【映画感想】おまえたちは「LOGAN/ローガン」でウルヴァリンの壮絶な最期を目撃しろ
註:この記事はタイトルでわかる通りネタバレに配慮しない。そんなものは過剰なコンプライアンスだ。おまえだってウルヴァリンはこの映画で死ぬとうすうす勘付いていたはずだ。でもそれ以上の細かい点についていちいち書きつらねてスポイルしたりはしていないのであんしんしてほしい。
おまえたちはX-MENを知っているか? おれは知っている。映画の最初のやつと2番めのやつをテレビで大昔に見たからだ。それは超能力を持った全身タイツのヒーローたちが、同じく全身タイツを着た悪党と戦う映画だった。まあそんなに悪くないが別にすごくいいということもなく、原作コミックやキャラクターに思い入れがあったわけでもないおれはその後ほかのX-MENシリーズに興味を抱くこともなく、今日まで生きてきた(でもデッドプールは見た。超おもしろかった)。
『LOGAN/ローガン』はそんなX-MEN映画シリーズの最新作だ。おれはこの映画が今までと一風変わった作風で、本国でもとても評判がいいという情報は鋭くキャチしていた。だがどうせ人気キャラのウルヴァリン(黄色いタイツを着て鉤爪と再生能力で戦う人気キャラ。ウルヴァリンはコードネームで本名はローガンだ)がフィーチャーされてるから人気が底上げされてる部分もあるんだろうと思って半ばナメていたし、シリーズを追ってないのに最新作だけ見るのもどうかと思ったので、最初は見に行くつもりは全然なかった。だがこの映画が日本で封切りされると、ちょっとした事件が起こりはじめた。Twitterのおれのタイムラインに、『LOGAN/ローガン』を見たあと「シェーン……カンバック……シェーン……カンバック……」とうわごとのように繰り返しつぶやく人間がぞくしゅつしたのだ。
「シェーン……カンバック……」というのは超大昔の西部劇映画『シェーン』のラストのセリフだ。ならず者に苦しめられる西部の町にタフなガンマンのシェーンがやってきて、ならず者を殺して町を救う。だがシェーンもならず者の銃弾を受けて傷を負ってしまう。シェーンとなかよくなった町の少年は家に来て手当てを受けるようにというが、シェーンは「一度人を殺した者はもう元には戻れない」と言い残して町を去る。少年は必死に呼びかける……シェーン……カンバック……だがシェーンは傷ついたまま西部の荒野に消えていく……。なぜ? 全身タイツを着たコミックヒーローが戦う映画と西部劇に何の関係が? おれはその謎を解くべく映画館に向かった。そして映画を見終えたとき思わずつぶやいていた。「シェーン……カンバック……!」
この世界に全身タイツのヒーローはいない
かつてヒーローだったローガンはこの映画では見る影もない。年老いて再生能力は衰え、アル中で手足は震えっぱなしだし、カネも持ってないので格好も小汚いし、クソみたいな金持ちにアゴで使われながら運転手をして日銭を稼いで暮らしている。その見た目はまるでドンブリジジイ(※ドント・ブリーズに出てくる強いジジイのこと)だ。そしてなけなしのカネで薬を買って、チャールズ・エグゼビア──かつてはX-MENのボスでプロフェッサーXと呼ばれていた彼だ──の介護をして暮らしている。このプロフェッサーXもやはりかつての見る影もなく、アルツハイマーのせいでテレパス能力の制御ができなくなっており、薬が切れると半径数百メートル内の人間を麻痺させて窒息死させてしまうという激ヤバ要介護老人爆弾だ。今の彼らの唯一の夢は、いつか少しずつ貯めたカネで船を買い、人里を離れて海の上で平和に暮らすこと。だがその望みが実現する可能性は限りなく低い。
そんなノーフューチャーな二人のもとに、「悪いやつに追われている。娘をウルヴァリンに助けてほしい」という一組の母娘が現れる。全身タイツを着て正義のために戦う無敵のヒーローなんてコミックの中だけの存在だと突っぱねるローガンだが(この世界では在りし日のウルヴァリンやプロフェッサーXたちの活躍が脚色されたものがコミックとして出版されている)、結局は半ばなし崩し的に娘・ローラを連れて逃避行に出ることになる……というのが本作のあらすじだ。
暴力には必ず代償が伴うという冷徹な現実
誰かを殴るということは殴り返されるリスクを負うということだし、誰かを銃で撃つということは撃ち返されるリスクを負うことだ。そんなことは当たり前だと思うかもしれないが、ヒーロー映画を見ているとき、おれたちはいっときその事実を忘れる。無敵のヒーローが傷一つ負わずに悪党をぶっ飛ばす……そんな光景を期待して見ているはずだ。
だがこの映画には無敵のスーパーヒーローはいない。ローガンはかつて非人道人体実験で骨格を超硬合金に置換されているし少々は再生能力も残っているので他人よりだいぶ頑丈だが、その分その身体にはどんどん凄まじい傷が蓄積されていく。ローガンはR-指定映画ならではのド派手な人体ケバブ祭りを大開催し、その分自らも傷つき、そして最期には……死ぬ。
この映画が決して「人気ヒーローを惨たらしく殺したらウケるやろw」といった安直な考えで創られたのではないことは、見れば一目瞭然でわかる。自分がもはやかつてのスーパーヒーローでなくなったことを誰よりも自覚しているローガンが、その上で敢えて少女を守るために過酷な暴力のただ中に飛び込んでいくことを選ぶ……だからこそ、そこに暴力というものが持つ真の重さ、そして敢えて暴力の道を選ぶ人の意志の尊さが描き出される。そこに『シェーン』と同じく、正義のために戦いながらも傷つき、社会に背を向けるしかない男の悲哀が描かれている。そして映画を見たものは思わず叫びたくなる。「シェーン……カンバック……!」と。
これを敢えてX-MENシリーズでやったことの意義
作中でも引用されている『シェーン』のように、暴力の重さを描いた映画というのは割りとたくさん存在する。それだけならさして目新しいところもない。だが、これを敢えてマーベルコミックのX-MENシリーズでやったことにこそ意義があるとおれは思う。
かつて全身タイツのスーパーヒーローとしてアメリカを、世界を救ったウルヴァリンが、誰からも尊敬されずにクソみたいな労働をし、老人介護をして孤独に暮らしている。なんともひどい話だと思うだろう。だがその落差があればこそ、おれたちの心に響くものがある。おまえは小学校の卒業文集の、将来の夢のところになんと書いた? おれは確か総理大臣になるとかなんとか書いたはずだ。だが現実はどうだ。かつて抱いた全能感にも等しい自信は失われ、毎日クソみたいな労働をして、誰からも尊敬されずに孤独に暮らしている。おまえだって大なり小なりそうだろう。この映画で描かれるローガンの状況は、おれたち自身とある意味同じだ。
だがローガンはたとえスーパーパワーを失ってクソみたいな状況に置かれようとも、誰からもかえりみられずとも、今の自分にできることをやり続け、葛藤しながらも人を救い続けた。そしてそれによって、最期にはある意味での救いを得た。スーパーヒーロー・ウルヴァリンとして死ぬという救いをだ。単に悪党と戦って少女を救ったことだけでなく、ボケ老人爆弾と化したプロフェッサーXのシモの世話をし続けていたことだとか、そういう一連の出来事も含めて全て、ローガンは真のヒーローだった。
ヒーローとは全身タイツを着て世界を救う存在とイコールではない。クソみたいな状況におかれても、誰かを救うためにたとえわずかでも力を尽くすやつがヒーローだ。おれはローガンからそれをおしえられた。おまえも『LOGAN/ローガン』をみて真のヒーローの生き方を学べ。そしておまえも真のヒーローになれ。
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