自己紹介?( ³ω³ )oO(👓)

アカウントの自己紹介記事を書きました。
書く内容を4つに絞って表しました。

  • アイコン

  • アカウント名

  • いつから

  • 悩みの種


アイコン

スマホで撮った写真から選ぶのも、アイコンつくるサイトみるのもやめて、最初からある選ぶだけのアイコン画像にしようと思って、👓にしたらおさまりがいい気がした。こういうところは座り心地みたいな感覚。
ちいさい円の中に個性が出るところという見方や心理的なハードルを自動で下げる化っていうものを序盤からきれいサッパリすることはまだできないかもしれない。
アイコンは、そのアカウントによって決まるところが大きいと考えたりもするのですが、自分で作成したアカウントに自分で親しみを感じたりする効果もあるかもしれないものです。SNSの浸透力もあって、その分アイコンもバラエティ豊か。実はいろんな表現のあらわれ方だったのかなと考えるきっかけはなにかに悩み始めることだけど、それもいつの間にかSNSなどの使い方にわたしのたのしみ方の一部が染まってるのかなと思った。
今までそんなに悩むことのなかった部分から、ぼんやり浮かぶ何かの教え。なかなか基本設定が定まらないとき、ぼんやりしていた何かは3日ほどで大きく膨れ上がったもやもやになってしまう。インターネットには、画像やアイコンが示すものとしてさまざまな注意事項があったりするので、発信する内容で決まる部分が大部分になることもあるものだって思っても、アイコンはあったほうがいいものになっている。まるで、盾に貼るシール?紋様?ひとつひとつの設定に、トラブルの火種があるように思えてくる。
そういうところも、すっかりコワイものにすりかえられたように感じてしまう。でも、そういうところほどAboutインターネットに語り継がれる話が隠れているのかも😵‍💫

アカウント名

以前もよく変更していた記憶がある。今のアカウント名は、変えたくなったときに直感で思いついた名前。わたしは、鬼ははなこではなくお庭はなこです。アカウント名は表記をすべてひらがなにしているけど、漢字変換するところによってはオニのもつ響きが優先されることもあるのかもしれないと思う。気に入ってるからひらがなのまま。
わたしには、名前もアイコンも一貫性はむずかしめの課題です。🙂💭

いつから

書くということをブログも含めて考えた。
わたしは、2012年頃からブログサービスを利用し始めました。noteは4年前に一度やめていましたが、アカウント作成からそんなに月日が経たないうちに放り投げてしまいました。そのときのわたしは、精神的な免疫力も下がってそうだった。その後アカウントを消したと思っていたけど、noteからおすすめ記事に関するメールが定期的にきていて1、2年前あたりから気になる記事のタイトルが度々あって、こういうお知らせメールがもつ機能もいろいろな発見があるなァと感じました。
2019年までにいろいろなブログサービスを利用し、今も何個かブログがあちこちに残っていて、時々自分のブログを改めて見ることがあります。何年か経過していると、記事をひとつずつ非公開にすることもある。インターネットは、それを怒るパターンもある。そういうところも、こわい場所。そのときは平気でも何年か経てば人も変わるのか、ちがった見方をされる。それは発見でもあり新解釈にもなってしまう。そのときの解釈の金棒は、とても大きい気がする。だから、書くのが怖くなったりする。不安になる。人の言うことのなかでも、解釈のちがいから出てくるいろんな言葉は、時々恐ろしいほど強くなる。そういうとき、先に書いてあるほうが弱くなっていくのはやっぱり書き方がうまいとか見せ方がヘタっていう心理的なものも少しは理由にあるんだろうか?🤔
結局、わたしは書き方も見せ方もそういう分野をきちんと学ばないままで、うまくならない。「自分で考えるんだよ」「そこは自力」という言葉も真実味があって、インターネットの教えには気が遠くなりそう。そういうところから遠ざかっていく年月を過ごしているうちに、まだわたしがたのしむことはできるのかもしれないと思い直すまでに4年経過していました✏️🙂

悩みの種

他のブログサービスで書いていた時期があったとしても、経歴ではないんだからnoteのみに絞って表してほしかった、いつかだれかに言われそう。わたしも、なぜそれを気にするようにしてるのか悩む。以前、なんかそのことで悩んだ気がするけどそれを文にするのは無理そう。
noteはブログなのかなと思って検索していると、SNSの要素も兼ね備えていると表されている。そこで、ちょっと悩む。文章を書くと、どうしてもそれまで書いてきたことがネガティブなものほど滲み出てしまうと思って、それは徐々にそうなっていったから、初めて書いたものにはそういうのはなかったことを思い起こすきっかけになったり、うまく切り離せない不器用な書き方ですね。
わたしは、インターネットやSNSのことを現実にあまり反映させたくないと思うことがある。現実をここに入れても、さまざまな柵やハードルがあって危険な内容になることもある。お仕事によっては、こういうアカウントは原則禁止にされたりする。
少しずつ、社会や経済はインターネットやSNSとのつながりをハッキリさせて、住み分けをはじめるのではないかと考えたこともあった。経済がインターネットを突然ぷつりと切るほどでもないなら、いつの間にかそのように。スマホの普及、インターネットの繁栄もそうだった。社会は、インターネットに関する変化が新しい価値観の共有になるのかな?🤔雑な表し方じゃ意味をもたせられないか。
いろんなことをぽつぽつ考えて、書くのをやめようと思い始めて、数年かけて習慣になってたものを忘却したのに。

その後、わたしには微妙に苦しさが残ってしまいました。何かを考えて、なんか書いてるほうが落ち着くときもあるのかもしれません。