天才にはなれないけれど
夜はできる限り小説を編集する時間に当てている。
夜の編集はなかなか辛い。それなりのダメージを喰らう。小説の内容に、感情が乱高下。編集するよりも「分かる〜」とか、「ちょっと、なんでそうなるんよ」とか、「ああ、なんて健気なの、あなたは」とか考えてしまう。結果、1話を編集するのに相当な回数読み返すことになり、想定以上の時間がかかっている。
でも、やっぱりこの編集している時間が幸せだ。まだまだやることは山積みで、3歩進んで2歩下がるみたいな状態なのだけど、編集している間だけはそんなことを忘れて、浸れる。これが紙に縦書きで載る。紙の香り、吸い付き、インクの香り。想像するだけで、待ち遠しくて恋焦がれる。
早く、みんなに自慢したい。この作家さん、素敵でしょ、天才でしょって。編集するのに読めば読むほど、ほぅっとため息が漏れて、大好きになっていくのだ。愛おしくなっていくのだ。
同時に読めば読むほど、この世に天才っているんだなぁと、まざまざと見せつけられてしまう。そうして、認識する。私は天才にはなれないなぁ、と。なれっこないし、なろうとする気も、虚勢張って同じレベルに立とうとする気も、同じ土俵で勝負しようとする気もなくなってしまう。
なんてことを書くと、一定数「あなたにはあなたの良さがあります」とか「比べる必要ないんだよ、あなたはあなた」とか言われるんだけど、そういうことじゃない。私は落ち込んでいるわけでも、自分がその人と同じようになりたいと思っているわけでも、ましてや天才になろうとしているわけでもないのだ——なれたらいいなって、ちょっとも思ってないと言ったら、それは少し嘘になるけれど。ただ純粋に「この世に天才って、いるんだな」。それだけ。
考えてみれば、私の周りにはよく「天才」がいた。そして今も、いる。
天才的にイベントを引き寄せちゃって、そしてそれを天才的な文章に昇華させちゃう人。最強の愛嬌でみんなに愛され支えられる天才。笑いと深みの緩急が絶妙で、知性の高さと知識教養の引き出しが豊富すぎる天才。ちなみに、一人目は誰か言わずもがな。ほぼ毎晩、彼女の文章に向き合い中。そして、後者2つは同一人物で田中泰延さんというお名前なのだけど、一人で2要素も天才を持っててどうする。
私自身は……思いつくのが、「新しくおろしたスマホの画面をそうそうに割っちゃう天才」なのだけど、それもそれでどうする。
住んでる世界が違う、なんてことは全然思わない。一緒に楽しめるし、同じものを見て話もできる。同じ世界で、同じ世間で生きている。同じ方向を向いて、同じゴールを目指し、一緒に何かに取り組むことだってある。
だけど、なんというか、持ってる特殊能力が違うというか、司ってる星が違うというか、役割が違うというか……そんな気がすることがある。「天才っているんだな」って。
同時に気づく。「天才=万能」ではないということに。
私が出会ってきた天才たちは、あるいは私が天才だと思った人たちは、みんなそれぞれに苦手があったり、怖気付くこともあったり、ある面では天才なのに急にポンコツになったりする。そういう人たちだった。
そうして、思う。
「私は天才にはなれないけれど、秀才にはなれる」
書いてみるとこれも相当な自惚れだなとも思える。けれど、周囲の天才を「天才っているんだな」と感じれば感じるほど、「だけど私は秀才になれる」という確信が湧いてくる。根拠はない。理屈もない。ただ確かに思えるのだ。
天才たちが天才であっても万能ではないのなら、秀才が右腕になればいい。そうして伸び伸びと天才を発揮してもらおうじゃないか。私にとってそれは、自分が天才になるよりも、よっぽど楽しくてうれしくてワクワクするのだ。
そういえば学生団体の活動で、一年の抱負をみんなで色紙に書いたとき、私は「最強のNo.2になる」と書いた。周囲にはあんまり伝わらなかったみたいで、「なんで最初から2番を目指すの?」とキョトンとされてしまったけれど。偉さとか権限とかそういう本当の順位づけではないのだが……。
いまだになんであんなに理解されなかったのかが、私には分からない。それ以上に、「やっぱり最強のNo.2、ええやん。なんやかんや、今も昔も変わってないやん」と思ったりもしてる。
そう考えると、だいぶ前から認識していたんじゃないかな。「自分は天才にはなれないけれど、天才を生かす秀才にはなれる」って。
まだまだ慣れていないことや自信のないことが多くて不完全だけど、やっぱり私、きっと根っこが似合ってるよ。編集って仕事。
さあ、今夜ももう少し、天才の文章に打ちのめされながら感嘆を漏らして編集を続けよう。