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【プロ野球 名場面第21回】トルネードの襲来(1990年)

1989年秋のドラフト会議の話題をさらったのは、新日鉄堺の野茂英雄だった。今は亡きパンチョ伊東氏が司会を務め、指名選手をコールするのが秋の風物詩となっていたドラフト会議。
「第1回選択希望選手・野茂英雄・21歳・投手・新日鉄堺」は実に8度コールされ、それまでの岡田彰布(早稲田大→阪神)、清原和博(PL学園高→西武)の6球団を超える新記録であった。抽選の結果、近鉄が野茂との交渉権を獲得し、野茂はすぐに入団に応じた。身体を大きく捻る「トルネード投法」と呼ばれた独特のフォームから放たれる150キロ近い速球と落差の大きいフォークは即戦力と高く評価された。
https://www.youtube.com/watch?v=X67tvRkFgwE

プロ野球選手としてのスタートを切った翌1990年、オープン戦では、この大きなフォームを盗まれ、塁上をかき回され、自滅するという構図に陥り、口の悪いスポーツ紙は「期待外れ」と報じたが、開幕して1か月後、4月29日の対オリックス戦、初回からフォークがさえ、奪三振ショーを展開。その数は17にまで達し、いきなりプロ野球タイ記録のおまけのつくプロ初勝利をマーク。
https://www.youtube.com/watch?v=4UmZffHehwA
野茂の快投は留まらず、同年、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、ベストナイン、沢村賞、MVP、新人王に輝くなどありとあらゆる、タイトルを獲得。沢村賞はこれまでセ・リーグのみを対象としていた賞だったが、前年からセ・パ両方を対象としており、野茂はパ・リーグで初めて沢村賞に輝いた投手にもなった。
また、一つ年上の清原との力と力の対決は、早くも名勝負の予感を漂わせていた。
このように野茂にとって素晴らしいシーズンとなるが、この先の栄光と歴史の創造を僕らはまだ知る由もなかった。
なお、これまで近鉄のエースとして活躍した阿波野秀幸は、ボーク判定の厳格化により、フォームを崩してしまい、また野茂というスーパールーキーの登場に焦りが生じたのか、10勝11敗防御率4.63とプロ入り後、最低の成績に終わり、以降、成績は下降線を辿っていった。

この年のドラフト会議は、野茂以外にも活躍した名選手が多く、大豊作のドラフトとなった。これほどまでにタレントが揃うことも珍しい。なお、この年のドラフトのもう一つのトピックは、巨人のドラフト指名であった。甲子園のヒーロー元木大介は巨人を熱望したが、巨人は慶應閥に拘り(当時の藤田監督も慶應大出身)、東京六大学野球で活躍した大森剛を選択。ダイエーが元木を指名するも、元木は頑なに拒否し、1年アメリカで浪人という選択肢を取る。この時のロスが元木のプロ野球選手としての器を小さくしてしまったように感じている。

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