見出し画像

今日、靴下間違えたみたいなハッシュタグ

この記事のタイトルは、靴下あるあるから。こどもの頃、履き間違えて外に出たことがあったなと思った。画像はキャンバで先に作成し、試したいことがあったので靴下じゃないけどハッシュタグを連想した画像なので貼りつけて、言葉は絞りすぎた気がします。

違和感がある部分を考える
 ・見出し画像に「ハッシュタグ」をイメージして選んだものを使う。
 ・内容をキリのいいところまで書く。
 ・タイトルを少し悩んで決める。
順番が悪いんだろうなと思った。内容を裏切らないタイトルの見つけ方は、模索中。

ハッシュタグに、柄のような言葉を添えてる感覚になる。

最近、ハッシュタグを参考にして、記事の内容をもう少し絞ったり固めたいなと考えた。どんなタグがあるのか眺めていたら、分かれ道が多くて途方もない道になっていた。それでも、気になったときに少しずつ見ている。迷いや悩みを一瞬でも吹き飛ばして楽しみに変えてくれるものにみえているのかもしれない。それは、ブログやnoteにある完全な魅了要素だと思います。

こうやって、また「街」をさまよっていることに気づいた。

ハッシュタグは、ふしぎです。時々、「これはどんな記事が書かれているのだろう」と思って、使われ方や雰囲気を確かめにいくと、ハッシュタグからは読みとれなかった概要のようなものが手に入ります。応募要項など説明が添えられているものも見かけます。それを見ないと、これはそういう記事を求めて与えられたハッシュタグだと気づくことなく使ってしまう恐れがあります。それがびっくり箱のようで、わたしの発想や足りない部分が怖くなりますが良い兆候に思っています。
気になったハッシュタグを覗くと、わたしには扱えない言葉だと知ることができる。それは、大切な戻る1歩に思える。わたしは、ネットの世界を遠くまで歩いてきた感覚になるような場所が以前もありましたが、noteもそのようにスタートラインをぼんやり思い出させてくれていると思うようになりました。

noteにも運営さんの判断により、関係ないハッシュタグは外すことがあると書いてある。

記事のタイトルや内容だけじゃなく、それらと切り離せないハッシュタグも大切だと考えられているから部分的に整備されたり、管理されているんだろうなと思う。自分の感覚を直していくものにもなってるのは、ハッシュタグの波紋だ。わたしはハッシュタグを候補に出ているものから選ぶことが多く、まだ関連がないとされてないけれども、それは時間の問題にも思えてムンクの叫びのような気分になる。いつまでもその感覚で書いていられないと考えるようになることで、自分でストップかける段階になったんだとひと息ついて、ため息も大きくつく現象。

急にいろんなことをやめるのは良くないらしい。実際、具合が悪くなることがあったし、ゆるやかに止まると穏やかだと思う。