米津玄師「優しい人」が問いかける優しさの意味
優しい人。。。
もうタイトルからして危険である。米津玄師が「優しい人」なんてタイトルをつけた時点で、心優しいリスナーにはそれなりの覚悟が必要だ。美しすぎるメロディに漂う優しさはいつでも天使の微笑みを浮かべているわけではない。
この曲の主な登場人物は3人
1:気の毒に生まれて汚されるあの子
2:その子を「綺麗だ」と言ったあなた
3:傍らで眺める私
学校もしくは狭いコミュニティでの差別や虐めがストレートな歌詞で描かれている。見る角度によってポジティブでもあり、苦しくもあり、逃げたしたくなるほど恐ろしい曲でもある。
第1の解釈:勧善懲悪としての正義
素直に解釈すれば「気の毒なあの子を褒めるあなたのようになりたい私」の歌である。自分が可愛くて保身ばかりの私は、あなたのようにあの子を見てあげることができない。だから真摯にこう願う。
優しくなりたい 正しくなりたい
綺麗になりたい あなたみたいに
自分の弱さや汚さを自省し、あなたを見習って克服しようとする私視点の極めてポジティブな解釈だ。そこには、善意の化身のようなあなたが規範として存在し、恥いる私を”優しく正しく綺麗な方”へと導いてくれそうだ。「優しい人」が「優しい人」として機能している。
第2の解釈:優しさによる優しさの否定
(小学校の道徳の授業で)教師が、差別を受ける人たちというのは明確にいると。差別行為を働くのは言語道断だし、差別されている人間に対してかわいそうだと思ってはならないと言ったのを覚えてるんですよね。
(STRAY SHEEP RADIOより)
当時の米津少年は、虐げられている人を「気の毒でかわいそう」だと思っていた。だから教師の言葉を理解できず、自分は道徳心のない悪い人間なんじゃないかとものすごく悩んだと言う。
優しさが小さな牙をむいた瞬間だ。
憐みにより損なわれる尊厳があるのは事実だろう。その一方で純粋に「かわいそう」だと同情する優しさが否定されている。文科省だかどこかが定めた”正しいとされる優しさ”が幼い米津を傷つけていた。
周りには愛されず 笑われる姿を
窓越しに安心していた
ババ抜きであぶれて 取り残されるのが
私じゃなくてよかった
強く叩いて「悪い子だ」って叱って
あの子と違う私を治して
この曲の私はあの子への憐みをそっと隠し、自分に火の粉が及ばないことに安心している。そんな醜い自分が許せない。もしかしたら私はあの子よりも深く傷つき、自己嫌悪に苛まれ、あなたに必死に助けを求めているのかもしれない。強く叩いて欲しいと願うほどに。
私の苦しみがこの曲の主題だとしたら、「優しい人」と言うタイトルは「お前は優しい人ではない」と善意の切っ先を突きつけている。
悪意によって刻まれる傷よりも、善意の刃による傷は深い。私は悪い人間なの?私は生きていていいの?
第3の解釈:脆弱で残酷な優しさ
「気の毒に生まれて汚されるあの子」と言う描写が、容姿、人種、あるいは肉体的ハンデキャップと言う外見的な要素を思わせ、「虐められる側にも多少なりとも否はある」と言う自己責任論の入り込む余地をキッパリと封鎖している。
気の毒に生まれて汚されるあの子を
あなたは「綺麗だ」と言った
傍らで眺める私の瞳には
とても醜く映った
虐げられる対象となっている外見を、なぜあなたはわざわざ「綺麗だ」と言ったのか?そして、傍らで眺める私の瞳にとても醜く映ったのは、あの子の姿なのか?それともあなたの偽善か?
このあなたもまた私と同じようにあの子を憐んでいる。その気持ちを覆い隠すために「綺麗だ」と言うことで自分の良心を粉飾し無意識に優位に立っている。道徳を使い分け憐みをそっと隠しているのはあなたではないか?
持て余す幸せ、使い分ける道徳
憐れみをそっと隠した
「ほら、あの子へ向けるその目で、道徳心のない悪い人間である私のこともいい子だって言ってみなよ」そんな声がどこからか聞こえる。
頭を撫でて ただ「いい子だ」って言って
あの子へ向けるその目で見つめて
「私を叩いてあの子と同じに治して。そして私のことも綺麗だって言ってよ」
強く叩いて「悪い子だ」って叱って
あの子と違う私を治して
薄ら笑いを浮かべながら「あなたみたいに優しく正しく綺麗になりたい」と言う強烈な皮肉。
あなたみたいに優しく
生きられたならよかったな
優しくなりたい 正しくなりたい
綺麗になりたい あなたみたいに
この曲では、虐げられるあの子の気持ちは一言も歌われていない。同情、共感、救済。。。あの子が本当に欲しいものは何だったのか?あなたも私も誰もわかろうとしていない。あの子との間にある距離を測りかね、ただ自分の欲求や良心を宥めている。
人間は弱いものだ。どれだけ優しく正しく綺麗に生きようとしても、そんな理想は何度となく裏切られる。社会や他人にではなく自分自身の弱さによって。自分に危機が迫れば優しさや正義などは一瞬で吹き飛ぶし、一皮剥けば悪意が潜んでいない人間などいない。
それに理性と倫理観で蓋をし、自分を律することで何とか社会生活を営んでいるに過ぎない。
人間、別に何を思ってもいいじゃないですか。想像の中では何をやってもいいし。悪逆非道なことを頭の中で繰り広げることに対して、それを誰にも止めることはできないし。(略)人を傷つけるような欲求というのも頭の中だけであれば成立する(Rockin'onJAPANより)
米津は「優しい人」をこの世に出すと言うことはそれを表に出す行為かもしれないと語っていた。
結局、優しい人は誰なのか?
「優しい」と言う言葉の語源は「身も痩せるほど恥ずかしい」と言う意味だそうだ。
優しくありたいと言う理想を抱きながらもエゴや恐怖に負けてしまう。例え偽善であろうとも正しくありたいと切に思う。そんな恥ずかしさこそ人間である証拠なのかもしれない。
自分の欲求をきれいに覆い隠そうとする人間がすごく嫌なんですよね。散々屁理屈を捏ねたり、表面上はものすごく大義名分がありそうな言葉で覆い隠して自分の稚拙な欲求を隠そうとするのはすごく醜悪な行為だと思うんです。(CUTより)
米津はこの曲に出てくる自分の弱さや欲求から目を背けず、恥とともに曝け出す「私」をそっと肯定しているように思う。優しく、正しく、綺麗に生きられなくてもいい。そうなりたいと何度も失敗しながら進もうとする者が「優しい人」であると。
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