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食べられる余白😊
盛夫の朝の備忘録#188
おはようございます😄
生物は、全て「食べられる余白」を持って存在していると、私は思っています。
人間も含めて動物も植物も昆虫も全ての生物は、生存戦略と同時に、他の生物から食べられる要因を必ず持ち合わせていると、私は思っています。
コアラとユーカリの木の関係性を例にすると、毒性のあるユーカリの木ですら、食す動物としてコアラが現れてしまう。
人間も虫に刺される。
菌やウィルスと共生している。
持ちつ持たれつの関係性が成り立っている。
先日、鎌田東二先生のお話会で最後に「自分の最後は、他の生物に食されたい」とおっしゃっていて凄く共感した。
野原で寿命がつき、倒れて他の色々な生物に食され肉体を捧げたいと。
私も同じような事を思っていた。
風葬や鳥葬なども世界には存在するが、中々面白いと感じてしまう。
ある種の「捧げ」とも言える行為だが、中々理解されづらい。
全ての生物は、何処かに「食される余白」というものがある。
人間も含めています。
自然は、循環で出来ています。
食物連鎖で成り立っています。
お互いを「食」しております。
生命が尽きて、他の生物の食物として自分を捧げる。
全ての生物の営みに「食」されるというものが、組み込まれています。
ですが、当事者達はその事を理解出来ずに、必死に生存競争や生存戦略を駆使して「生き延びる」ことを選択し生きようとしています。
食されること拒否しています。
人間が育てる家畜自身も、当事者である牛や豚や鳥も食べられるとは思っていません。
野菜や果物の植物にしろ、動物にしろ、全ての生物は何かを「食」して生きています。
自分以外の生物を「食」して生命を維持させているのです。
全ての食材は、生物のなれの果てです。
自らの體を他の生物に捧げ生命のリレーを繋ぎ、地球に住んでいます。
人は、毎日食事をします。
食卓の食器の上の料理の食材は、言ってしまえば「生命」です。
食事の作法が世界中にありますが、作法の元は各宗教の神事になっていることが多いです。
日本食の作法も元々は神道の神事が元になっています。
食物連鎖で自然が成り立って、生物の生命活動が維持されています。
最後は、自分の意思とは関係なく自然の仕組みとして、自分を捧げ他を生かす。
とても尊いと思っています。
今日、1日を生きる為に食事をする。
明日生きる為に食事をする。
食事とは、「感謝」であり「愛」であると私は思っています。
生きて存在している限り、必ず食事をします。
それは「生命を食す」行為なのです。
とても尊い行為であると私は感じて生きています。
私の死生観の行き着く先は、私の最後は誰かの糧となり、希望となり、喜びとなりたい。
日本では火葬になるので、流石に「他の生物に食べられる」ことは難しいので、意志や想いや生き様や死に様を受け取ってもらうように、私の生命が果てるその日が来るまで顔晴ろうと想います。
「Life is contents」
全ては見られているコンテンツとして、私は人生の中身を創造して生きていこう。
私の人生は、私が見ている。
産まれてから死ぬまでの時間が80年だとするなら、その時間、私は私を見ている。
人生が「contents」だとするなら盛夫を1番よく見て楽しんでいるのは、私自身だ。
残りの時間、32年とするならば私の愛や慈悲や奉仕や貢献がどこまで出来るか。
まさに挑戦は、死ぬまで続く。
私の今の死生観はこんな感じです。
これからも死生観を含めて変容し成長していきます。
私のイマココが、今日も始まりました😊
#ワクワクしますね 😊
#今日も顔晴ろう 😊
#最後まで読んで頂きありがとうございました 😊
#世界の平和を祈ります 😊
#日日是好日 😊
#盛夫の朝の備忘録