「帰宅の時間」12/14
コンタクトを外し、世界の輪郭が曖昧になった。今日も日記を書く。
久しぶりに手帳を貼る。帰宅時間をネットに公開すると泥棒に入られるという話があったので最近は公開するのを躊躇っていたが、ぼくの部屋には盗まれて困るようなものはない。いや、あるんだけど。泥棒の人が盗みに入ってまで手に入れたいと思うようなものはない。こんな部屋なんかに侵入するために罪を犯すような人はいないので安心して帰宅時間を公開できるね。別に公開する意味もないし特にみんなに伝えたいとも思っていないんですが。
この記事を読んだ。
「人の気持ちを想像できる職業じゃないのか」と加害者の職業から行為の批判を行っている。ここには大きな誤解があって、創作で自分以外の人間の感情を作りだすことと、実際の人間の気持ちを想像する能力は別のものだ。
人の気持ちを想像するということの危うさは、自分の基準で他人の感情を推し量ることになる。人の辛さも喜びもその人だけのものであるのに他人が想像してこうだと決めつけることはできない。想像には認知の歪みが付きまとい、相手の気持ちを勝手に読んですれ違う悲劇が生まれる。
エンパシーは作家の能力の一つだが、どこまでいっても自分の思考は自分のものだ。他人の気持ちはわからない。文学は「もしも分かり合えたら」の祈りでしかない。傷つけることなく手を伸ばし続けていこう。
今日の記憶。
小学二年生のときに風邪をひいた。そんなにたいした風邪ではなかったと思うが、やたらと病院に連れていかれた。町で唯一の総合病院で、その年の秋ごろには祖母も入院していた病院だった。昼間でも薄暗く、廊下に照明がついていないので陰気な雰囲気があった。病院は死のイメージを払拭するようにやたらと明るく清潔な面構えをするところが多いが、その病院は陰鬱さを受け入れていた。
病院の売店にワンピースの食玩が売っていて、診察に行くたびに買ってもらった。コンプリートしたくて通院が楽しみだった。
家にいる間は自室ではなくTVの置いてある両親の寝室で寝た。NHK教育で「おかあさんといっしょ」をやたらと観ていた。あめふりりんちゃん という曲がやたらと流れていた。時間感覚がおかしくなっていたが1週間ほど休んでいたように思う。その1週間の間で何度も何度も聴いた。放送は1日に一回だったら最大でも5回くらいしか聴いていないだろうけど、何度も何度も聴いた気がする。あめふりりんちゃんとワンピースの食玩がそのときの風邪の記憶と結びついている。
病院の目の前に牧場があったのだが、数年後病院の前に牧場があるのは不衛生だからということで牧場が移転させられていた。
病院と牧場、どちらが先にあったのかはしらないが、その立地のことは織り込み済みなはずだろうと思ったのだった。
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