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「空」とか「無」とか「喜捨」なのかな😅

盛夫の朝の備忘録#103

おはようございます😄

今日は、ガラにもなく哲学的になってしまいました😅
寛容な御心で読んで頂けると嬉しいです😅
#宜しくお願いします 😅

立ち直る。
要するに、落ち込んだから立ち直るって流れが生まれます。

落ち込んだり、怪我したり、凹んだり、とネガティブな現象が発生しないと、そもそも立ち直るとか元氣になるとか復活するとかのポジティブな言葉が出てこない。

それがあったからこれがあるみたいに、ネガティブとポジティブは、ある意味協力関係で成り立っているとも言えます。

先日、「許す」と言う言葉の解釈を聞いて納得してしまった。

「許す」とは、ネガティブな現象が起きないと発生しない言葉だと氣づかされた。

要するに「許す」と思ったり言葉を発したりすること自体がもう既にネガティブな現象が起きたことしての認識であり、そもそも氣にしないなら許すも許さないも存在しないと氣づかされた。

許すと言う概念自体が既に起こった現象をネガティブな視点で見ていた証拠といえる。

ハッとしてしまった。

私の中では、「許す」とは良い事だと認識していた。

ところが、「許す」自体に含まれる本質を教えてもらった時に、自分の認識不足だったことに氣づかされた。

なるほど、「許す」前段階で「悪い現象」を認識してるから「許す」という行為が生まれるのかと思った。

何が言いたいかと言えば、単語が持っている本質的な意味と現象を私はあまり氣にしてこなったなと、そのことを教えてもらった時に氣づかされた。

自分が誰かを怒らされた現象をしたから「許して」と願うのであり、そもそも「許す」とはなんなんだと思ってしまった。

「許す」とは、人間の都合で出来た言葉だと教えてもらった。

感動してしまった。

このように、良いことと悪いことは表裏一体で協力関係が出来ている。

ゴミ拾いが良いことであるが、ゴミが落ちていなければ、そもそもゴミ拾いという行為は生まれない。

「過ち」とは、是正する為に発生したに過ぎない現象であり物語の中の1つのエピソードに過ぎない。

何かが生まれる時は、セットになっていると思うようになった。

陰陽道の白黒の円のマークのように、光と影が均等に世界に存在しているように思えて仕方がない。

光を認識する為に闇があり、闇を認識する為に光がある。

何を言いたいかと言えば、今現在において、自分は不幸だと思ったり、辛い思いで生きていたりすることは、人生の時間において必ず訪れる現象であると言えます。

だからこそ次の幸福のステージに移行出来るのです。

そしてもっと言えば、実は幸福も不幸も表裏一体であるように、自分で作りだした現象でしかありません。

そもそも論になりますが、幸福も不幸も存在しないと氣づいてしまえば、不幸を味わうことさえ出来ないし、幸福を味わうことも出来ません。

要するに、幸福感も不幸感もどちらも自分の行いが生んだ現象でしかありません。

表裏一体の現象をしていること自体に氣づかされた時に初めてどちらも手放すことが出来るように思います。

無意識の内にどちらも握っているのだから。

幸福を手にするということは、同時に不幸を手にしているとも言えるかもしれません。

そのどちらでもない状態を仏教では「空」という概念で表しているように感じます。

握っていないから、そもそも手放すことが起きない。

「空」とか「無」とかってわかりにくかったのですが、大切な人が「許す」ってことを教えてくれた時に全てが整ってしまいました。

感じること自体が、人生を豊かにしてくれる体験だと思うと、様々な現象を愛おしいと思えるようになりました。

良い悪いで考えるのではなく、その現象を目にした時に、自分がどのように行動できるか。

ただそれだけで人生は豊かになるように感じています。

今、私が幸せと感じることは、かつての自分が不幸だと認識していたに過ぎない現象であり、そのどちらも手放せば、後は認識すること自体なくなり「無垢な状態」で現象を捉えている状態になります。

それが良いか悪いかとかはわかりませんが、仏教の教えの中の「喜捨」ってそういうことなのかなと今朝は思いながら布団の愛を感じています😊

まあ出来る出来ないは置いといて、私は今日を楽しんで生きていこうと今朝も思って1日を過ごします😊

最後まで読んで頂きありがとうございました😊

素敵な一日をお過ごしください😊

日日是好日😊
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