偽善とコンテンツと分断と
ミュージカル『RENT』の中で最も胸に引っかかったシーンは、実は登場人物の死でも歌唱シーンでもない。
ホームレスの女性のセリフだった。
「映像なんて録るんじゃないよ! そうやって私たちを売名行為に使うんだろ、偽善者が。違うというなら、金をくれよ。……ほら、くれないと思ったよ」
他のシーンはどんなに色鮮やかで立体的であっても、やはりミュージカルというエンターテインメントの枠であった中で、このシーンだけは痛いほどに生々しく感じた。
コンテンツ化、売名行為、偽善者……。
福祉やソーシャルグッドと呼ばれるような分野への関心が高く、ライティングや編集を仕事にしWebメディアの記事を作っている私としては突き刺さる言葉だ。
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そのシーンで「偽善者」と吐き捨てられたのは、荒廃したアパートの家賃を1年分も滞納していて電気も切られてしまうほど貧しい生活を送っている、しがない映像作家・マーク。警察が横になっているホームレスの女性を小突いて追いやろうとしているところへ、マークがカメラを回して「ハーイ、警察さん、こんばんは。メリークリスマス」と声をかける。そうして警察が立ち去ったところで女性に「大丈夫ですか?」と話しかけるのだが、その女性からは冒頭のセリフが放たれる。
うなだれるマーク。そう言われてすぐに出せるようなお金はない。
マークたちはこの時、ここに居座るホームレスを追い出そうとする都市開発への抗議・ホームレス支援パフォーマンスへ向かうところだった。けれど、その支援をしようとしている相手に、こっぴどく「偽善者」と言われてしまう。
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マークたちにはHIV陽性の仲間もいる(主要頂上人物8人のうち、4人がHIV陽性)。アパートに住んでこそいるが家賃は払えておらず、電気も暖も取れずに、そのアパートも立ち退きを迫られている。ホームレスの女性とどちらのほうが貧困か、どちらのほうが切実か……なんて、互いにつけられない環境だろう。
けれど、外見ではそれはわからないのだ。
そうして「あんたと私は違う」と、ある種のプライドか、あるいは自分のほうが不幸だ・底辺だという思いなのかで、勝手に線引きをする。本来は手を組んで権力に立ち向かうべき人たちの間でも、こうして細かな分断が起こってしまう。
その社会の構造と虚しさを、人間のプライドの難しさを垣間見たシーンだった。
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社会課題・問題を取り上げる。その問題の周知や解決につながればと思う。届けるためには見てもらわなければ。だから人を立てる、より印象的なできとごとを取り上げる……。メディアをやっていれば、陥りがちだ。
一時期、「御涙頂戴コンテンツ」として世界の貧困問題を取り上げるドキュメンタリーなどが批判されていることがあった。あれも最初は志あって取り上げたものが、そのうちその志が視聴率に取って代わられてしまったのだろうと想像する。
当事者に偽善者、売名行為と言われてしまう。思われてしまう。そんなコンテンツに、あるいはコンテンツ制作者に意味があるのだろうか。価値があるのだろうか。あるいは、「偽善だっていい、それでも自分はこれをやるんだ」という志を持って挑める人はどのくらいいるのだろうか。
そして、外の人間として認識されるであろう取材者・コンテンツ制作者は、どうしたら偽善者にならずに関わり合えるのだろうか。
そもそも、偽善はいけないのだろうか。
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「偽善者」。私もこれまで何度か言われてきたことがある。たった一言で強固な壁を造られ、簡単に相手と自分を分断させてしまう言葉だと思う。
きっと、全くの偽善者でなくなることは、人生においてもコンテンツ制作者としても難しいと思う。けれどせめて、相手との間に決定的な分断が起きることがないような、相手のプライドを不要に傷つけることがないような、そういう優しい偽善者でありたい。