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祖母と約束

 丸い粒の電子音が車内に流れ、女性の声がまもなく次の駅に到着すると告げる。ゆっくりと瞼を上げ、頭をもたせていた窓の外を見ると、田んぼが広がっていた。新幹線が少しずつ減速し、田園の中に大きなイオンモールが見えてくる。

 富山・高岡。最後に来たのは、2019年の年末。この2年で、世界は変わった。けれど窓の外に見える景色は、2年前のそれと何一つ変わっていなかった。

 東京は数日前から急に冷え込んだ。雪国の北陸はもっと寒いだろう。そう思って持ってきたマフラーを、ベージュのトレンチを羽織った上から巻く。

 グレー地に赤と濃紺のラインが入った、バーバリーのマフラー。中学の時、亡き祖父が買ってくれた。もう15年以上使っているのもあって、薄く汚れたくすみ感がクリーニングに出してもなくならない。でも、ベースがグレーなので遠目には気にならないし、何より祖父が買ってくれたという意識から、手放せずにいる。

 愛用のグレーのリュックを背負い、席を立つ。仕事用のPCに加え、着替えや化粧品を詰め込んだリュックは、いつもよりでっぷりとしていて重い。

 新幹線がゆっくりとホームに滑り込んで停止し、プシューっと音を立てて扉が開いた。流れ込んできた空気はヒンヤリしているけれど、陽だまりがポカポカしていて、思っていたよりも暖かい。相棒の黄色いトラベラーズシューズで一歩踏み出し、新高岡駅へ降り立った。

 グレーのリュックも、黄色のトラベラーズシューズも、3年以上使っている年期ものだ。かなりくたびれてきている。それでも、やはり手放せない。今日この靴とリュックで来たのには、ちゃんと意味があった。

 2年ぶりに会う祖母は、私のことが分かるだろうか。


 ずっと、父方の祖母に会いに行くのは、億劫だった。

 年末年始は例年、家族4人揃って高岡の祖父母のもとで過ごす。元々は祖父母が私たちの住む大阪に来ていたが、少しずつ祖父の足が悪くなり、私が中学生になった頃から、こちらが高岡に行くようになった。私や3歳下の妹の希望は関係なく、「年末年始はそういうものだから」と当たり前に予定が組まれた。本音を言うと、一度くらい年越しライブや海外でのカウントダウンもしてみたかったけれど、親の手前、そんな希望は言えなかったし、そんな勇気もなかった。

 一方の妹は、大学生になるとすぐにアルバイトを始め、年末年始は「バイト先が一年で一番忙しいから」と来なくなった。年に一度は父と予定を合わせて高岡に行っていたようだが、私は、「年末年始は絶対富山」を抜け出した妹がうらやましかった。そして、もし私まで行かないと言えば、祖父母は残念がり、父の機嫌はさらに悪くなるに違いないと恐れ、ますます「年末年始を自分の好きに過ごしてみたい」と言えなくなった。

 祖父母は、孫を生きがいにしているところがあった。孫が見ている番組だからと同じ時間に『おかあさんといっしょ』を見る。孫が合格した学校について喜んで調べ、孫よりも詳しくなる。ご近所に「うちの孫はこんな習い事をして、この学校で」と話していると聞き、もし成績が落ちたりして期待を裏切ることになったらと思うと、怖かった。祖父母のために「いい孫」でなければと思ったし、両親もそれを望んでいるように感じていた。

・・・

 祖父の様態は年々悪化した。2012年、転んで顔にケガしたのをきっかけに出歩かなくなった。そうして家で寝ているだけの生活をしていたのが原因で、重度の脱水症状になり、入院。回復はしたものの、退院後は車椅子で生活するようになり、祖父母の家には介護用のベッドとその横に置くトイレやスロープが導入された。

 この頃になると、父は月一回、土曜の早朝から片道4時間以上をかけて、大阪から高岡へと車を走らせるようになった。買い物を手伝ったり、祖父母を外に連れ出したりする。大学で上京した私も、数カ月に一度夜行バスで手伝いに行った。荷物持ちくらいしかできなかったが、孫が来ると祖父母は機嫌が良くなるらしく、精神的に助かると父は言った。

 けれど、年を追うごとに居心地の悪さは増していった。思い通りにいかない身体に祖父は苛立ち、年々頑固になっていく。祖母は祖父の様子に「情けない」と落ち込んだり、泣き出したり。それを受けて父までもが苛立って、祖父や祖母を叱り出す始末。

 険悪な空気になると、私は慌てて「これ美味しいね!」とそこにあるお菓子を食べて大袈裟に無邪気に喜んでみせたりした。そこで一時休戦。「これじゃ、話さなきゃいけないことも建設的に話せないでしょ」と父に耳打ちすると、父は納得半分、不満半分の顔で腕を組む。

 祖父がわがままになっていくのも、祖母が暗くなるのも、仕方のないことかもしれない。けれど、その年老いていく姿を見たくはなかった。でも、それを言ってしまったら、彼らの何かが壊れる気がした。

・・・

 祖父が他界したのは2017年。お盆を過ぎたばかりの、まだ茹だるような暑さの日だった。すでに東京で働いていた私は、仕事中に連絡を受け、翌朝一番の新幹線で高岡へ向かった。そのちょうど1カ月前、入院している祖父を見舞ったところだった。

 葬儀場に着くと、母がロビーで待っていた。いつもと変わらぬ調子で「こっちこっち」と親族控室に案内する。「喪服は、持ってる?」などいくつか確認され、「棺はあそこだから、とりあえずおじいちゃんに挨拶しておいで」と促された。

 晩年は入院生活で食事も摂れないほど衰えていた祖父は、驚くほど小柄になって痩せほそり、頭ばかりが大きくて妙にアンバランスだった。1カ月前に見た祖父も痩せていたけれど、その時は布団に入っていたから体までは見えず、頬にはわずかに赤みが射して体温が感じられた。今、目の前で眠る祖父は、血の気が無く、動くこともない。私の知っている祖父はそこにはいない。ただの伽藍堂な骸に、恐怖を抱いた。

 祖母は祖父の枕元で、愛おしそうに祖父の顔を見つめ続けていた。長年寄り添ってきた、その日々に戻るかのような穏やかな表情で、時折「お父さん」とつぶやくように呼びかける。そこに祖父の心はないのに、何を見ているのか、何に縋っているのか。「こちらの世界」にいないような気がして、そんな祖母の姿も怖かった。

 祖母はその後も、祖父と過ごした高岡の家で、一人で暮らした。父は変わらず月一回、車で通う。私も変わらず、年末年始や三回忌などの節目には高岡へ行った。

・・・

 2019年のゴールデンウィーク、私は一人で祖母を訪問することにした。

 数年前から、母は私に「美ら海水族館に行ってみたいのに、パパが長期連休は必ず高岡に行くから、旅行は行けても関西近郊で一泊だけ」と漏らしていた。娘はどちらも上京して、夫婦二人きり。父には、ちゃんと母と旅行に行ってほしかった。一方で、父が「祖母のことは自分が見ねば」と思っていることも、祖母が長期連休には父が来てくれるだろうと期待していることも、分かっていた。

 だから交換条件を出したのだ。「ゴールデンウィークは私が高岡に行くから、パパはママと沖縄旅行に行きなさい。もしパパが高岡に行くなら、私は高岡には行かない」と。孫が行けば祖母は喜ぶ。さらに、5月1日には高岡の御車山祭があり、父は私に一度見せたがっていた。予定が合わず物心ついてから見たことはなかったが、今回の連休ならば見られる。この交渉は絶対に通ると思っていたし、事実、その通りになった。

 十連休、世間は平成から令和への改元に湧いていた。妹には、声はかけなかった。テレビ業界で働き出した妹にとって、改元というイベントは連休ではなく、多忙な仕事だ。誘ったところで来られない。そんな中、私はまた一人で「いい孫・いい娘」を優先してしまったと、少し苦々しく思いながら高岡へ向かった。

・・・

 祖母と二人きりで数日を過ごすのは初めてだった。緊張した。一緒に見舞いに行くべき祖父は、もういない。何を話せばいいのか分からなかった。

 でも、そんな心配は杞憂だった。高岡御車山祭の日、時間になるまで休憩しようと喫茶店に入ると、祖母からいろいろ話しかけてきた。みんな元気か、仕事はどうだ、東京は楽しいか……何を話すかよりも、方言を聞き取るほうが大変なくらいだった。

 ところが、そのうち話の雲行きは怪しくなっていく。祖母が父について「なんでいつまでも大阪に住んで、高岡に帰ってこないのか」と責めるように言いだしたからだ。仕事があるからとはぐらかすと、いつもは自信なげで温厚な祖母が、これまでにないハッキリとした口調で「いつかは定年になるやろ」と返してきた。父は高岡に帰ってきて当然と疑わないようだった。

 勢いは止まらず、今度は私に対して「隣の誰々さんはひ孫ができた。あそこの誰々さんはこんな立派な会社に入った。翼はいい人はいないのか? いつまでも一人でいる気じゃないやろ?」といったことを話してくる。ただ思ったことを言っただけかもしれないが、小さな企業に勤め、結婚の気配もない私に対して、暗に文句を言っているように感じた。

 私だって私なりに考え、選んで生きている。あなたの期待から父も私も解放してほしいと言いたかった。だけど、全部をグッと飲み込んで「そうだねぇ」と曖昧に笑った。

 生きてきた時代も、暮らしてきた地域や価値観も違う。多少の感覚の違いは分かっているつもりだった。けれど、ここまで強固だとは。外国の友人とやりとりするよりも、よっぽど「異文化交流」だ。それも、譲り合うことのできない、どこまでいっても平行線の異文化交流。これまでは両親が防波堤となってくれていたのだと痛感した。

・・・

 微妙な空気から救ってくれたのは、時間だった。そろそろ山車が通るからと喫茶店を後にし、大通りへ向かった。

 その日は時折小雨がちらついていたにもかかわらず、路面電車が走る通りの歩道には、これまで高岡で見たことがないほどの人だかりができていた。そんな中、シルバーカーを押す祖母は、周囲が「おばあちゃん、前のほうで見なされ」とどんどん通してくれ、あっという間に一列目に躍り出た。連れだと主張してついていくのが大変なほどだった。

 通りに出ると、武士の格好をした男性の列が見え、続いて男性陣が引く御車山が、車輪の軋む音を立てながら姿を見せた。どっしりした作りが特徴的な山車は、漆塗りに金細工が施された車輪、朱・黄・白の艶やかな花傘、心柱の上には黄金色の大きな蝶や鐘の形をした華やかな鉾留が目を惹く。薄暗く灰色だった景色が、パッと明るくなった。「田舎じゃない。100万石を誇る文化の街・加賀藩だ」そんな街の心意気を感じた。

 隣を見ると祖母は、目の前を通る山車に目をキラキラさせていた。祖父が元気だった頃は、毎年二人で見に来ていたのだと嬉しそうに話す。祭りの後はいつもあそこで食事をした、ここでもお茶をしたと、愛おしそうに語り続ける。

 帰宅してからも、溢れるように祖父との思い出を聞かせてくれた。二人で行った海外旅行、一緒に食べた美味しい料理……「本当に楽しかった」と嬉しそうに笑う。この数年で久しぶりに見た、心から楽しげな笑顔だった。

・・・

 祖母の話を聞きながら、私も元気だった頃の祖父を思い返していた。小学生の私にカメラを持たせて写真の楽しさを教えてくれたのは、祖父だった。海外旅行の話を聞かせてくれたり、知人の留学生と会わせて異文化交流をさせてくれたりしたのも、祖父だった。

 きっと祖父の影響があったから、私は海外に興味を持つようになり、英語研修に参加したり、ベトナムへ日本語を教えに行ったりした。きっと祖父がカメラを持たせてくれたから、私はカメラマンアシスタントのアルバイトをし、自身でも一眼レフを手にしている。

 私はいろんなものを祖父から受け取っていた。祖父のことが、ちゃんと好きだった。なのに、長い間どこかで鬱陶しいと感じ、関わりを避けてきた。もっと向き合わないといけなかったんじゃないか。もっといろんな話を聞けたんじゃないか。今更のように、後悔した。

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 それからしばらく、祖母に会いに行く回数を増やそうか、行くなら一人がいいか、父と予定を合わせて一緒に行くのがいいか悩んだ。行けば嫌な思いもきっとする。家族や私の今後について、私とは異なる価値観であれこれ言われるだろう。けれど、今、祖母から祖父との思い出や父の幼少期について聞かなければ、また同じ後悔をするかもしれない。

 決めきれずにいるうちに2020年になり、新型コロナウイルスの波がやってきた。ここで会いに行けば、私が媒介となり高齢な祖母に感染しないとも限らない。それに地方では、このコロナ禍に東京から親戚が来たとなると、その後生活しにくくなる可能性もある。悩んでいたのが無駄なほどに、会いに行く選択肢が消えた。

 コロナによって会う機会が奪われて初めて、会える悩みが贅沢なのだと気がついた。いつまで会えないかもわからない。そのうちに祖母が急に体調を悪くしてしまうかもしれない。会う・会わないを悩む余地さえないことに、もどかしく、不安になった。

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 10月、祖母が尿路感染症の発熱で入院した。入院は年明けまで長引いた。

 父は「もしかしたら最後になるかもしれないから、年末年始は高岡に行く」と、変わらず問答無用で決めた。しかしそれも、二度目の緊急事態宣言で病院の見舞いがガラス越しすら不可になり、中止。10年以上ぶりに高岡以外で迎える年越しになった。大阪の実家で見る紅白は年末だという感覚がせず、あんなに億劫だった高岡での年越しが、けれど私にとっては年の変わり目を実感する儀式のようになっていたのだと知った。

 1月に入り退院した祖母は、自宅には帰らず、老人ホームに入居した。一人暮らしには不安があるが、祖母は高岡を離れたがらない。高岡の施設でお世話になるのが一番安心だった。

 その施設では、感染症対策につき訪問面会はできなかったが、LINEを使った面会ができる。早速、申し込んだ。

 私は焦っていた。祖父は、一度入院してから、人が変わったように老いていった。もしかしたら今回の祖母もそうなるのではないかと不安だった。そうなったら、これからゆっくり向き合って話すのも難しくなってしまうかもしれない。

・・・

 LINE面会当日。職員の方に取り次いでもらうと、祖母はLINE通話が何かも知らず、自分に電話がかかってくるとも思っていなかったようで、ポカンとした顔をしていた。ところが、職員の方が「お孫さんですよ」と伝えると、画面を覗き込み、みるみるうちに溢れんばかりの笑顔に変わっていった。泣きながら笑って喜び、「元気?」と何度も聞いてくる。その都度私は「元気だよ、みんな元気」と声を張って返した。

 その表情の変化に私は驚き、動揺した。

 生きがいにされるのも、期待をかけられるのも、あんなに嫌だったはずなのに、こんなにも誰かの生きがいになれることを、嬉しいと感じた。顔を見せるだけでこれほど喜んでもらえるのなら、生きがいにされたっていいではないか。ずっと抱えていたモヤモヤや不安が、霧が晴れるように消えていった。

 そうだ、私は小さな頃から、目に入れても痛くないほどに可愛がってくれる祖母が大好きだった。買ってもらった服を着て喜ぶ孫を見つめる祖母の目が、好きだった。一緒に出かけた時、美味しそうに食べて笑う祖母が、好きだった。会えることが当たり前でなくなったから、そしてLINE通話で表情が変わる瞬間を見られたからこそ気付けたのかもしれない。

 通話でこれだけ笑顔になるのだから、実際に会えたらどんなに喜んでもらえるだろう。ワクチンが行き渡ったら、今度は、「いい孫」を演じるためではなく、自分の意思で、自分のためにも、会いに行こう。そう、誓った。

・・・

 2度目のワクチン接種も完了し、全国的な陽性者数も落ち着きを見せてきた11月。金沢への出張が舞い込んだ。

 面会は相変わらず解除されていなかったが、施設の手続きなどで毎月通っている父はガラス越しに話しているという。連絡すれば、私もガラス越しで会わせてもらえるかもしれない。新高岡は新幹線で金沢の一駅手前。行きに寄れたら。早速、施設へ電話をした。

「ちょうどご家族みなさんにお伝えしようとしていたところで、今月末から面会可にしようとしていたんですよ。2度のワクチン接種が完了されている方に限り、お一組2名まで、15分だけですが、直接面会できます」

 受話器を耳に当てたまま、私は大きくお辞儀をした。


 新高岡駅に降り立ったのは、面会予定の40分前。施設は駅から徒歩10分程度だ。少し早いけれど、ゆっくり歩いて行くことにした。途中、コンビニ代わりに立ち寄ったドラッグストアで、抗原検査キットを見つけて、購入する。面会の条件に求められたわけではないが、念の為にと思った。外のベンチで唾液を採って試すと、陰性の表示が出た。

 結局施設には15分早く到着した。受付を覗くと、髪を短く切った女性が座っている。「面会を予約している、廣瀬の……」と伝えると、女性は笑顔で「ああ、廣瀬さんのお孫さんの!」と立ち上がり、そそくさとこちらへ出てきた。

「えっと、まずこちらで消毒と、マスクをこの新しいのに取り替えていただけますか? そしたら、そちらのベンチでお待ちくださいね」

 指された白いベンチの足元には、足跡マークを印刷した用紙をラミネート加工したものが貼ってあった。施設内へ斜めに約2m離れた位置にも、同じ用紙がこちらに向き合うように貼ってある。女性はそこへ椅子を用意し、後ろの窓を開けた。

「こんなコロナの状況でなければね、本当はここの施設は、ご家族がご一緒でしたら、いつでも自由に出ていただいていいんですよ。外食でも、お買い物でも。みなさんが、一番楽しくて幸せなのがいいですからね」

 朗らかに話す女性に、いい施設に入れたのだなと思う。ここなら、父も安心して祖母を任せられるし、祖母も安心して過ごせているに違いない。

 さて、祖母とはどのくらい話が通じるだろうか。ソワソワしながら待っていると、奥からカラカラと音がしてきた。女性が「お見えになりますよ」と笑って、音のほうへ迎えに行く。祖母が、銀色の歩行器を押して現れた。

・・・

 不思議そうな顔をしながら歩いてきた祖母は、ゆっくりと用意された椅子に座った。自分に訪問者があるらしいことは理解しているようだが、それが誰かは分かっていない様子だ。無理もない。目の前に座る私は、最後に会った時から髪型も眼鏡も変わっているし、マスクもつけているのだから。

 職員の女性が祖母の横について、耳元で優しく「お孫さんですよ」と伝えた。

 途端に、祖母は目を見開いて、マスクを外した。そのまま泣き崩れるように俯いて、顔を覆ってしまった。一瞬のその変化は、LINE面会以上だった。

 しかしすぐに起き上がって涙を堪えるように笑い、目の端を拭う。女性が「誰か分かる? いつも息子さんが話している」と話しかけると、「翼や」と言った。ハッキリと、祖母の口から、私の名前が出てきた。

 それまで抱えていた緊張が、一気に解けた。満面の笑みで「おばあちゃん、会いにきたよ」と声をかける。少し間を置いて、祖母が聞いてきた。

「みんな、元気?」

・・・

 誰一人、風邪一つひいていないこと。私も妹も東京で働いていること。ゆっくりと一言ずつ伝える。耳が遠くなった祖母は、2m離れた私の言葉が聞き取れていないこともあったが、その都度、職員の女性が祖母の耳元で富山のイントネーションをつけて伝え直してくれた。

「なら、何もわしが心配することなんか、ないけ。みんな自分の力で生きとって」

 祖母は嬉しそうに、けれどどこか少し寂しそうに言う。

「みんな、偉いもんや。わしは働いたことがないから……」

 時代が違う。それはそうだろう。けれど祖母は、みんな自立していると知るほどに、頼もしいと思うと同時に、自分を情けないと感じるようだった。

「だけど、おばあちゃんは、お家のこと全部していたでしょう? ねえ、おばあちゃん、この靴、見て」

 黄色いトラベラーズシューズを履いた足を、子供のようにパタパタさせて見せる。

「この靴、おばあちゃんに買ってもらったんだよ。それから、ほら。このリュックも、おばあちゃんに買ってもらったの」

 靴とリュックを見た祖母は、パッと明るい表情をして「ほんに、この人らがあれ欲しいこれ欲しいと、わしは一つも分からんけども買うて」と職員の女性へ自慢した。

 高岡に来るたびに「何が欲しいんか?」と聞いてきたのは、祖母だ。私の欲しいものはだいたい本か電化製品だったが、本をねだれば「いつでもお父さんに買ってもらえるやろ」と言われ、電化製品のことは「分からない」と一緒に楽しめない。何なら祖母が満足し、私も使えるか。毎回頭を悩ませていた。

 けれど、そんなことはどうでもいい。その後、私は買ってもらった靴やリュックを使い続けているのだから。祖母がその頃のことを楽しげな想い出として語っているのだから。

「あの頃は、ほんまに楽しかった」

 溢れるような笑顔で、祖母はそうつぶやいた。

・・・

「お盆と正月、墓参りはどうしとる?」

 唐突に祖母が尋ねる。お墓と家が、常に気がかりらしい。しかし毎月高岡へ来ている父も、おそらくお寺さんへは行けていない。

「今年のお盆は、コロナが大変だったから、できてないの。お正月も、今年は休みが短いから、難しいかなぁ。でも、またちゃんとするから」

 職員の女性が「そうですよねぇ」と頷いて伝え直すと、祖母は悲しむでもがっかりするでもなく、小さく「はーん……」と声を漏らした。どの程度“コロナ”を理解しているのかは分からないが、お墓参りは難しいこと、それは仕方のないことであるのは伝わったようだ。少し黙ってから、柔らかな笑顔に戻って、言った。

「また、みんなでお墓参りをしたい。それから、鮎を食べに行きたい」

・・・

 これまではお墓にこだわる祖母が、分からなかった。「孫が結婚してくれないと、無縁仏になってしまう」と嘆く祖母に、田舎の古臭い考えだと思っていた。けれど、今日は少しだけ、分かる気がした。

 お墓に手を合わせることで、一緒の時を過ごしたいのだろう。共に祖父へ、思いを馳せたいのだろう。

 私は、祖父に買ってもらったマフラーを祖母に見せずに、コートの下に押し込んだ。祖父の名前も出さなかった。物も名前も出さなくたって、「みんなでお墓参りがしたい」、その希望にはしっかりと祖父が存在している。今ここに、確かに祖父の存在があった。

「そうだね。来年のお盆は、みんなで行けるといいね」
「ほんまに、行きたいわ」
「うん、お墓参りと、鮎ね。みんなにも、言っとく」

 なぜ鮎なのかは分からなかったけれど、きっと祖母にとっての「みんなで食べた美味しいもの」の記憶なのだろう。

 職員の女性も、祖母へ「きっとまた、外に出られるようになりますよ」と優しく伝える。祖母は明るい顔をして、力強くこう言った。

「ほんなら、行けるようになった時にちゃんと行けるように、それまでわしが元気に生きとかんといけんね」

 それは祖母が自ら口にした、未来への希望であり、意志だった。

・・・

 面会は予定の15分を大幅に超えた。職員の方は笑顔で「次の方までも時間ありますし、おばあさまが楽しそうにずっと話してらっしゃいましたから」と言ってくれた。帰り際、祖母はバルコニーまで出て、目にいっぱいに涙を溜めながら、駅方面へ歩いて行く私の後ろ姿をずっと見送っていた。

・・・

 この日、私は祖母と約束をした。「いつか、家族4人と祖母で一緒にお墓参りをし、鮎を食べに行こう。それまで、元気に生きよう」と。

 施設から外出許可が出るのがいつになるか、まだコロナの状況も読めない。許可が出たところで家族4人の予定が合うかも分からない。その約束が果たせる保証は、どこにもない。

 けれど、それでも構わなかった。祖母が自ら未来への意志を口にした。次の目標ができた。約束は、元気に生きるための希望になる。

 しばらくお墓参りはできていないから、祖母と行く前に手入れをしなければならないだろう。お寺さんへの道は、私が一人で運転して行くには不安があるから、父と予定を合わせないといけない。冬場は車では行きにくいし、お墓を洗うのも凍えるから、春になった頃がいいだろうか。高岡駅まで歩きながら、そんなことを考えた。

 高岡に来るたびに抱えていた億劫な気持ちも、今日抱いていた不安と緊張も、気がついたら全てなくなっていた。もう高岡は、「来なければならない場所」ではなく、「自ら選んで行く場所」になっていた。

 高岡駅・改札外の待合室の窓から外を見ると、街の向こうにうっすらと立山連峰が見えた。暮れゆく夕陽を受けて紅く染まっている。雪を被って白くなった山頂で、空と山の地平線がくっきりしていた。視界の限り左右に続く雄大な峰々は、2年前と何も変わることなく静かに街を見守っている。

 その姿が、ずっと続いていく時間を、世間がどんなに変わっても、変わることのない祖母との希望を、約束してくれているような気がした。


祖母宅から出てきた、祖父が撮影したと思われる写真。左が私(5歳?)、右が妹、奥が祖母。
同じく祖父が撮影したと思われる、5歳頃の踊っている私
2019年5月1日 高岡御車山祭
2019年5月1日 高岡御車山祭
2021年11月、新高岡駅からの眺め。駅施設の向こうには、田園の中にイオンモールが見える
2021年11月、新高岡駅のホーム。この日は日差しが暖かかった
高岡駅待合スペースの掲示。晴れた昼間は立山連峰の切り立った山面が見える

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