【プロ野球 名場面第11回】立浪和義の鮮烈デビュー(1988年)
1988年は、結果として昭和最後のシーズンとなりました。
さて、今回はこの年がルーキーイヤーだった立浪和義について語ろうと思います。立浪はPL学園で清原、桑田より二つ下の世代に当たり、1987年の甲子園には春・夏に出場し、桑田、清原でも達成できなかった「春・夏連覇」の偉業を、主将として、3番遊撃手として成し遂げています。
秋のドラフト会議では、上記の表にも記載している南海ホークスと中日ドラゴンズから1位指名を受け、抽選の結果中日ドラゴンズが交渉権を獲得。中日への入団を決めました。
立浪は打撃センスにも秀でていましたが、まずプロとして刮目を浴びたのは、守備と走塁です。ドラフト会議で立浪を当てたとき、星野監督は記者団に対し、遊撃手は宇野がいるからと立浪には安易にポジションを渡す意向がない旨示唆していましたが、キャンプでそのセンス、グラブ捌きの良さを見抜かれると、当時30歳と脂がのっておりリーグを代表する遊撃手宇野を二塁手にコンバートさせ、立浪を遊撃手へと抜擢しました。そして、開幕戦は2番遊撃手でスタメン起用されるのです。
高卒ルーキーの開幕戦スタメン出場は、セ・リーグでは王貞治以来29年ぶりでした。いかにそのことが難しいことなのか珍しいことなのかということを示すFACTかと思います。
そして、立浪は春先から活躍し、オールスターにファン投票で選出され、レギュラーシーズンも110試合に出場し、リーグ優勝に貢献しました。夏場以降は、本人も体力が続かなかったと述懐しており、6月には3割近かった打率も急降下。シーズン全体では2割2分3厘に終わりましたが、22盗塁を記録し、ゴールデングラブ賞を獲得。また新人王にも輝きました。
後に、中日でも同僚でもあり名遊撃手だった井端弘和は、高卒ルーキーでゴールデングラブは信じられないとコメントしていますし、今同じ中日の根尾昴が高卒2年目で遊撃手として苦しんでいるのを見ると、いかに立浪の順応性が高かったかということを感じます。
プロ野球選手の中では、173センチと小柄ですが、その野球センスと研究熱心さで着実に実績を残していきます。その後、彼は「ミスタードラゴンズ」と呼ばれ、野球殿堂入りまで果たす名選手となっていくのです。