逃げ出す理由は、一つもない
「あなただから書けるものが読みたい」
「あなたが何を思ったのか、それをもう少し出して書いて」
文章に関して、最近そんな声やフィードバックを受ける場面が出てきた。文章術の本でも、同じような言葉が目に留まる。
この言葉を受けたら、ほかの人たちはどう感じるのだろう。優しい? 自分を尊重してくれている? 安心する?
おそらく、4年前のまだwebメディアの編集職になる前だった私なら、大いに喜んでやる気に火がついていただろうなと思う。
もちろん今だって、嬉しい。期待されるのはありがたいし、何かしらが私の中にあると思ってもらえているからこその声だ。私自身も自分の中に何かあるはずだと思っているし、だからこそ本を読んでいても同じようなメッセージが目に留まるのだと思う。
だけど、それと同じくらい、いや、本当を言えばそれ以上にずっとずっと、怖い。喉の奥、胃の入り口あたりがキュッとして、鼻がヒクヒクし、言葉にも声にも息にもならない空気の塊が口の中でモゴモゴする。どうしたらいいのか頭の中は真っ白な思考停止。「わかりました、がんばります!」と笑顔でいう私の裏側で、もう一人の私が「どうしろっちゅうねん! 冗談じゃない!」と喚き叫んでいる。
Webコンテンツの制作会社へ転職してから4年。最初の半年はライティングを、その後は編集を中心にクライアントのWebメディア記事制作やパンフレット制作を担ってきた。まだまだひよっ子だけど、それなりにライティングについて学んできたし、実践も重ねてきたつもりだ。
その中で意識してきたのが「書き手の主観や感情はいらない」。いらないというと少々乱暴だけど、文中からは極力そういった自分の匂いを削ぎ落としていくことを意識していた。
読者が興味あるのは語り手の言葉であり情報であり、どこの誰かわからない私(書き手)の話ではない。そして私(書き手)の主張や想いは、わざわざ文章に書かなくても、取り上げる事柄や人、企画の切り口、見出しをはじめとする原稿内での言葉選びに十分反映される。そういう考え方だ。
決して間違ってはいないし、ニュースや私が担当してきたクライアントワークにおいては、重要な視点だと思っている。
だけど、エッセイや感想文、評論などでは、そうはいかない。だって、語るものの起点が、あるいは主題が、自分の中にあるのだから。
私が仕事で書いてきたのは、自分の疑問を外部の人の話を介して届ける、あるいは伝えたいことを外部の人に語ってもらうものだった。そして、自分の色を出すよりも、メディアのトンマナに合わせ、会社としてのクオリティを担保するのが大切だった。
反対に「自分の中が主題」のものは、ほとんど書かなくなった。noteも、現職についてから書きたい欲が仕事で満たされたのか、更新頻度は落ちた。一時期は頻繁にコラムのような更新をしていたFacebookも、あまり書かなくなった。Twitterは今もまあまあ住んでいるけれど、あれはあくまで呟きだ。
そうこうしているうちに、文章への“自分”の滲ませ方が、迷子になってしまった。
瞬間瞬間で感じたことは、つかめている。それをその場で口に出して人と話す分には違和感もない。だけど、文章にしようとした途端に、言葉が指の間をすり抜けて、こぼれ落ちる。
自分の文体が、わからない。
腹の底、丹田のあたりにある言葉の泉が、枯渇している。
以前からこうだったわけじゃない。高校、大学、社会人1・2年目……書くことが好きだったし、癒しだった。今まで書いてきた中で一番いいと思う記事は、大学4年時にベトナムで日本語を教えていた時に書いた体験記(掲載メディアが閉鎖し、手元の下書きのみになってしまったけれど)。他にも過去のnoteやFacebook投稿を読むと、まだまだ拙くて朱入れしたいところはあるけれど、「私の文章だなあ」と感じる。
だからきっと、今だって書けるはずだ。
仕事を通して身につけてきた主観を削ぎ落とす視点と、自分を深掘りして出すこと。正反対に見えるけれど、絶対に抱き合わせられるもののはず。そしてこの2つが融合したとき、“私”がありながらも、独りよがりにならない文章が生まれるのだと思っている。
ただその融合には、それなりのエネルギーと時間が必要なのかもしれない。ちょうど水と油のようなもの。ただ合わせただけだと弾きあってしまうけれど、熱というエネルギーを加え、時間をかけて丁寧に混ぜ合わせれば、乳化する。上手に乳化できるようになって、はじめて美味しいペペロンチーノが作れるようになる。
一流のシェフだって何度も挑戦して失敗して、そうして乳化の技を手に入れるわけだし、その後さらに試行錯誤を繰り返して自分の理想のバランスが取れた至高のペペロンチーノを生み出すわけだから。昨日今日、“融合”を試行しだした人が、すぐにできるわけがないのだ。
「“自分”を滲ませながら、でも独りよがりにならない文章を目指すぞ」。そんな熱を強く持ちながら、けれど焦らず、一回一回の原稿に丁寧に向き合う。何度も「こうかも!」「ちょっと違ったかな」「もっとこうできたな」を繰り返しながら、でも、めげない。
今どれだけその繰り返しで粘れるかが、「廣瀬翼」という書き手になるか、一会社員の編集者であるかにつながる気がしている。きっと、それを感じていたからこそ「主観と客観のバランスをうまくとって」というフィードバックを受けるような講座に、半年前の私は飛び込んだのだと思う。
「あなたの書くものが読みたい」
上等じゃないか。怖気づく理由は、探せばいくらでもある。だけど、拒否する理由も、逃げ出す理由も、今の私には一つもない。