【プロ野球 名場面第16回】斉藤雅樹、天国から地獄へ (1989年)
1989年のセ・リーグは巨人が優勝した。中でも目を見張ったのが斎藤雅樹の台頭だ。斎藤は、市立川口高3年生のとき、1982年秋のドラフト会議で巨人から1位指名を受け入団。プロ入り3年目には、チーム最多の12勝を挙げ、最優秀防御率争いも終盤まで争うなど順調に成長すると思われたが、精神面の弱さも課題とされ、その後暫くローテーションにも入れないシーズンを過ごした。その間、一つ年上の槇原寛己、1つ年下の水野雄仁、2つ年下の桑田真澄らが台頭し、斎藤は遅れを取った。
だが、元号が改まった1989年、斎藤は大ブレークを果たす。藤田新監督が先発で粘り強く起用すると、あれよあれよと11試合連続完投勝利のプロ野球新記録をマークした。完全に分業制が確立した現代では、信じられないような記録だが、この時代はちょうど過渡期だったように思う。中継ぎ、抑えという役割は各球団採用していたが、先発投手の優秀さの物差しは完投の多さという揺るぎない価値観が支配しており、現代のように先発が7回まで投げてくれれば合格点という考え方はなかった。エースであれば尚更である。この年、桑田も槇原も好調であり、後に「3本柱」と呼ばれる先発陣が確立された。
一方、前年の覇者中日はこの年はなかなかエンジンがかからなかった。立浪は肩痛から戦列を離脱。ゲーリーは退団し、後任のジョージは長打力不足、また投手陣は巨人から移籍した西本聖の意地の奮闘や、前年プチブレイクを果たした山本昌も順調に勝ち星を挙げたが、それ以降の先発陣がなかなか出てこない状態であった。ただ、落合は好調だった。3冠王3度の実績を引っ提げて1987シーズンよりセ・リーグに乗り込んできた落合だったが、移籍後2年間は主要タイトルを獲得できず、悔しい気持ちがあったに違いない。だが、この年は、セ・リーグの投手に慣れたのか流石と呼べる打撃内容だった。
そんな両チームの対決が、8月12日に行われた。西本、斎藤両投手の息詰まる投手戦は、8回に巨人が先制すると、9回にクロマティ、原の連続本塁打が飛び出し、3‐0と突き放す。斎藤は初回から快調なピッチングを続け、ヒットすら許さず、とうとう9回を迎えた。先頭の中村武志を打ち取り、ノーヒット・ノーランの快挙まであと二人。ここで、中日はこの日一軍に登録されたばかりの音重鎮を代打に送る。斎藤の直球を強振し、右翼手の前にボールは落ちる。ノーヒット・ノーランを免れた中日は沸きに沸いた。二死後、川又が四球を選ぶと次打者仁村徹がしぶとくタイムリーヒットを放ち、1点を返す。それでもまだ2点差だが、球場の雰囲気は俄かに変わり始めた。斎藤は冷静さを失った状態で落合を迎えた。落合は前の打席、ストレートに差し込まれており、斎藤はきっとストレートを投げてくるだろうと狙いを定め、斎藤の外角低めのストレートを振りぬく。ゆっくりと打球は上がり、右中間スタンドに吸い込まれていった。まさかのサヨナラホームランだ。ノーヒット・ノーランがすり抜けたばかりではなく、勝ち星すら逃がしてしまった斎藤は呆然と立ち尽くした。藤田監督は斎藤の力投を労った。また、落合の勝負師としての怖さと冷淡さを子供心にも垣間見たような気がした。斎藤は野球の怖さを改めて感じたことだろう。
この後、斎藤は順調に勝ち星を重ね、20勝を挙げ、シーズンMVPに輝き、巨人の優勝に大きく貢献した。また、落合は116打点を挙げ、セ・リーグで初めて主要タイトルを獲得した。ペナントレースは巨人が独走し、つまらない展開だったたけに、私は落合の一撃が嬉しくて仕方がなかった。この真夏の一戦は、30年以上経った今もやけに印象に残っている。
https://www.youtube.com/watch?v=-TTf4zeSH2k