むしゃくしゃ
憂鬱が晴れないまま、自分の中で何かかが沈んで沈んで腐っていくのを感じた。それでも自分は捨てたやつじゃないと色んな事に挑戦して、
挑戦しては疲弊を繰り返す日々でどうにか自分のアイデンティティを保とうとしている。
そういえば、病院に通い始めのころ、お世話になっていた知人に暑中見舞いを送ったことを思い出した。
脳が麻痺していて、文字もろくに認識できないくらいになっていたころ、宅配伝票を5人分書くのに、1時間以上かかったことがあった。
住所が間違わないように、一文字一文字を手でなぞりながら、書いて、それをまた一文字一文字確認する。
間違ってないかと不安を何度も感じ、汗で手が濡れ、こんな簡単なことすらできなくなっていた自分にひどく驚き、失望した。
あれからだいぶ経ってわかったことは、脳の処理キャパを完全に超えて頑張って働いたツケだったということだった。
ただ仕事のことを黙々とこなすようなルーティンだったら、良かったのかもしれない。だが、海外との営業折衝、衝突、顧客対応で自分は自分の限界を知りもせずに、やっていた。
大概のサラリーマンがそうであるように、会社の居場所、期待、そして自己キャリアのため、生活のため、ちっちゃな自分のプライドのため、そして自分の将来が路頭に迷わないようにと、しがみついて、しがみついて会社で生きている人が大半であろう。大黒柱ならなおさらだ。
そして、自分の心の声を無視した先に待っているのは、心にも無視されることだった。いまさらになって、外ばかり見てきた自分にツケを払う時が来るのだ。
自分の魂が求めているもの、そして自分の好奇心が脅迫概念に完全に上塗りされて、剥がせなくなっていることだった。
埋まらない自分を埋めようとして、暴飲暴食をしても味も味わえずに、ただお腹が膨れることに快感を得て、それを繰り返しては体が悲鳴を上げている。
リラックスが必要です。焦らずに。 今は病気を治すことが仕事とか。
とか。とか。とか! いうけどさ。
こういう社会に貢献して、会社でも家でもいい子欲しかったんじゃないの?
思い通りになってくれて、従順で抵抗しない、扱いやすいやつ欲しかったんじゃないの?
本心そこでしょ。
ペットも子育てもみんな同じじゃん。手に負えないような子は特別質へ。
対症療法を繰り返しては、傷が癒えもしない効かない治療を繰り返す。
根本原因は見もせずに、向き合いもせずに簡単な回答だけが用意されていく。
私たちはしっかり対処しましたので、責任はありません。それを証明したくてペーパーワーク化。
本当にその人のことを考えたり、社会問題を解決したりなんてそんな手に負えなくて、時間がかかりそうなこと誰もやりたくないのだ。
だって、自分の生活を守るだけで精一杯で、他人なんて助けてられない。ってみんな心余裕ないからだ。
うちの猫を見てればすべてわかる。私は心に余裕がないのだ。
エサもこだわって、身の世話をしても、彼女は満足せず泣き止まないときがある。
自分の時間を割いて、遊んであげたりするのがしんどい時、私のイライラはどくどく流れ続けた。
何がしたいの??どうしてほしいの?
そう問いかけても奴は、不満そうな顔をして幾度も邪魔をけしかけてくる。
そして気が付いたのだ。
何かやってほしいのではなく、一緒にいてほしいことに。
構って! 私をちゃんと見て! 私を愛して。
声なき声の先に気が付いたその訴えは、幼少期に親に与えられなかった安心感と愛のぬくもりだった。
一人遊びだけがうまくなって、人生を誰かに合わせたり共感したりすることがひどくできなくなっていた。自分のカラに閉じこもったほうが楽。そうやって適当に生きるのに必要な仮面をいくつか見つけたら、人生うまくいくことに気が付いた。
上辺だけでこの世が乗り切れることを感じた。
そして埋まらないものを心の奥に追いやって無視することにしたのだ。
でも心がうずくのは、ずっと満たされないのはずっと続く。
ごまかしも聞かずに、そこでじっと見ているのだ。