連載小説『惑星のかけら』 第一話 ロビンソン
転校性がやって来るという噂はどうやら本当らしい。始業式のその日、長期休暇明けで久しぶりに入ったクラスに一つ机が増えていた。
「聞いた話では女子らしいぞ」と岡野が言う。岡野は一年生からの友人だが、今年も同じクラスになった。
「どんな子なの?」と僕は言う。
「知らねえ」
「あっそ」
どんな子かは直ぐに分かった。朝の挨拶で担任に連れられて彼女は教室に入ってきた。
黒い髪が肩まで伸びて、眼は少し円らだが意志の強そうなはっきりした形をしている。顔立ちは整っていて美人に分類されるタイプだと思う。
担任にチョークを渡され、彼女は黒板に綺麗な字で名前を書いた。
雨倉葵。それが彼女の名前だ。
「あめくら あおい と言います。父の仕事の都合で東京から引っ越してきました。よろしくお願いします」
取ってつけたような挨拶だと思った。担任の「拍手!」という号令でみんなが一斉に手を叩く。僕もつられてパチパチと拍手をした。
「じゃあ、雨倉は出席番号が一番になるから、窓側の一番前の席に座ってくれ。新垣の前だ」
突然名前を呼ばれてびっくりした。が、手を挙げてこっちだよと転校生に教える。雨倉葵は僕の前の席に腰かけ、後ろを振り返り、「ありがとう」っと小さく礼を言った。
「僕は新垣洋一。よろしくね」
雨倉は「こちらこそ」と少し微笑んだ。
★
「それからどうなった?」と岡野が訊いてきた。雨倉葵が転校してから三日が経った放課後の練習中だ。
「それからって?」僕は返事する。
「雨倉のことだよ。お前、初日に少し喋ってたろ。あれから何もないのかよ」
僕らはグランドに敷かれたトラック端に腰を降ろしながら話をしていた。周りでは他の部活の部員たちがせっせと練習をしている。
「喋ったって挨拶しただけだよ。あれからは別に話してないし」
「なんだよ。男子で雨倉に声をかけたのはお前だけなんだぞ」
岡野のいうように雨倉に話しかける男はいなかった。数日見ていて分かったのが、雨倉は活発な方ではないが人付き合いが悪い訳ではない。既に女子の友達もできて、二階堂と一緒にいるのをよく見かける。だが、男子を寄せ付けない不思議な雰囲気があった。授業中に必要があれば近くの男子と(つまり僕と)話すことはあっても、休み時間には二階堂とばかり一緒にいる。僕からも話しかけたりはしないのでお互い様だが。高校生の男女なんてそんなものだ。
「あ、二階堂。おーい」岡野がグラウンドの隅で作業をしていた二階堂を呼ぶ。二階堂はストップウォッチを持って、小走りで駆けてきた。
「タイム計るの?」二階堂はマネージャーとして呼ばれたと思って記録する用意をしている。
「いや、そうじゃなくて。二階堂って雨倉と仲良いだろ」
「うん」
「雨倉ってどんな奴なの?」
えーっと、と二階堂は視線を右上に泳がせて考え始める。
「不思議な感じの子だよ」
「なんだよそれ」と岡野。でも僕はなんだか分かる気がした。不思議な子。
★
二階堂に練習をサボるなと怒られたので腰を上げて僕らは部活に戻った。
岡野は短距離走の選手で、僕は長距離が専門だ。僕らの部活は顧問が見に来ないこともあって厳しくはなくて、練習は各々に任されている。二階堂はマネージャーで僕たちのタイムを計ったり、障害物走のためにハードルを準備したり、よく手伝ってくれている。今日も二階堂に測定を頼んで走っている。
長距離走の選手は学校の外を走る。うちの部は他に長距離選手がいないので、走るときは僕一人だ。街中を抜け、走る。坂道を、走る。学校裏の山道を、走る。
そうやって走っていると、前方に人気のない山道を歩く人影が見えた。制服から同じ学校の女性徒だと分かる。そして、その後ろ姿には見覚えがあった。いつも見ている後ろ姿。雨倉葵だ。
どうしてこんな所に? 家がこの近くなのか? そんなことを思案して、声をかけようかと考えていると、雨倉は整備された道を外れて山頂へ続く横道へと進んでいった。
僕は立ち止まる。ランニングの最中だったが、雨倉が気になった。彼女はどこへ行こうとしているんだろう。
あの道の先には廃れた神社があるくらいだ。あの道が家に続いている? いや、山頂までは一本道で通り抜けることはできない。お参りに行く? 地元の人も滅多に行かない神社に越して来たばかりの雨倉が向かうとは思えない。引っ越して来たばかりの慣れてない道で迷った? うん、これでいこう。雨倉が道に迷っていそうだから、心配で声をかけるんだ。何故だか分からないが言い訳を用意して、雨倉の後を追って山に分け入った。
山頂への道は暗い。背の高い木が日の光を遮っている。それに夕暮れということも合わさって足下がどうにか見えるくらいの明るさだ。アスファルトで覆われていない登山道は雑草が生い茂り、獣道のような微かな踏み分けられた跡を見つけることでどうにか道だと判断できるようになっている。薄暗さと相まって目の前の道は異界に続いているようだった。
雨倉の姿は見えなかった。最後に見かけてから距離は開いていないはずなのに、道の先に目を向けてもその後ろ姿はどこにもない。一本道なので見失うことはないはずだ。だとしたら、雨倉はよほど急いでこの道を登って行ったことになる。なんのために?
僕は雨倉のことを何もしらない。考えてみても答えは出ない。そうこうして十分ほどすると神社の石段が見えてきた。石段を上ると神社があり、そこが山頂だ。
石段をあと数段残して上り切らないところで神社の境内が見えた。そこで足を止めた。探していた後ろ姿が境内の中心に立っていた。
声をかけようと彼女の名前を口に出そうとした寸前、雨倉の奥の存在に気が付いた。そこに、雨倉の他に何かがいた。
遠目でよく分からない。が、はっきりと存在を感じる。“ソレ”は体を起こすような仕草で立ち上がった。ようやく全体の姿が見えたが、余計に分からなくなってしまった。――アレはなんだ?
“ソレ”は一見、山椒魚のように見えた。ただ山椒魚と大きく違う点は、そいつが馬鹿でかいということだ。後ろ足で体を支えて立ち上がっていると高さは三メートルになるだろうか。向かい合っている雨倉の倍はある。そして、真黒な体。暗闇を切り出したような黒だ。“ソレ”は生物ではない。訳もなく直感でそう分かった。影そのものがたまたま生物の形を取ったもの、というのが“ソレ”から感じた印象だった。
雨倉と黒い生物は見つめあったまま、長い時間が過ぎているように思った。或いは僕の主観であって、本当は数秒しか経っていないのかもしれない。とにかく永遠とも思える沈黙を破り先に動き出したのは山椒魚だった。
山椒魚は緩慢な動作で右前足を高く掲げた。呆然としていた僕は我に返り、慌てて雨倉に「危ない!」と警告をしようとした。だが、時すでに遅く、山椒魚は体重を乗せて右前足を地面に振り下ろしていた。
ドスン、という重たい音に続いて激しい土埃。思わず瞑ってしまった目を開ける。雨倉の姿を捜す。雨倉は山椒魚の右足から僅かに離れた場所で悠然と立っていた。
息を吐く間もなく、山椒魚は左前足を薙ぐように振り払う。雨倉は後ろにトンと跳ねた。山椒魚の攻撃は空を切り、山椒魚のバランスが少し崩れた。隙ができた。
雨倉は今度は前に向かって地面を蹴り、山椒魚の下顎にあたる部分まで飛び込んだ。アッパーの仕草で下から頭部を叩く。と、山椒魚の体全体が持ち上がり、腹を見せる形にひっくり返った。すかさず雨倉は山椒魚の腹に飛び乗る。雨倉は右手を振りかぶった。瞬間、その手は銀色の光に包まれた。
そして勢いよく山椒魚の腹を殴った。雨倉の拳が入ると山椒魚は一瞬呻き声のような音を発したが、抵抗する力もなくなったのか足掻きもしなかった。動きが止まって五秒ほどの後、山椒魚の体は雨倉の手に宿った光と同じ銀色に包まれ、音もなく爆発した。山椒魚の残骸のような黒い靄と雨倉だけが残されていた。
雨倉は汗を拭うように腕を額に当てている。僕はその後ろ姿に声をかける。
「雨倉さん……」
僕の声は自分でも意外なほど小さかった。雨倉は気が付かない。
「雨倉さん!」
今度は意識して大きな声を振り絞った。
僕の声は雨倉の耳に届いた。振り返った雨倉の顔には驚きの表情が浮かんでいた。きっと、僕も似たような顔をしていただろう。
「雨倉さん……」もう一度、彼女の名前を呼んだ。
「新垣君……」彼女も僕の名前を呼んだ。
これが僕らの出会いだった。そして、この新しい季節から僕らの不思議な高校生活が幕を開けたのだった。
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