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『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』 初見でWSBライティング上映を浴びた感想
ご挨拶
こんにちは。はじめましての方ははじめまして。
私は「ういろう」という名前でDJをやっていたり、『電音部』というコンテンツの割と重篤なオタクをやっているものです。
私はいつも、美少女コンテンツのライブパフォーマンスや楽曲の歌詞、キャストの一挙手一投足から
「キャラクターの概念(即ち実在性)」
「コンテンツそのものが伝えたいメッセージ性」
を半ばこじつけめいた妄想で抜き出しているという生き方をしているのですが、前々から
「キャラクターの実在性や、ステージの煌めきについて言及するなら劇ス(劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト)見てないと片手落ちだって!!!」
とフォロワーが口々に言うものですから、それほど持ち上げたくなる作品であるのならちょっと気になるな〜と、本作には軽く興味を抱いていました。
前々から本作を観劇する際は
「絶対に最初は劇場で見た方がいい!!」
というアドバイスを貰っていたので、劇場版への予習としてダラダラとTVアニメ版を見ながら
「あ〜いつになったら劇場でやるんだろう。って言ってももう数年前の映画だしな〜!リバイバル上映なんてそうやってくれるもんじゃないよな〜」
と、半年ほど待っていたのですが……
キラめく舞台が大好きだから
— 新文芸坐 (@shin_bungeiza) January 15, 2025
キラめく自分を 目指してまっすぐ✨
2025年2月7日(金)20:00~
新文芸坐、WSBライティング上映🍅
『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』
夢咲く舞台に 輝け 私🔫
2025年も、スタァライト、しちゃいますっ‼
創造科の皆様、ご準備を🦒#ライティング上映#劇ス pic.twitter.com/VyELkYfFhs
どうやらこの度『WSBライティング上映』なるものを、池袋にある『新文芸坐』さんにてやるとのことで……
実は序盤で視聴を止めていたTVアニメ版を一気に走り切り、苛烈なチケット戦争を潜り抜け
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やって来ました。新文芸坐。
そして見届けて来ました。舞台少女たちの「その後」を。
ということで、本noteでは『少女☆歌劇レヴュースタァライト』をTVアニメ版 → 劇場版まで駆け抜けたオタクが「スクリーンの向こう側からどんなメッセージを受け取ったのか」というのを、初見の感想も兼ねて書き散らしていこうかなと思います。
当然ながら本編のネタバレ全開で行きますので、未視聴の方はブラウザバックを。
今すぐdアニメストアを開いて「聖翔音楽学園 99期生」の煌めきを体験してきてください。
もう既に舞台少女の虜になっている皆さんは、ここから先長く続く初見オタクの講釈に付き合っていただければと思います。
①ライトアップ上映の感想
さて、これから本noteではTVアニメ版→劇場版を見た上で『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』という作品群への感想を語っていくわけですが……
その前に、私が実際に観劇した『WSBライティング上映』の概要とその感想について軽く触れていきたいと思います。
この度開催された『WSBライティング上映』では、スクリーンの映像に合わせてシアター内の照明が発光したり、スポットライトが客席を照らしたりといった通常の上映とは全く異なる
「映像と客席をより密接にリンクさせ、まるで実際の舞台芸術を観劇しているような没入感を味わうことができる」
という、全く新しい上映スタイルになっています。
またこの照明というのも、事前にプログラムされた照明パターンではなく、照明さんが我々と同じ映像を見ながらリアルタイムでライトアップを行う、という手法により少女たちが舞台で躍動する様、その煌めきが色鮮やかに彩られていました。
(今思えば、態々こういった手間のかかる演出をして下さったのは「全く同じ舞台は二度と訪れない」という、スタァライトの秘めるメッセージ性を体現するためだったのかな……)
───ともかく、デコトラがぶつかり合うシーンでシアターの壁面が色鮮やかに発光したり、愛城華恋さんと神楽ひかりさんの前口上でスポットライトが縦横無尽に動き回る光景というのは、あの映画を体験として味わう上でこれ以上ない演出だったと思います。滅茶苦茶楽しかったです。
また、音響に関しても態々下のテナントに頭を下げにいくほどの爆音で上映を行っているらしく、最初のトマトが潰れるシーンではあまりの音の大きさにガタッと座席を立ちそうになりました。
それだけに、作品の持つ迫力というのを120%引き出せているように感じましたし、「観客がいてこそ舞台は成立する」というメッセージ性を持つ本作において、実際に語りかけられているように感じる音響は非常に効果的に作用しているように感じました。
一つ難点があるとすれば、私はこれを初回の観劇で味わってしまったということ。
今後リバイバル上映等が行われた際、ライティングの無い通常上映を見に行ったとき、そこに物足りなさを感じるのではないかと今から不安で仕方ありません。
それほどまでにこの『WSBライティング上映』は体験としての映画鑑賞の質を格段に引き上げていると感じましたし、なにより劇場の空間全体が『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』という作品に対して非常に真摯に構築されているように思いました。
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本noteのサムネイルやシアター内の様子のように、上映に合わせて『新文芸坐』の内装も非常に愛の満ち溢れた空間として飾りつけられていましたね。
なんとこの『WSBライトアップ上映』、本上映が計9回目の上映であり次で大台の10回目へと突入するそう。
本noteを読んでいる方はその大半が「劇ス」を観劇済みかと思いますが、一度彼女たちの舞台を見届けた方でも充分に楽しめると断言できるクオリティだと感じておりますので、続報があれば是非ともチケット戦争に身を窶していただけますと幸いです。
私も多分、もう一回見に行くと思います。
②TVアニメ版
気を取り直して、ここからは私が実際に『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』のTVアニメ版 → 劇場版を通して視聴した感想というのを、突飛な妄想を交えつつ語っていきたいと思います。
私はまだこのコンテンツを触り始めたばかりであり、無知ゆえに的はずれな箇所も多々あるかと思いますが、暖かい目で見守っていただけますと幸いです。
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序盤の所感
さて。突然ですが、この作品の大ファンだという方は申し訳ありませんが少しだけ耳を塞いでいただければと思います。
いきなり本音をぶっちゃけてしまいますと、私がこのアニメを見始めたときの正直な感想は
「大丈夫かな、最後まで完走できるかな……」
という非常に後ろ向きなものでした。
私が好きになる作品の傾向というのは基本的に、等身大の少女たちの生き様を無理に飾り立てることなく、虚構であろうと人々の会話や暮らしを真摯に描く……といったテイストの作品群なのですが、このレヴュースタァライトは
「キャラクターの個性を敢えて強調するかのように、何度も何度も同じフレーズを繰り返す」
という、所謂アニメ的な言い回しの会話劇が繰り広げられており、序盤は結構な違和感を覚えていました。
当たり前ですけど、実在の女子高生が同級生と会話をする時に「ノンノンだよ!」という口癖を日常的に使う、などということはまず有り得ないわけです。
これがあまりにも繰り返し行われるものですから、画面の前の捻くれオタク・ういろうは「ちょっと、クドくない?」と一時的に視聴を止めていたわけです。
まあ、それも最初の1~2話ぐらいの感想でしたけどね。
3話以降は個人的にも「おおっ」と目を見張るような演出や展開が増えていき、所々間を開けたりしつつも基本的にはこの作品から目を逸らすことなく完走しきることが出来たかなと思っています。
個人的にはやっぱり7話が一番の衝撃でしたかね。
大場ななさんの思想と真相が明かされた後『Fly Me to the Star』のインストで締めくくる一連の流れは、僕の心を掴むには充分すぎる迫力でした。
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『レヴュー』とは一体何か
「舞台少女」が歌って踊って奪い合う、というテーマの本作において、後半に差し込まれるミュージカルパート『レヴュー』は等身大の少女たちが思いの丈をぶつけ合う場として演出されており、それと同時に自分が作品におけるバトルシーンに求めているものが一体なんなのか、というものを再認識させられたように思います。
少女たちがレヴュー、即ちオーディションに臨む主目的はもちろん『トップスタァ』という星を摘むためですが、スポーツやバトルを題材とした作品等に見られる
「敗北から自身の弱点を知り、対策をしてもう一度リングに立つ」
というトライアンドエラーの過程が「少女たちの煌めき」として細かく分析され、既存のフォーマットをなぞりつつ新たな形として表現されているように思いました。
ここで言う少女たちの煌めきとは
「人との対話やぶつかり合いを経て『自分に足りていなかった覚悟』『気づけていなかった自分の感情』『自分の理想より尊いと感じた輝き』を知ること」
であり、そこにバトルとしての勝敗はさほど関係はないと感じています。
だからこそオーディションに同じ相手との再戦は無いのかなと、そういうことを思ったりもしました。
そして、その煌めきを見たいがために舞台を用意した『キリン』という存在のことも、何となくですがわかるような気がします。
彼はオーディションという舞台を用意した張本人ではありますが、脚本家ではない。我々と同じ、舞台少女たちを客席という「神の視点」で見つめる観客であるそうなので……
『スタァライト』と、それを演じるということ
『戯曲:スタァライト』は少女たちの通う聖翔音楽学園において幾度となく再演されており、それに対して本作では
「既存の筋書きを演じる上で、前よりもより良い舞台を作り上げるにはどうすればいいのか」
と藻掻く様子が繰り返し映し出されていました。
TVアニメ版のレヴュースタァライトは12話を通して先述の「少女たちの煌めき」を映し出しながら、「物語を舞台として表現すること」に対してひたすら誠実に語り続けるアニメであったように思います。
スタァライトの舞台は、星摘みの塔の頂きにてフローラとクレールが星を掴む寸前、フローラが星の輝きに目を焼かれて塔の上から落ちる。という悲劇的な結末で幕を閉じます。
しかし、語り継がれてきた脚本ではなく原典の戯曲本には「残されたクレールは、女神として永遠に星摘みの塔に幽閉される」という、主人公の愛城華恋さんすら知らない結末が記されていました。
それを受けて彼女は、記念すべき第100回の聖翔祭にてスタァライトの筋書きを「再生産」した……っぽいことが、12話の終盤で描写されていたかと思います。
私はこの結末について
「同じ物語であろうと、舞台という形で物語を再生産するのであれば、その筋書きを変化させても構わない」
という、物語そのものが持つ寛容さや進化の可能性を伝えてくれているのかな〜……と、劇場版を見終えた今だからこそ考えたりしています。
大場ななさんの「再演」を止めたこともありますが、そもそも愛城華恋さんは物語開始時点から
「舞台少女 愛城華恋は日々進化中!」
と繰り返していましたしね。
同じ舞台、同じ瞬間は二度と無く、物語はそれを語るもの、それを受け取るものによって様々な形へと変化していく。
これは舞台芸術に限らず、創作物全般に言えることなんじゃないかな〜と、二次創作を嗜む身として結構身近なメッセージとして受け取っていました。
そういう着地点も含めて、このTVアニメ版はたった12話でありながら物語の起承転結と、それに込められたメッセージが綺麗にパッケージングされたとても丁寧な作品であったと感じています。
③劇場版
さて、劇場版視聴前日までにTVアニメ版を一気見した私ですが…… 個人的に一つだけ思うところがありました。
それが主人公の愛城華恋さんに対してのみ「終わってしまったな」という感想を抱いたということです。
他の99期生たちはオーディションを通して、舞台少女として演じ続けるという心構えを新たにしたように思えました。
神楽ひかりさんも、煌めきを目指し続ける理由こそ明らかにされませんでしたが、そもそも彼女は愛城華恋さんを舞台に引き込んだ張本人。一人だけでも舞台に立ち続ける理由は充分に残っているはずです。
……では、愛城さんは?
彼女の夢、煌めきの源は「ひかりちゃんと共にトップスタァとして輝くこと」であり、その夢は第100回聖翔祭にて二人でクレールとフローラを演じたことによって果たされたと言えるでしょう。
つまり、彼女にとっての物語はTVアニメ版の12話時点で終わってしまっている。
では「その後」は?
もし彼女が舞台少女としてこれからも演じ続ける……という道のりを歩むのであれば、『劇場版』ではどういう筋書きを用意する必要があるのか?
この『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は、舞台少女 愛城華恋が「これからも舞台で演じ続ける」という道のりを歩むために用意された、ある種一つの「儀式」であったように思えます。
『wi(l)d-screen baroque』とは
早速ですが、私はこの『wi(l)d-screen baroque』という新たな舞台を用意した張本人って大場ななさんなんじゃないかなと思っています。
まぁこれは『狩りのレヴュー』にて星見純那さんが言及していますし、本編を見ていれば何となくわかることではありますが……新たに舞台での役割を与えられたキリン、そして何より『皆殺しのレヴュー』の存在に、彼女がこの舞台を用意した理由が込められているんじゃないかなと考えています。
先にも述べましたが、レヴュースタァライトという作品群におけるキリンとは舞台を用意するものでありながら「観客」であり、我々と同じ目線で少女たちの煌めきを受け取る側です。
彼が脚本家として彼女達の筋書きを書くことはなく、あくまで彼は日々進化する舞台の煌めきを見届ける存在。つまり、彼が用意した舞台であれば彼自身に「舞台に火を灯すための燃料」という役割を与えることは無いはずです。
これが劇場版の舞台を用意したのが大場ななさんであるという、1つ目の理由。
2つ目の理由ですが、大場ななさんは映画序盤に主演2人以外をバッタバッタと薙ぎ倒していく『皆殺しのレヴュー』を決行しています。
きっとこのレヴューでは「役割を終えた演者がダラダラとステージに立つな。もう次の舞台は始まっているのだから、御託を並べず本気で演じろ」という彼女に対する舞台へ向き合う姿勢が、刃という形で他の少女を襲っている様子が描かれているのかな……と思っています。
この少女らを襲う刃というのも、大場ななさんがまだ見ぬ「煌めき」のために第99回聖翔祭の再演を手放したという過去があったからこそ「お前らの言う煌めきはこの程度か」と、彼女らへの叱咤が形となって表れたものではないかと考えています。
また、『wi(l)d-screen baroque』に含まれるレヴューは『皆殺しのレヴュー』に限らず、『怨みのレヴュー』『競演のレヴュー』『狩りのレヴュー』『魂のレヴュー』そして『最後のセリフ』のどれもがTVアニメ版と同様に「自分の気持ち(劇場版においては舞台への獰猛さ)に気づくこと」という形で締め括られていますが、それだけでなく「役目を終えた少女たちが、次の舞台で息を吹き返すための儀式」としても機能しているように思いました。
だからこその「これはオーディションにあらず」だったのでしょう。
第100回の聖翔祭にて「舞台を作る側」にも回った彼女が、99期生の皆を次の舞台に立たせるための舞台を作り上げた……と考えるのが、本作の『wi(l)d-screen baroque』における立ち位置なんじゃないのかなと思います。知らんけどね(無責任)
(余談ですけど、私は他のレヴューと違い「演者は空の器でなく、自我があるからこそ再演によって舞台に彩りが生まれ、そして観客はそれを望んでいる」という、少女たちの等身大の自我からは切り離された一段上のぶつかり合いをしている『魂のレヴュー』がすごく気に入っています。西條クロディーヌさん、良いよね……)
愛城華恋さんの『再生産』
『皆殺しのレヴュー』において、「愛城華恋」「神楽ひかり」「天堂真矢」以外の99期生達は大場ななさんに前掛けを落とされるという形で「新しい舞台において、演技を放棄していたこと」を自覚しました。
「神楽ひかり」「天堂真矢」の2人も、それぞれ『競演のレヴュー』『魂のレヴュー』において、自分自身に秘められていた「演じるということへの獰猛さ」を自覚したように思えます。
しかし、愛城華恋さんだけは違います。
先も述べた通り、彼女の物語はTVアニメ版を終えたと同時に閉じてしまっています。
なので、彼女は誰かに手をかけられずとも上映開始時点で「既に死んでいるキャラクター」であり、彼女が舞台少女として新しい舞台に立つためには「舞台に対して獰猛に食らいつくための動機」を用意する必要があったのではないかと思っています。
それが映画の節々に挟まれる彼女の過去回想であり、彼女が舞台少女を志すに至った詳細な経緯。それらを全て「燃料」として焚べることで舞台少女 愛城華恋に「ただ一人のトップスタァとして輝きたい。ひかりに負けたくない」という獰猛さ、即ち新しい舞台に立つための原動力を付与すること。
それがwi(l)d-screen baroqueにおける『最後のセリフ』であり、彼女がその気持ちを自覚することでようやく99期生の皆は「新しい舞台」に立つことができるようになったのではないか、と私は思っています。
本作において「約束」の象徴である東京タワーが真っ二つに割れ、その先端がポジションゼロに突き刺さるという絵面は中々に迫力がありましたが、それも愛城華恋の再生産という点で見れば納得出来る描写だなと、エンドロールを眺めながら思っていたりもしました。
新しい舞台に立つ彼女たちが、これからも自分が主役の舞台を目指して獰猛に食らいついていってくれることを切に願います。
④まとめ
散々っぱら妄想を書き連ねてきましたが、先に述べたように私はまだTVアニメ版及び「劇ス」を一度通して履修しただけに過ぎません。
きっとこの作品群には私が欠片も気づかなかったような哲学や美学がまだまだ詰まっているはずで、もしくは先に述べたような妄想も意図された構成ではなく「考えすぎ」の一言で一蹴されてしまうものなのかもしれません。
しかし少なくとも、私はあの日劇場で
「今一度物語という虚構に対する向き合い方について考え直してみよう」
と大きな刺激を受けましたし、それと同時にレヴュースタァライトという作品群を「作り上げられた舞台」として見るのではなく
「99期生の少女たちが歌って踊り、時に悩みながら前に進む過程をもっと覗いていきたい」
と、本作に含まれた哲学を伝えるメッセンジャーである彼女たち自身の生き方にとても興味を惹かれました。
2025年2月現在、スタァライトというコンテンツを今から追おう!と思っているオタクは然程多く無いかもしれませんが……本作を勧めてくれた友人に設定資料集やライブ映像を貸してもらいながら、今後は少しずつ聖翔音楽学園を取り巻く少女たちの生き様を理解していこうと思っています。
『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の製作に関わった皆様、WSBライティング上映を開催していただいた『新文芸坐』様、この度は素敵な作品をありがとうございました。
また少女たちと、10回目のライティング上映で会えることを楽しみにしています。