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すかんちのこと、または愛するバンドの変遷そのものが人生のマイルストーンであるということ

noteを始めてから、いつかすかんちのことを書こうと思っていて、今年はデビュー30周年だからそれに合わせて…と。でも、書こうとするととんでもないボリュームで語ってしまいそうだし、どこからどう書こうかなと逡巡していたのでした。いま、どうしても書かなきゃいけないという気持ちになったので、思い切って書くことに。書き上げてから読み返したら、まとまってなくて無様な文章になってたけど、もう、このまま公開することにします。

まずは、馴れ初め的なこと

好きな曲とかアーティストとかを訊かれたら、いくつかその名を挙げることが出来るけど、「すかんち」はそれらともまたちょっと違っていて、敢えて言葉にするならば“人生レベルで愛してるバンド”だ。あたしがドラムを叩きはじめた頃、憧れてお手本にしたのがこの「すかんち」のドラマーの小畑ポンプさんだった。ヘヴィーでパワフルなのに繊細で深みがあって実にグラマラスで、この上なくエモい。すっかり惚れ込んで、叩くフォームからフィルから手癖と思われるフレーズまで、何もかも真似しようとした。そんなポンプさんのスタイルはまさに、すかんちのバラエティー豊かな、いずれも素晴らしい楽曲によって育まれたのだと思う。すかんちのトリビュートバンドもやった。衣装も真似て、あたしはステージでポンプさんになりたかった。

2001年、ポンプさんが当時やっていた「電車」というバンドのライブ後にご挨拶させていただいて以来、よくしていただくようになり、すかんち時代に使っていた26インチのバスドラやスネアを譲っていただいたりもした。あのツアーで使っていた太鼓たち、いまは我が家の家宝です。

すかんちがどれだけカッコいいバンドかはライブ映像を見てもらうのがいちばんなので、YouTubeにたくさん上がってる映像を、これ著作権とか版権どうなってんのかなとちょっとだけ思いつつ、もうリンク貼ってしまう。アップしてくださってる方々、ありがとうございます。

大阪府高槻市で1982年に結成されたすかんちは、8年後にCBSソニーからメジャーデビュー。そのきらびやかな楽曲の数々にはレッド・ツェッペリンやクイーンといった70年代の王道ロックやポップスや歌謡曲なんかへのオマージュが散りばめられて、音楽性の幅と奥行きが感じられたのであります。メンバーひとりひとりのキャラも立ってて、すごくキャッチーだった。

そんなすかんちはTV番組のタイアップなんかもあってどんどん知名度を上げて、6枚のアルバムを発表したあと1996年に突然解散しちゃうんだけど、10年後に再結成。ドクター田中さんと小川文明さんの2人のキーボーディストも揃って5人でのライブは夢のようだったな。

突然やってきた、試練とかお別れとか

なのに、2009年、ベースのshima-changが階段から転落し脳挫傷を負ったという報せ。命は大丈夫と聞いて喜んだあたしに「でももうベース弾くのは無理やと思う」とポンプさんは言って、それはもうすかんちは出来ないというようなものだったからすごくショックで、そのときのポンプさんのつらそうな表情がずっと忘れられなかった。

でもshima-changはリハビリを続け、ついに2013年のはじめに、ステージに戻ってきた。車椅子に座っているのもやっとで話もあまり出来ない様子はやっぱりショッキングだったけど、昔からすかんちをよく知る佐藤研二さんにベースのサポートをお願いしつつ、shima-changがそこにいることがうれしくて、涙が止まらなかった。

途中で脱退したドクター田中さんに代わり5枚目のアルバム『GOLD』からキーボーディストを務めた小川文明さんが亡くなったのが2014年。以前から重い癌を患っているとは知らされていたので、それなりに静かに覚悟はしていたつもりだったけど…。文明さんには一度だけ楽屋で握手していただいたことがあって、そのときにはもうだいぶお痩せになっていたけど、手がすごくやわらかくてしっとりしていたのを覚えている。メンバーの中でも突き抜けてロックな印象の人だった。

2018年9月24日、新木場ジャンクション。「SPARKS GO GO」主催のライブイベントで、文明さんのいないすかんちを見て、文明さんを偲んだ。「きっとそのへんででんぐり返りしてるんやで」といったMCに笑い泣きしつつ。

でもまさかあれが、ドクターの最後のステージになるなんて。

この訃報はなんの前触れもなく、あまりに突然だったので、意味がわからなかった。メンバーでさえそうだったようなので、われわれにしてみれば当然の話。「来年はデビュー30周年だからいろいろやるよ」と聞かされていた矢先のことだった。

あまりに突然の転校に

それから3ヶ月後の1月27日。すかんち主催で、ドクターのお別れ会が開かれた。あたしは仕事で10日間ばかり鹿児島出張中だったのだけど、それを2日間だけ抜けさせてもらって下北沢の会場へと駆けつけた。イベントタイトルの『ドクター田中は転校生』は、ドクター作の名曲『涙の転校生』から取ったもの。そっか、転校か、と。

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入口には花が届いていて、開場待ちの地下スペースにもドクター愛用の機材や衣装やパネルが展示されてたんだけど、それを見ても、まだちょっと理解できない感じ。

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「これはライブじゃないから」

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ドクターのプリント入りのTシャツ姿のROLLYさんと、ポンプさんと。車椅子ごと抱え上げられて登壇したshima-changと。サポートに、ベースはスパゴーの八熊慎一さん。キーボードは文明さんが発掘してきたという村原康介さん。多分すごく急遽、決まったのだと思う。ROLLYさん、MCで何度も何度も「これはライブじゃないから」と言っていた。

最初に、ドクターがすかんち加入以前に所属していた「スキャンドール」というバンドの貴重なライブ映像。「本人はすごく恥ずかしくてイヤだろうけど」と笑いつつ流される時代感あふれるヴィジュアルに、息をのんで見入るわれわれ。

そして、オープニングからこの曲。

ライブでは必ずセットリストに入っていたドクターの代表曲。今回はROLLYさんが歌った。「自分が担当していたコーラス部分もつい歌ってしまってすごくしんどい」と笑っていたのが、すこぶる「バンドあるある」だった。

ドクター在籍時のナンバーを4曲演奏したあと、八熊さんと村原さんが引いてステージは3人に。「すかんち水入らずタイム」と題したこの時間帯は多分、内容もほとんど打ち合わせのないまま、長年やってきた呼吸の感じで懐かしい曲を。ROLLYさんが歌うドクターの曲は、そうやって異化されたことであらためて名曲なんだなと思わせられた。ドクターの思い出話やバンドの結成秘話もたくさん語られた。どれも些細な日常のしょうもない出来事なんだけど、こうなったとき初めて、そのしょうもない出来事の起きる取り留めもない日々をどれだけ愛していたかを、人は、わかってしまう。

そうだ、悲しかったんだと気づく

演奏は渾身だった。ポンプさんのドラムは相変わらずカッコよくて、やっぱりこれが原点だよねと思うのだけど、こんな会だとわかってるからか、太鼓やシンバルの一打一打が、どれも悲しみほとばしる音に聞こえた。ROLLYさんは曲間で何度も「疲れました」と笑ってた。あたしも朝、家を出て会場に来るまで体がしんどくて、やっぱり鹿児島から駆けつけるのはハード過ぎたかと思っていたのだけど、彼らの様子を見ながら突然、ああそうだ、このしんどさは、悲しかったんだ、と気づいた。

はなから「一緒に歌いましょう」という会だったので、フロアにいるあたしたちも力一杯に歌った。コーラス部分はドクターのパートを歌ってみたりしながら、楽曲は底抜けに明るくて体もノリノリなのに、涙が、というかそれは涙だったのかどうか、流れるものが止めどない。そこには感情はなくて、身体反応だけがあったという感じ。

また会えるよね、きっといつか

名残惜しい、名残惜しいと言いながら、すかんちの3人は力を使い果たそうとしてるように見えた。そんな終盤、shima-changがメインボーカルを務めての『涙の転校生』。shima-chang、多分こんなに長い時間ステージに立つのはすごく頑張ったんだと思う。声もそんなにしっかり歌えるほどは出せないから、これもみんなでサポートして歌いましょうとROLLYさん。

でもこれが、大きな大きな仕掛けだった。この曲には、こんな歌詞がある。

また会えるよね、きっといつか
また会えるよね、約束さ

その部分を何度も繰り返し歌いながら、あ、と気づく。この曲、もともとは好きになったクラスメイトの女の子が突然転校していっちゃうという切ない思春期のラブソングで、だから普通にそのつもりで歌ってたんだけど。歌ってるあいだに、それはいつしかあたしたちからの、ドクターへのメッセージになっていて。そのときようやく、目から流れる水が涙になった。そして初めてこの会のタイトルの意味が、ずしっと心にやってきた。この曲をみんなで歌うことは、ものすごい通過儀礼だったのだ。

残された者はとにかく必死で生きていく

そのあとはもうダメダメで、最後の『さよならの贈りもの』のときにはまともに前を向けず。こうやってみんなで歌うことで、ドクターはもういないんだということを、残ったメンバーはあたしたちに体でわからせてくれたのかなと思った。最後にドクターの弟さんのメッセージがスクリーンに字幕で流されて、亡くなったあたりの詳細を知らされた。

もうこれ以上はなにも出来ない、というくらい上演してもらって閉幕した後も、ファンたちはなかなか帰らなくて、きっとみんな気持ちの持っていき場がなかったんだろうと思う。

ただ、うれしいこともあった。一昨年の秋のshima-changはまだまだとても演奏できる状態ではないように見えて、ああこの人の音楽的才能はもうこの体で表現されることはないのだろうかと悲しく思ったものだったけど、この日のshima-changはタンバリンのリズムも前回よりしっかり取れていて、歌えもしたし、曲によっては左手でずっとテルミンを奏でてた。ときどきMCに唐突に突っ込んだりもしたし、なにより登場直後に「泣いてまう〜」と、みんなが必死こいて耐えてる中でダイレクトに本音をぶちまけてしまうあたりも、笑うタイミングがちょっとおかしいところも、昔のままだった。

昨年の2月には、筋肉少女帯などで活動し、ポンプさんとも「電車」を一緒にやっていた石塚BERA伯広さんが交通事故で亡くなったりもして、だいぶダメージの来ていたところへ、ドクターの訃報の直後にポンプさんはお母さまも亡くされた。どれだけ過酷なのか、と思う。終演後にご挨拶したとき、本当にしんどそうに「もうしばらくはこういう会はしたくないですわ」と言っていた。

さすがにみんなメンタルが落ちて、もうデビュー30周年企画は流れてしまうんじゃないかと心配してたんだけど、ライブ、またやってくれそうな感じだった。そんなのいくらでも待つし。そしてもう本当にヨボヨボになるまで、40周年でも50周年でも、生きてるかぎり、そのときどきの時点でのすかんちを、見せてもらえたら。

いまあらためて言葉にして伝えたいこと

楽曲やパフォーマンスもそうなんだけど、アーティストという人種は、生きているということそれ自体で、あたしたちに無上のギフトを与えてくれる人たちだ。

知り合った人が大事な存在になっていき、ときには喧嘩したり行き違ったりもしながら同じ時間を生きて、受け入れ難い別れを受け入れ、それでも必死で歩いていく過程。

それを見ながらあたしたちは笑ったり泣いたり、生きる力をもらったり。日々が豊かになったり。

あたしは、すかんちに、そんな日々をもらってきました。これからもそうであってほしいし、そうだろうと思います。文明さんとドクターはこの世にはもういないけど、彼らの残した作品と記憶は、かけがえなく、色褪せない。

会の翌日、朝イチの飛行機で大分に帰り、そのまま再び鹿児島の出張先へと移動してきました。締切に追われてる原稿もあるのだけど、この記事だけはいま書いておきたかった。悲しみの中で、ファンのために渾身で会を開いてくれた人たちに、あたしも全力で感謝を伝えたかったのでした。文章ぼろぼろだけども。

そして日常のそこここに

文明さんが亡くなったことを知らされた日、どういうわけか突然、あたしの愛車のライトが消えなくなった事件があった。スイッチをどう操作しても、エンジンをオフにしても消えない。後日、その話をしたら「ああそれは文明さんのイタズラやで。イタズラ大好きな人やったからな…」とポンプさんは笑った。いちファンのもとにまでイタズラを仕掛けてくるこの手厚さよ…。

今回はホテルに戻る前に軽く食事をしようと、都内の定宿のそばの行きつけの店に行こうとしたら、なんとその店がなくなっていて、雨も降るし仕方なくとりあえずいちばん近い店に駆け込んだのだけど、それは偶然にも「串カツ田中」。ドクターに呼ばれたかな。

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一緒にドクターを偲んだみなさん、またデビュー30周年記念ライブでお会いしましょう。

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