と自信を持てること。自分の強味の把握。そういった認知だ。

一見、自己認知力が高いにもかかわらず、自己アピールがなかなかできない人がいる。私もどちらかというと、その類だ。そういった人たちは、この“容認の視点”の自己認知ができていないのではないかと思う。


思考の特性で、幼少期からついたクセだ。そうそう簡単には変わらない。だから、「もっと自信を持って!」など言われて「よし、そうしよう」と思っても、結局どうしたらいいか分からないし、変わらないのだ。

変わらないだけならまだしも、「もっと自分を信じようと思ったのに、やっぱり心配になって及び腰になり、ダメな部分だけ目につく自分」に、より一層自信を失うことだってある。


そんな私たちが“容認の認知”を手に入れるには、自分たちの視点だけでは足りない。外からの視点が、強烈に必要だったりする。

つまり、自分で気が付いていない視点で“他者に肯定してもらう”経験が、自分の見え方に大きく変革を及ぼすのだ。


そういう体験を繰り返す。もらった言葉を大切に胸にしまう。自分が信じられなくなったら、その言葉たちや、その言葉をくれた人たちを信じてみる。

自分だって、その人たちが大好きなはず。その人たちが信じてくれた自分を信じないということは、つまりその人たちを信じていないということになる。“自分”に期待ができなくても、まずは仲間や言葉をプレゼントしてくれた人を信じてみる。

その繰り返しが、そのうち“自分”を信じることにつながっていくのではないだろうか。


***

ここからは、個人的なここ1カ月の体験記。

ここ1カ月ほど、そんな体験が幸運にも続いた。あるいは、そんな体験に“気が付けるようになった”のかもしれない。

手のひらにその感触が残っている今のうちに、書き記したい。そうすれば、きっとまた迷子になったときに戻ってきて、大丈夫だと思えるから。


「顔に、本気だと書いてあった」

プロジェクトの参画を呼びかけられたりするとき、「どうして私に声をかけてくれたんですか?」と質問することがある。純粋に興味があるのと、何を求められ期待されているのかを把握するためだ。

先日、同じ質問をする場面があった。そのときにいただいた言葉が、「顔に、本気だと書いてあった」だった。

「その本気度がどの程度かは、まだ分からない。でも、本気だと書いてあった」

驚いた。意表を突かれた。

迷ってばかりだ。そのときも迷っていた。いつもウジウジして、定まらない。どこか自信がないし不安。そう思っていた。

でも、そうやって悩んでいるのも含めて、きっと私は今、一生懸命なのだと、目の前に座った人から見てそう見えるのだと。それは声が出なくなるくらいの驚きと発見と、嬉しさだった。

顔にはその人の生き方が現れるという。話の内容などではなく、私自身を認めてもらえたような気がした。ありがたかった。


「子どもっぽいところが可愛い。そのままで、可愛い」

インプロのワークショップでもらった言葉。

これまでの私は「そのままじゃダメ」だった。ちゃんとしなきゃ、と。

それが、崩された瞬間だった。そもそも自分を“可愛い”とはほとんど思ったことがないし、言われたこともあまりなかったので、そこからして驚きだった。

まだまだ自分の中の、その“可愛い”と言ってもらえた部分に気が付けていないけれど、少しずつ出てくるようになっているらしい。なんだか、ほっこりする。


「熱量がある人だと思った」

面接時に、なぜメッセージをお送りくださったのか質問しての言葉。「wantedlyのプロフィールを見て、何となくだけど熱量がある人だと思った」とおっしゃっていただいた。

それは、文章やこれまでの活動全体をつかんで、第一印象としてそう思っていただけたということだ。自分ではそれを平熱だと思っていたけれど、エネルギーがある、熱量がある、そう言っていただけるのは純粋に嬉しかった。

そして、「そう言われたんだよね」と友人に話したとき。「うん、そうだね」と何の不思議もなく当たり前に言われたことがさらに驚きであり、嬉しかった。

一緒に活動している仲間にそう言ってもらえる。「やる」と言って手が出せていないものもあり、私自身はずっとそちらばかり見ていた。でも、一緒に活動している彼女は、それを置いても熱量を当たり前に認めてくれた。ものすごい安心感だった。


「取り組んでいることは幅広いけど、深く向き合ってる」

娘が何をやるにも浅い、というお父さん。

「大学生なんてそんなものですよ。だってまだ1年生じゃないですか。それに、そんなこと言ったら、私だって何やっているのかわからん。いろんなことつまみ食いして、浅いですよ。」

そういった私に対して間髪入れずに「そんなことないんちゃう?」と言われ、鳩が豆鉄砲を食らったような気分だった。

「確かに、取り組んでいること・関わっていることは幅広くて、いろいろやってるけど、浅いってことはないやろ」

意外と、見てくれている。そして、認めてくれている。嬉しかった。


「これで、いいんだと思う」

何かに挑戦しよう、一歩でようとするとき、必ず足を引っ張る過去の記憶。本当は、人に話したくなんてない。思い出さなくていいなら思い出したくない。話したら、どう思われるか。関係性が、距離感が、決定的に変わってしまうんじゃないか。

そう思っていたことを、けれど向き合わないと進めないと思い、月一のコーチングで共有したとき。

しっかり聞き入って、距離を離すのでもなく急に近づくのでもなく、「この、共有できている状態で、いいんだと思う」と言ってくれた。その記憶から自由になって跳びたい、だけど忘れてもいけないと思う、その狭間にいる状態に「ひとつずつ丁寧に向き合っていきたい」と言ってくれた。

なんだろう、このあたりから「ああ、もう、一人じゃない」と思える瞬間が、じわじわと広がりだした。


「つーちゃんのお願いだからね」

勉強会でゲストスピーカーをお願いしたとき、受けてくれた方がおっしゃってくださった一言。こしょばくて、あったかくて、思わず笑みがこぼれてしまう心地だった。

あ、私でよかった。まだ、一緒に組んで何かを仕掛けるほどには核が掘り出されていない。それでも、いつかと思っていてもらえている。私が、私でよかった。

初めて、「私でよかった」と思えたかもしれない。


「いつもありがとう」「また来てね」

お世話になっている古民家で。私は何もしていないどころか、その日はソファーでごろごろ寝ていただけなのに。そんなふうに声をかけてもらえる。

あったかい。ただいまって、言える空間がある。

もらってばかりだと思ってたけど、私もなにかギフトできているのかな。そうだと、嬉しいな。


「いい声!声は、持ち運べる楽器だよね」

友達がギターを弾いて歌っているのに合わせて歌っていたとき。「いい声」と純粋に褒めてもらえた。

ずっと、キンキンしてうるさい、マンションのエレベーターまで聞こえてた、高いと言われてきた自分の声が、少しコンプレックスだった。声が通る、のは分かっていたけれど、それを「いい声」と言ってもらえるのは嬉しかった。この声でも、いいんだ。

直前に「ピアノは持ち運べないから、ギターみたいな持ち運べる楽器ってやってみたいんだよね」という話をしていたのもあり、「声は持ち運べる楽器だよね」と言われた。そうか、私、ないものねだりしなくても、すでに持っていたんだ。なんだか、初めて気が付いた気がした。


「つーちゃん、絵上手だね!どこかで習ってた?」

むしろ、絵は苦手だと思っていた。

昔から、歌えば音痴だと言われ、踊っても足はX脚で膝が伸び切らず、体は堅い。字を書いても今一つ癖字で、大きく半紙からはみ出す作品に先生のコメントは「のびのびと書けています」。ピアノをやっても妹に越され、弾き語りはリズムがおかしくなる。絵も、思っているほど表現できず、必ず周囲には賞を取るような上手な子がいる。

私は、ずっと表現者になりたかったのだと思う。けれど、どの表現方法も、なかなか頭打ちで「自分なんて平々凡々か、それ以下だ」と思ってきた。

唯一褒められ認められたのが、文章だった。だから書き続けているのだと思う。

ところが、その絵を、「上手」「習ってた?」と言われたのだ。それも、アートセラピーを習っている子に。

お世辞を言うような子ではない。本当に、そう思ってくれたのだということがわかる。そして、その子の「上手」は、技術的なことを言っているのではなく、もっと深いことを言っていることもすぐにわかった。

感性そのものを認められたような気がした。この感じ方でいいんだ、と落ち着けた。
(※トップ画の絵は、その時に書いた絵)


「つーちゃんなら、休館日でもいいよ」

しょっちゅうお世話になっているシェアハウス。休館日もあるのだけれど、先日家に帰れなくなったハプニングがあったことを話したとき。

「つーちゃんなら、いつでも来ていいよ。連絡くれたら。っていうか、帰れない!みたいなときは休館日関係なく」

一緒の、掛族という感覚はこれか!と思った瞬間だった。本当に、いつもありがとう。

嬉しいけど、まずは家に帰れなくなるハプニング……鍵を会社に忘れるなど……が起きないようにするところから頑張ります(笑)

***

こうやって書いていると、もっといっぱいあったような気がする。もらった言葉に限らず、体験や空間なども含めて。

なんだろう、今、私はななめ前に思いっきり腕を伸ばしたい。何かを、しっかりつかみとりたい。そして、両手でそこまで体を引き上げて、新たに足場をつくり、もう一度斜め上へ手を伸ばす。

これまでの私は、川下りしかしようという気が起こらなかった。その川下りすら、怖がって転覆寸前だった。

それが、今は高みへ上りたい。腕を伸ばして、自らの意志で、自らの力で、高みを目指したい。そこに何があるかはわからないけれど、それでも、つかんでみたい。

そして、見えない手が、あたたかい手が、背中からそっと支えて押し上げてくれている。そんな気がする。

もっと、高みへ。もっと、世界と溶け合って、あぁ生きていると噛み締めて。

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