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東京ポップカルチャー50年史⑤~狂乱バブル80’sの男と女たち

【連載第⑤回】狂乱バブル80’sの男と女たち~TOKYO史上最もリッチな青春

1、ヤンエグの男たちとボディコンの女たち

それはとてつもなく華やかで、余りにも眩しすぎる時代の始まりだった。1980年代の中でも特別な輝きを放つことになった数年間──「バブル80’s(バブル・エイティーズ)」という狂乱のパーティが開場したのだ。

一般的にその定義は旧経済企画庁がバブル景気(*1)と定めた1986年12月~1991年2月とされているが、その間、大人たちは株や不動産の動向に一喜一憂し、大企業や権力者たちは投資や買収という名のマネーゲームに明け暮れた(*2)。

TOKYOの街々にも資本が投下され、遊び心を満たしてくれるナイトスポットやオシャレな店が乱立。六本木や青山や銀座はより洗練され、ひっそりとした倉庫街だった芝浦のような場所でさえ湾岸ウォーターフロントとして新しく生まれ変わった(*3)。

札束とかくれんぼしていたような連中は、TOKYOに漂う甘い空気が一夜にして大金に化けることを知っていたのだ。

このパーティに真っ先に招かれたのは若い社会人や大学生(主に年上と遊ぶ女子大生)たちだった。20代のサラリーマンやOL(つまり1983~86年のアーリー・エイティーズ期に大学生だった層)は、当時の若者社会の主導権を引き続き握ることになり、女たちのアカデミーアワード主演女優賞も女子大生からOLへと交代した。

街も店も情報もモノもすべてがこの世代の好みに合わせるかのように変貌を遂げていき、たちまち消費マーケットの中心に祭り上げられる。

TOKYOに出入りする誰もが次々と起こるムーヴメントやファッション、スタイリッシュな出逢いや恋愛を毎日気にかけるようになった。こうして20代の社会人たちは、史上最もリッチな青春模様を描いていく。

ソフトスーツ(*4)を着て通勤する男たちは「ビジネスマン」「ヤンエグ」と呼ばれ始め、異性コミュニケーション手段としての夜遊びやレストラン事情にやたらと詳しくなった(オシャレであれば味なんてどうでもよかった)。

車(クルマ)は左ハンドルがいいのか?(*5)  ゲレンデやビーチへのドライブではどんな音楽を流したらいいのか?(*6)  F1やモーターショーの動向は?(*7) 海外大物アーティストの来日コンサートチケットの手配は?(*8) そして一大イベントと化したクリスマス・イブはどう過ごすべきか?(*9) モテるためならデートマニュアルを買い漁って何でもやった。

一方でワンレン髪の女たちは、恋愛の成功服/仕事の勝負服としてのボディコン(*10)を装ってアフター5(*11)を謳歌。高級ブランドで統一されたファッションや年数回に及ぶ海外旅行(*12)は、次第に「ニューリッチOL」とマーケティングされるようになった。

男たちを操る意識も一気に高まり、派手で高飛車な態度(*13)やディスコ通いのイメージが強いと「イケイケギャル」と命名された。さらに1986年に施行された男女雇用機会均等法によって、一般職の腰掛け~寿退社~主婦といったお決まりのコース以外にも総合職に就くキャリアウーマンの選択肢が現れたことも影響してか、年配の男たちの領域に踏み込む「オヤジギャル」(*14)が増殖した。

2、何よりも怖いのは、流行に遅れてしまうこと

同時代の高校生がメディア経由の情報や大人たちや企業が提供する場所やモノに躍らされるのではなく、自分たちの手で流行や現象を作り出そうとする動きをしていたことに対し、20代のサラリーマンやOLたちは全くその逆で、仕掛けられたものを歓迎した。

だからこそファッション雑誌やタウン情報誌(*15)、トレンディドラマ(*16)や恋愛バラエティ番組(*17)、デート向け映画(*18)のほか、CM(*19)でさえシンクロした。

タクシー券や経費が使い放題で、1回のボーナス額が3桁(*20)が当たり前の時代。「リッチ」とか「トレンディ」がドレスコードになった「バブル80’s(バブル・エイティーズ)」というパーティでは、数ある宴の中から何を選択してどう楽しむかが肝心になり、他人目線や優越感も重視された。

最新を追求(*21)することも、余分なモノを買い持って満足感を得ることも、虚飾をどこまで気取れるかも、すべてが許された。

「忙しくてさぁ」とシステム手帳片手に微笑むのがクールなパフォーマンスになり、留守電の件数や交換した名刺の枚数、金曜の夜の相手探しや何人の異性と親しい間柄になれるか気を揉んだ。走り続けるミッドナイト・エクスプレスに乗車した者だけが自分を見失って遊ぶことができた。

世間の誰もが一つの時代の区切りをつけようとしていた1989年

その年は昭和と平成の境目であり、多くのメディアが「さよなら80年代特集」を組んだりしたが、狂乱のパーティは別に途切れることはなかった。さらに加速するかのようにバブルは膨らみ続け、年末には平均株価が遂に最高値3万8915円を記録する。

日本経済がもはや制御不能になっていくクレイジーな過程の中、TOKYOのサラリーマンやOLが傾倒するアルマーニズム(*22)は大企業に勤務する者たちに著しく描かれた。彼らが何よりも一番恐れたのは、流行に遅れてしまうことだった。

しかし、華やかな暮らしの中で幸せになりたがったり、毎日新しい刺激があって新しい話相手がいてという光だけを求める姿勢は、一歩間違えると時代のエアポケットに溺れてしまう。軽やかにパーティの波に乗っかっていた者のそばで、そうやって沈んで行く者、出口のない迷路を彷徨う精神的ホームレスがやけに目立つようにもなった。

海外ではベルリンの壁崩壊や天安門事件など革命の嵐が吹き荒れる中、それでもジャパンマネーは巨額の買収ゲーム(*23)を続けていたし、権力者たちは金とのロマンスにどっぷりと浸かったままだった。

そして永遠に続くはずだったパーティは突然、まさかの終焉を迎える。

ハイになり過ぎて上昇し続けていたTOKYOの地価が冷え込む時が来たのだ。株価もすぐさま影響して下落し始め、同年10月には3年7ヶ月ぶりに2万円台を割ってしまう。

不動産業者の倒産、金融機関の巨額損失……翌年春にはバブル経済は完全に弾けた(*24)。こうしてTOKYOで延々と繰り広げられていたパーティは一旦お開きになった。

繁栄が実体のない株価や地価の高騰の上に成り立っていた「バブル80’s(バブル・エイティーズ)」──渦中の1988年4月から背を伸ばし始め、1991年3月に落成した総工費1569億円の新都庁ビルが、まるでバブルの墓碑のようにそびえ立っていた。

(第⑥回へ続く)

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*Illustration : いなばゆみ 

【注釈】

(*1) バブル景気 1985年、中曽根内閣は低迷する当時の日本の財政再建に着手。同年9月のG5(先進国首脳・中央銀行総裁会議)ではドル高是正、低金利政策が容認された(プラザ合意)。これをもってバブルの幕開け、あることの始まりとする説もある。

その後、日銀の公定歩合の引き下げ→企業の借入金の返済増加→銀行の金太り状態を生み、株や不動産に手を出すために資金が必要な者と、新しい金の借り手探しに躍起になっていた銀行のニーズが完全に一致。低金利で限りなく貸し付けることにより、株価や地価も天井知らずに上昇していった。

(*2) マネーゲーム わずが2ヶ月で50万が318万に化けたNTT株は、それまで投資などに縁がなかった人々をも巻き込んだ。銀座の一等地に至っては坪1億円を超えていた地価高騰は都心の小さな土地までに及び、手荒い地上げも問題になった。

こうして日本全体に財テクブームが起こり、ゴルフ会員権、絵画、保険、リゾートマンションもその対象になった。TOKYOのバブル紳士たちが銀座の夜に散財したのは言うまでもない。ちなみにデパートでは1億9900万円の福袋が売り出された年もあった。

(*3) ナイトスポットの乱立 六本木、青山、銀座、湾岸に関するナイトライフ=ディスコカルチャーとその周辺については、次回以降で詳しく触れたい。

(*4) ソフトスーツ 1985年あたりからDCブランドのスーツが若いサラリーマンに支持されて誰でもオシャレに見えるようになったが、88年にインポートブランドがブームになると、アルマーニやヴェルサーチといったイタリアのダブルスーツに走った。

(*5) 車(クルマ) 今とは違い、車を持っていなければパーティに意気揚々と参加できない時代だった。ベンツやポルシェなど女の子にも分かりやすい車が好まれた。BMW3シリーズは余りにも夜の街で多く見かけたため、「六本木カローラ」と揶揄される羽目に。国産車ではホンダのプレリュード、トヨタのソアラ、日産のシルビアなどがデート最強と言われた。

(*6) ドライブのBGM 苗場や湘南は定番のミーハースポットで、言うまでもなくユーミンやサザンが搭載された。首都圏ドライブでは1988年に開局した81.3のJ-WAVEが役に立った。ダンスポップ/ヒットチャート系の洋楽かJ-POPかのセレクトは助手席に座っている女の子の好みによって使い分けた。

洋楽に疎いカップルほど、マイケル・ジャクソン、マドンナ、ホイットニー・ヒューストン、ジャネット・ジャクソン、マライア・キャリー、ボビー・ブラウン、MCハマー、ジョージ・マイケル、ポーラ・アブドゥル、カイリー・ミノーグ、デッド・オア・アライヴ、BON JOVI、ミリ・バニリあたりの搭載率が高かった。

(*7) F1 1987〜1991年はセナ・プロ対決が見られた頃の奇跡のF1時代でもあり、中嶋悟がフル参戦したことによって深夜のTVでも視聴できるようになった。浮かれた時代の中、アイルトン・セナの命を懸けた走りは余りにも衝撃的だった。また、鈴鹿などのサーキット場でのレースクイーンや幕張メッセでのイベントコンパニオンはモテ職業/アルバイトに。

(*8) 来日コンサート 1987年にマドンナとマイケル・ジャクソンが来日。90年には遂にローリング・ストーンズが東京ドームで公演を行った。

(*9) クリスマス この頃の『POPEYE』のクリスマス完全準備号のコピー「もうクリスマスは怖くない」が代弁しているように、男たちにとってこの日は楽しみというよりは一種の強迫観念のようにつきまとっていた。プレゼントはティファニーのオープンハートが一番人気となり、在庫が切れて買えなかった男たちのために売り切れ証明書が配布されたとか。

眺望のいいホテルは夏には予約を入れなければならなかったし、レストランではいつもの倍の値段で冷めたフランス料理を囲み、狭い席幅にストレスを感じた。花束やドライブもマストだった。エッチするためには一晩で十数万は最低必要だった。

(*10) ワンレン・ボディコン ダイアナ妃フィーバーや報道番組での女性キャスター起用など、女性ファッションのメインストリームがお嬢様+セクシー路線へ転換した頃。髪型はレイヤーからワンレングスに伸び、髪のかき上げ行為に男たちは反応した。その後、前髪をニワトリのトサカのように立ち上げたり、ソバージュも流行。

ボディコンシャスはもともとはデザイナーのアズディン・アライヤが提唱したモードで、日本では共学カジュアルに対する女子大エレガンスの位置付けとして、神戸発のコンサバな山の手キャンパスファッションが最初だった。

1986年頃になると『マハラジャ』などの学生ディスコパーティやオフィスシーンでの需要も加わって一般化。翌年には突発的に緑色のボディコンスーツやワンピースが街に溢れ、週刊誌では「お抹茶族」と名付けられたりもした。ジュンコ・シマダ、ピンキー&ダイアン、プライベート・レーベルなどが代表的ボディコンブランド。

肩パッド、チャンピオンベルトと揶揄された幅広ベルト、シャルル・ジョルダンのパンプス、スエード地のロングブーツ、トレンチ風コート、ラメ入りストッキング、濃い眉メイク、ディオールのピンクの口紅、プワゾンの香水も彼女たちのお約束で、バッグはシャネル、ヴィトン。エルメスのスカーフは腰に巻いた。

 1989年頃のオフィスシーンでは幅広のパンツルックが流行してボディコンは廃れていくが、ディスコやキャバクラなど夜遊びシーンでは根強く受け継がれていった。また、ハイレグの水着も流行ったが、まさにビーチ界のボティコンと言えた。

(*11) アフター5 この時期、ディスコのみならず、カフェバー、プールバー(ビリヤード)、シネマバー、アクアリウムバー(熱帯魚)、ディナークルーズなど女が出向く場所には男も必ず現れたが、夜お茶やオープンテラス席のあるカフェは「いい女を見せつけたい」「いい車を見せつけたい」という裏事情も手伝って、外苑前『セラン』や天現寺『ペーパームーン』や白金台『ブルーポイント』や三宿『ラ・ボエム』は特に人気が高かった。

店が客を選ぶ強気な時代でもあり、いい席に案内されることにステイタスを感じた。高校生がまだ脇役だったバブル期は、OLや女子大生のクチコミは影響力絶大だった。

(*12) 海外旅行 1990年、海外旅行者が初の年間1000万人を突破。OL留学も増加した。中には解放的になってロコボーイと戯れ、「イエローキャブ」や「リゾラバ」と呼ばれる残念なこともあった。

(*13) 高飛車な態度 車での移動手段のための「アッシー」、食事を奢ってもらうための「メッシー」、ブランド品などのプレゼントをおねだりするための「ミツグ君」、本命ではないが取り敢えずのための「キープ君」などが知られた。

同じプレゼントを複数の男にリクエストして、一つを使い回して残りを換金するというテクニックも横行。この種の女たちは、「私を楽しませてよ」的な姫様タイプが多く、3高(高収入・高学歴・高身長)条件を交際/結婚相手に強く望んだ。よく口にした台詞は「あいつ、アウト・オブ・眼中だし」(恋愛対象外)や「あいつ、態度がLLだし」(態度がデカイ)。

なお、2000年前後のITバブル期でも似たような現象が起こったが、逆に「タカリ女」「TOKYOタカリタガール」「タカリンチュ」などと揶揄された。まあ、お互い様だろう。

(*14) オヤジギャル 『SPA!』で連載されたOLを題材としたマンガ『スイートスポット』(中尊寺ゆつ子)から広まった流行語。ゴルフ、カラオケ、飲み屋、競馬、パチンコといったオヤジたちの遊びを、エステや美容院や結婚情報サービスを利用する同じ感覚で立ち入った。

(*15) タウン情報誌 女子大生や20代前半OLのバイブルだった『JJ』や『CanCam』はワンレン・ボディコンを浸透させ、88年創刊のHanakoはイタメシブームやティラミス、ボジョレー・ヌーボーなどを牽引。ananは89年に「セックスで、きれいになる。」特集を展開して話題に。

(*16) トレンディドラマ 1986年の『男女7人夏物語』と翌年の『男女7人秋物語』をきっかけとしたスクランブルする恋愛ドラマ。87年のマスコミを舞台としたギョーカイドラマを経て、よりオシャレ化したトレンディドラマとして88年からフジテレビとTBSを中心に本格的に制作が相次いだ。

主演したW浅野(浅野温子・浅野ゆう子)や今井美樹や中山美穂、三上博史や陣内孝則や柳葉敏郎らはファッション雑誌の表紙の常連となり、ドラマ中のファッションやヘアメイク、言葉遣いや仕草まで「いい女、いい男のあり方」として昼間のオフィス街やアフター5でシンクロされるようになった。店や家電やインテリアもその対象となり、フローリングマンションやコードレスホンの普及にも繋がった。

夜の放送時間に観ていなくても、帰宅後に録画していたビデオでチェックした。大学生ものもあったが、やはりサラリーマンとOLたちの恋物語が支持された。なお、バブルが崩壊した1991年には『東京ラブストーリー』『101回目のプロポーズ』『逢いたい時にあなたはいない』などの純愛路線へと姿を変えた。『もう誰も愛さない』はバブルの総決算とも言える内容で評価が高い。

(主なトレンディドラマ/年代順)
1988年/『君が嘘をついた』『抱きしめたい!』『君の瞳をタイホする』『意外とシングルガール』、1989年/『君の瞳に恋してる!』『ハートに火をつけて!』『愛し合ってるかい!』『同・級・生』『雨よりも優しく』、1990年/『キモチいい恋したい!』『恋のパラダイス』『世界で一番君が好き!』『クリスマス・イヴ』『すてきな片想い』『卒業』『想い出にかわるまで』など。

(*17) 恋愛バラエティ番組 1987年にスタートした『ねるとん紅鯨団』のこと。司会のとんねるずが頻繁に口にした「ツーショット」「○○系」「彼氏・彼女いない歴○年」「○○みたいな」「男子・女子」などは、恋愛用語として定着。「ねるとん」は集団お見合いパーティの代名詞にもなった。

(*18) デート向け映画 ホイチョイ・プロダクション原作の遊び発見映画。『私をスキーに連れてって』(1987)ではスキー、『彼女が水着にきがえたら』(1989)ではスキューバダイビングを取り上げ、若い世代の遊び心を刺激。そんな彼らが『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』(2007)を発想するのは必然だった。

また、洋画も重視された時代で、特に『トップガン』『ハスラー2』『カクテル』『レインマン』といったトム・クルーズ主演作は遊び発見映画として人気が高かった。他に『ウォール街』『ワーキング・ウーマン』『プリティ・ウーマン』『ゴースト』なども忘れられない。

(*19) CM コピーが街の空気を反映したものとして、「職業選択の自由、アハハ〜ン」(学生援護会・サリダ)、「24時間戦えますか?」(三共・リゲイン)、「5時から男」(中外製薬・グロンサン)などがあった。また、JR東海の「クリスマス・エクスプレス」は山下達郎のクリスマスソングを定番化するだけでなく、TOKYOの男と女たちにクリスマスの一大イベント化を促した。

余談だが、TV放送もコンビニもレンタルビデオも英会話やスポーツクラブも24時間営業が一般化したのはバブル期だ。

(*20) ボーナス 女たちは海外旅行やブランド品に使い、男たちは半年分の負債や車のローンをここで清算した。今の時代は貯金にまわす堅実な若者が多いが、あの狂乱の時代では愚の骨頂とされた。

(*21) 最新を追求 1987年に携帯電話が登場。当時は1kg近く重量があり、しかも加入料が29万、補償金が20万などと非常に高価なものであった。1991年に小型化されるが、それでも加入料は5万もした。

(*22) アルマーニズム 本文で描かれたようなヤンエグサラリーマンとニューリッチOLの強気な宴のすべてを指す。NYヤッピーやキャリアウーマンのライフスタイルのTOKYO版であり、小説や映画で描かれた『アメリカン・サイコ』とまではいかないまでも、ブランドやステイタスに執着する姿勢は同じだった。パーティでは証券、銀行、商社、不動産、マスコミ、広告など好景気に沸く大企業の肩書きが最大の武器だった。対義語として同時代の渋谷の高校生が傾倒したローレニズムがある。

不動産デベロッパー/カジノ経営者/企業買収家で、1987年には40歳で30億ドル以上の資産を築いたドナルド・トランプをアイドルにした者も多く、翌年には自伝本が翻訳化されてよく売れた。まさか大統領になるとは。

(*23) 買収ゲーム 三菱地所がNYのロックフェラーセンターを2000億、ソニーがコロンビアを3700億、住友不動産がNYのマンハッタンビルを7000億、松下がMCA映画を7800億……また、東京23区の土地の値段でアメリカ全土が買えると言われた。

(*24) 完全に弾けた クレイジーな地価高騰が懸念される中、日銀の公定歩合の引き上げに加え、1990年3月に旧大蔵省が貸出先規制、不動産融資の総量規制を通達したことが原因となって急速に冷え込んだ。あることの終わりだった。


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