風景が描写されるとき
このごろBUMP OF CHICKENの「Gravity」という曲をよく聴いている。
毎朝spotifyでお気に入りの曲をランダム再生をしながら小田急線に乗り込むのだけれど、この「Gravity」をシャッフルの頭にしたり、”次に再生する”に入れたりして一日に一度は聴くようにしている。新曲だから聞き馴染みが薄くて何度も聴く。きっとアルバムに収録されるときには聞き飽きてしまっているんだろう。そんないつものパターン。
この曲のなかで風景が歌われている。
帰ろうとしない帰り道 いつもどおり
視界の隅っこ ほとんど外 君が鼻をすすった
空を割る夕方のサイレン
給水塔の下 あれは蝙蝠
この一連の歌詞のカメラのアングルとしては近くにいる”君”を映さず、”サイレン”の音にあわせて”給水塔”をズームにし、さらに”蝙蝠”へと焦点を合わせていく。時間の設定と正面から向き合えない気持ちの描写だ。
風景描写には叙事的なものと叙情的なものがある。叙事的なものでは舞台設定を描写するために使われ、ふつうはこちらの使い方が主になる。
叙情的な風景描写は風景の描写に語り手の気持ちが込められる。こちらの場合、語り手の気持ちで実際の風景が歪められることがある。雲一つない天気の日のできごとでも、語り手の気持ちが落ち込んでいるならば「その日は曇り空だった」と言ってしまえる。言葉の表現は書かれたことが真実になる。晴れているのに曇りというのはウソなのだが、語り手の心の風景では曇り空が真実だ。
君の影の 君らしい揺れ方を
眺めているだけで 泣きそうになったよ
続く歌詞で”君の影の君らしい揺れ方”について述べている。影の揺れ方にそこまで個人差があるとは思えない。ということは、語り手が見えている世界では君の影の揺れ方が特別なものに映っているという描写だ。
先ほどはカメラの視界で詩に書かれた風景を追ったが、この場面ではカメラで詩と同じ風景を撮ることはできない。映像として影を映すことはできても、”君らしい揺れ方”を映すことはできない。感情は詩でしか共有できないからだ。
風景が描写されるとき、風景に感情を仮託している。自覚のあるなしに関わらず。描写とは全体のなかから一部を切り取ることだ。そこには必ず意図が生じる。他にもあったなかから、あえてそこを切り取って描写することに語り手の気持ちが込められている。それが連なった詩や小説は他人の目を借りて世界を見られる装置になる。
最後にandymoriの「シンガー」を紹介したい。
大サビ(? 音楽用語はよくわからないまま使っている)の歌詞が全部風景のことを歌っている。
あの太陽を君も見たことあるでしょ
見慣れた街の冬の朝に浮かんだオレンジの太陽を
夏の日の突き抜けるような青い空に飛行機雲が
どこまでもどこまでも 伸びていったんだ
これも風景のことだけど、”見たことあるでしょ”と問いかけから始まる。
実際に見たことはなくても、”冬の朝”の”オレンジの太陽”が目に浮かぶ。ここでの太陽は、実際の太陽ではなく言葉の太陽だ。実際の太陽は太陽でしかないが、言葉の太陽は太陽でなくても、好きな人や大切なもの、自分の信じているものに置き換えることができる。誰でもその風景を見たことがあるはずなのだから、続く歌詞で”君が歌ってよ”となる。この歌うも置き換えができるものだから、「君が書いてよ」でもなんとでも置ける。
文章を書くことの難しさはどう描くのがよりベターなのかわからないまま暗中模索でもがくことなので、なんとか納得のできる表現などを自分なりに作り出せたらすてきですよね。(雑な〆)
さようなら。
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