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米津玄師「POP SONG」の歌詞を深堀りした「くだらねぇ」考察〜後編〜
まずはこの記事の前編からお読みください。
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前編ではプレステCMソングとしての「POP SONG」をメインに掘り下げた。要約すると「大変な世の中だけど、そんな深刻になるなよ。遊び心を大切に楽しく生きようぜ。どうせ全部くだらねぇんだから。」だ。
この後編では、歌詞の深層を読み解きながら”米津玄師の新曲”としての「POP SONG」を考察していく。言うまでもないが全て筆者の個人的解釈である。
*文中の”プレよねちゃん”とは、プレステCMにおけるトリックスター的キャラのことである。(詳細は前編にて)
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CMとは別軸のPOP SONG
昨今、ボカロ界隈発の楽曲がJ-POPのメインストリームを席巻している。さらにTikTokなどでバズった曲が短いタームで消費されていく。この”時代が米津に追随した”とも言える状況を、米津は味気ないとぼやく。
なんて味気ない世界になってしまったんだろうなって恨み節のひとつもぼやきたくなる。
とにかく一矢報いたいというか、レジスタンス精神のようなものがあったんです。だから今は非常に味気ない。
みんながみんな同じ方向を向いているのはすごく気持ち悪いとは思うし、自分は反対の方向に行くのが好きなんですよね
天邪鬼な米津が、身体性が薄いネットミュージック全盛期に、自らの肉体をキャンパスとして”プレよねちゃん”と化すことで、ドラスティックな転換を図ったのは、遊び心だけでなく、揺らぐことのないレジスタンス精神の表れかもしれない。
まさに「やったれ死ぬまで猿芝居」と腹を括っている。
誰が誰に向かって歌ってるんだろう?
この曲には一人称がひとつも出てこない。二人称は”あなた方”と”君”。その他は”ベイビー”、”みんな”、”レイディ”、”あいつ”、”そいつ”。「この人たちは誰だ?」この点も視野に入れて考察してみた。
チャラけた愛を歌ってるベイビー
煌めいてシックなメロディ
誰も見当たらない夜がまたひとつ
頭空っぽチープなハーモニー
誰だって愛されたいのに
いらないことばかり口をつく始末
冒頭2行には、今のJ-POP界隈への”ポップスター米津玄師”の気分が仄めいている。そして、”盛った”画像や言葉で溢れるSNS上のコミュニケーションや、1人パソコンの前だけで完結する音楽を「誰も見当たらない夜」に喩え、パンデミックで人影のなくなった夜の街とWミーニングにしているようだ。
対面とネット、それぞれのコミュニケーションは別ものというか、性質が大いに違うものですよね。どっちかに偏っちゃうと、それはそれで健康ではないと思う。
調和は大切だが、「頭空っぽ」の「いいね」や「わかる〜」が奏でる「チープなハーモニー」は滑稽だ。承認欲求に隷属したイタイ発言や暴言の大合唱。
そんな人々に「どうしちゃったの?みんな」と茶化すように問いかける。”そんな面”とはどんな顔か?”プレよねちゃん”の姿に驚き唖然とする顔か?あるいは歓喜か?嘲笑か?
あの仮装に喧々諤々の賛否両論が”さんざっぱら”集まることは折込み済みだっただろう。「俺に対して”どうしちゃったの?米津…”って言ってるあなた方だってまともじゃないよ」と笑っていそうだ。
どうしちゃったのみんな
そんな面で見んな
まともじゃないよあなた方
あー喧々諤々さんざっぱら
雨に唄えば なんて晴れやかだ
さぞかし大層楽しかろ
あーりんりんらんらんあっぱっぱらぱー
そんな”まともじゃないあなた方”が、相互監視社会で「喧々諤々さんざっぱら」叩き合う様子は異様だが、当事者たちはそれを自己主張の発露として溜飲を下げている。それはそれで数少ない慰みの場なのかもしれない。
「雨に唄えば」は’50年代の名作ミュージカルで、無声映画からトーキー*へのラジカルな変化を核としたストーリーだ。
*映像と音声が同期した映画
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「ポップソングほどラジカルなものはないと思うんですよ。(ナタリー より)」と言う米津は、意図的に不朽のポップソング「雨に唄えば」をフィーチャーしたのだろう。MVで踊っていたタップダンスはこの映画の最大の見どころでもある。
さらに、ヘッドホンでよーく聞くと「あっぱっぱらぱー」の部分で「〜ブラブラブラブラ〜」とコーラスが入っている。blah blah blah(くだらなねぇと受け流すスラング)か?はたまた、次のフレーズ「123で愛を込めて」を出迎えるlove love loveか??
1 2 3 で愛を込めて
もう一生遊ぼうぜ
準備してきたもの
全てばら撒いて
そうさどうせ何もかも
全部くだらねえ
君だけの歌歌ってくれ
それもまた全部くだらねえ
このパートには前編で書いたCMのメインメッセージが凝縮されている。
ただ、「準備してきたもの全て」をばら撒かなかったプレステに、新サービスや新製品を待ちわびていたゲームファンから落胆と非難の声が上がったのが惜しい。
だらけた恋がしたいのさレイディ
モラリスト呆れるセオリー
嫌なことばかり 春が過ぎていく
猫足のバスタブでフライバイ
飛んじゃってお茶の子さいさい
唱える呪文は ビビデバビビデブー
最初の3行はAメロ同様、窮屈でどうかしてる世の中を表現しており、「春が過ぎていく」が次の「フライバイ」にかかっている。
「フライバイ」は、英語だと表記のしかたで意味が微妙に異なるが、この歌詞では両方の意味をかけていると思う。
「FLYBY」=接近通過する宇宙船
「FLY-BY」=あっという間に時が過ぎる
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エレガントな「猫足のバスタブ」は、”ゆめうつつ”の「瀟洒な宇宙船」にも通じる”成功を手にしたリッチなポップスター”米津玄師だと世間に思われているであろう自分の立ち位置を象徴している。
「春が過ぎていく」=旬はあっと言う間過ぎ去ると言うことか?だが、そんなのどうってことねーよ。呪文を唱えりゃ楽勝さと言わんばかりに軽やかに言葉遊びを楽しんでいる。
世界的ポップスの頂点ともいえるディズニーの「ビビデバビデブー」
に一文字加えた「ビビデバビビデブー」は単なる音合わせか?王道を絶妙に外した米津流のオマージュか?
我がストーリー
愛の成す通り
生きてたい夢中に
全てが遊びの様に
異常にくだらねえよ
何もかも
君だけの歌歌ってくれ
頭の2行は韻というよりダジャレギリギリのユーモアに溢れている。だが、エピキュリアン的な生き方を肯定した直後に吐き捨てる「異常にくだらねえよ何もかも」だけが、この曲の中で唯一、真に厭世的な印象がある。
5回の「くだらねえ」のうち4回は「全部くだらねぇ」なのに対し、ここだけ「異常にくだらねぇ」だ。兵士を尻に敷き「くだらねぇ世の中を全面的に肯定してるわけじゃねえよ」という隠しメッセージを送っているように見える。
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どうかしてる どうかしてる
あいつもそいつもみんな変だ
ちょっとついていけない 楽しめない
イカれてるエクスタシー
どうかしてる どうかしてる
全てが全部くだらねえんだ
君だけの歌歌ってくれ
米津は「どうかしてるのは世の中なのか、自分なのか?自分の常識、思想、哲学、倫理観が正しいか歪んでいるかは他人も自分自身も判断できない。」と語っている。
その構造自体を音楽で表現することに意味があるんじゃないか?
このパートの「あいつもそいつも」の中には米津自身も含まれているのだろう。「ちょっとついてけない、楽しめない」ような世界でも、それを信じる人たちから見たら、米津こそが変なのかもしれない。
自分とは違う常識で成立しているコミュニティを批判しがちだが、”俺はお前らとは違ってまともだ”と「イカれてるエクスタシー」を感じているのはどっちだ?と問いかける。自分自身にも。
素晴らしいほど馬鹿馬鹿しい
これぞ求めていた人生
君は誰だ教えてくれよ
どうせ何もないだろう?
喧しいこと甚だしい
これぞ価値のある人生
誰でもいいけど君がいいんだよ
愛を歌っておくれ
それもまた全部くだらねえ
生産性や能力で人間の価値を決めつけ、「馬鹿馬鹿しい」けど本人が満足してる人生に文句をつける輩に「喧しいこと甚だしい」とノーを突きつけ、「これぞ求めていた人生」「これぞ価値ある人生」だと開き直る。
「君は誰だ?教えてくれよ」に続く「どうせ何もないだろう?」は奴らへの強烈な嫌味であると同時に、次の「誰でもいいけど君がいいんだよ」と言う赦しへと繋がっている。
だが「愛を歌っておくれ」と囁いた刹那、最後の最後に「それもまた全部くだらねぇ」と笑い飛ばすのだ。
「君だけの歌歌ってくれ」と言いながら「それもまた全部くだらねぇ」とは?
CMにおいては、キーワードである「君だけの歌歌ってくれ」を「君らしく生きてくれ」と意訳したが、それはこの曲のパブリックな側面だ。POP SONGの深層には、それこそが「くだらねぇ」と言う思いが沈殿している。
「“素”って何だよ?」って。(略)ありのままの生き様……みたいな、センス信仰ですね。そんなことを言っているからこその”ていたらく”だとよく思う。
米津は自身のSNSや数々のインタビューで「自分らしさ」「ありのまま」「素の自分」「オリジナリティ」などに、嫌悪にも似た拒絶反応を示している。アルバム「BOOTLEG」はその集約だ。
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こう考えると「君だけの歌 歌ってくれ」と「全部くだらねぇ」には矛盾がない。つまり、広告コピーやJ-POP歌詞にも辟易するほど多用されている「私らしさ」信仰、「ありのまま」至上主義、「自分らしさ」に固執しテコでも動かない人間へのアンチテーゼだ。
自分が生きてる場所がここだって(略)一歩もそこから出ずに踏ん反り返ってる人間を見ると虫酸が走るし、自分はそう言う人間には絶対なりたくない。
「君は誰だ?教えてくれよ。どうせ何もないだろう?」は、何が”まとも”で、何が”どうかしてる”のかもわからないのに、個性なんてもんに惑わされるなと言っているようにも聞こえる。
これこそが「POP SONG」の隠れた両義性ではないだろうか?
現実逃避の誘惑と溶けていく時間
インスタライブの際、ペルソナのプレイ時間が100時間を超えてたことに気づいた時の「んがぁ”〜〜〜っ!!!!!」と言う絶叫と、MVで遊びの世界に雪崩れ込んでいく兵士を尻目に浮かべた悪魔的な笑みは何を物語っているのか?
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居心地のいい空間を嫌い、自分らしさに縛られず、変化を求め自らを常にアップデートしていく米津玄師。大好きなゲームに没入することすら、無意識のうちに異空間から戻った時の創作に活かしている。
「コマーシャリズムに騙されるなよ」と、この目が言っているような気がする。こんな考察しちゃって”ごめんね”、ソニー。
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*文中敬称略
*歌詞が公式から発表されていないためApple Musicの歌詞を参照しています
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