米津玄師「POP SONG」の歌詞を深堀りした「くだらねぇ」考察〜前編〜
前々回と前回のプロローグみたいな記事に続き、この記事では歌詞とMVを私なりに考察していく。
前々回の記事↓
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遊びのない世界なんて
まず前提として忘れてならないのは、この曲が”2022年のプレイステーションCMソング”で日本国内のみで展開されているということだ。
クリエイティブコンセプトは”今の日本”の市場、競合状況、消費者インサイトなどを詳細に鑑みて練られたはず。そして導き出されたキャッチコピーがこれだ。
この「遊び」には2つの意味が含まれていると思う。1つは文字通りの遊び=「PLAY」だ。もう1つは、”車のハンドルに遊びがある”などという際の遊び=「余裕」なのだが、最近どうもこの遊びが擦り減りギスギスと軋んでいる気がする。
曖昧さや矛盾を許さず、白か黒か?右か左か?二者択一に踊らされ”物語の裏”は隠れたまま。コンプライアンスやハラスメントやポリコレを傘に着た対立構造がお互いの正義を振りかざし分断を生む。
そもそも、プレステのメインターゲットであろう若者(13〜29歳)を対象とした調査では、諸外国に比べ日本人の自己肯定感は際立って低い。
さらに、「他人に迷惑をかけなければ何をしようと自由だ」と強く思えない人が84.3%と日本の若者の抑圧感はかなり高いようだ。
保守的なモラル意識の高さに加え、静かに浸潤する格差が自己否定からルサンチマンを生み、匿名性の高いネットでは薄っぺらい共感と悪辣な誹謗中傷が跋扈している。
プレステはそんな閉塞感から心を解放する遊びを提供する。真面目に勉強したり働くことよりも軽視されがちな「遊び」こそ人生に必要だと訴求し、「さあ!プレステをどうぞ」と言うわけだ。
人生は死ぬまでの暇つぶし?
単なるゲーム機の広告も突き詰めて考えれば、「人はなんのために生きているのか」という壮大なテーマにハマり込んでしまう。
偉人の格言を紐解いても「生きてるだけで丸儲け」とか「人生は死ぬまでの暇つぶし」といったお気楽な考えから、「厳しくとも生きる価値を追求し挑戦すべきだ」いや「己よりも世のため人のために生きよ」と崇高なものまで様々だ。
大別すると「人生に意義や使命を持つべき派」と「人生楽しんだもん勝ち派」に分かれそうだ。前者にとって遊びはあくまでも余暇であり、後者にとっては遊びそのものが目的になり得る。
ゲームに夢中になっている時に「くだらないことばっかりやってんじゃない!」と叱られたことはないだろうか?だが今やゲームは、読書や映画に匹敵する感動や学びのあるエンタメカルチャーとなり、さらに、大金を稼げるe-sportsにまで発展している。
そうやって大義名分を得たゲームだが、本来のくだらない遊びであることは否定されるべきものだろうか?
POP SONGの歌詞に繰り返し出てくる「くだらねぇ」「くだらねぇよ」「くだらねぇんだ」にその答えが隠れていそうだ。
「全部くだらねぇ」が宿す両義性
米津玄師はPOP SONGを含む全92曲中15曲で「くだらない」という言葉を使用している。
など、辞書通りのネガティブな意味である一方で
など、「くだらない」他愛なさを愛おしんでいるような歌詞もある。
さて、米津本人も語っているPOP SONG自体が宿す両義性とは何だろうか?
”プレよねちゃん”と”ポップスター米津玄師”の視点
プレステCMに登場するトリックスター 的なキャラクターを、この記事内では便宜上”プレよねちゃん”と記すこととする。ネーミングは適当だ。センスなくてすいません。
”プレよねちゃん”はプレイステーションの化身である。だから奇抜な格好で注目を喚起し、ブランドイメージを上げ、任天堂から国内シェアを奪う使命を担っている。
広告写真の”プレよねちゃん”は、しどけないポーズと小悪魔みたいな表情で「一生遊ぼうぜ」と誘ってくる。
一方 ”ポップスター米津玄師”のアー写は”プレよねちゃん”に変身してはいるものの、中身は米津玄師だ。薄暗い部屋の中、どこか寂しげで拗ねているようにも怒っているようにも見える。
この2つのキャラクターのそれぞれの視点で歌詞を読むと「くだらねぇ」の意味もPOP SONGという曲の意味も違って見えてくる。
プレステCMとPOP SONGのメインメッセージとは?
6つのメロディパートが矢継ぎ早に現れ、サビがどこだかわからない構成の中で、唯一”サビ”らしいのは「全部くだらねぇ」だと思う。さらに「君だけの歌 歌ってくれ」も重要なキーワードだ。
2019年「異常な世界で凡に生きるのがとても難しい」と歌った”でしょましょ ”から2年余り。「なあなあでいきましょ」と言っていられないほど世界は非常事態に陥った。
CMのメインメッセージを雑にまとめてしまえば「大変な世の中だけど、そんな深刻になるなよ。遊び心を大切に楽しく生きようぜ。」みたいなことだろう。
映像のストーリーもこれを踏襲している。
外界と遮断された城壁の中、皆んな同じ鎧姿で規律正しく任務をこなす兵士たちは、マスク・消毒液でガッチリと身を守り、自由な行動を制限された日本人そのものだ。重い鎧の下には鬱屈した不満や不安が渦巻いている。
その中の1人が”プレよねちゃん”に変身し、おどけ、おちょくり、遊びながら彼らを挑発し翻弄。兵士たちはアルゴリズムが表示する視野の狭い「正しさ」のために、躍起になって異分子である”プレよねちゃん”を排除しようとする。
無数の矛や剣を躱しながら彼らを出口まで導き、閉ざされた巨大な扉を開けるプレよねちゃん。外界に広がっているのはプレステが提供する遊びのパラダイス。鎧兜を脱ぎ捨てコントローラーを手に歓喜の声を上げて解放されていく兵士たち。
そして、キャッチコピー「遊びのない世界なんて」に続きプレステのグローバルブランドコピーが提示される。
30秒CMでは「君だけの歌 歌ってくれ」、123秒CMでは「全部くだらねえ」と歌うと、それが呪文だったかのようにパラダイスへの扉を開くのだ。いかにも広告的に翻訳すれば、「自分らしく生きて欲しい」「全部大したことじゃないんだから」になるだろう。
POP SONGは「全部くだらねぇ」と言う刺激的なワードをフックに、不毛な争いを否定し、ゲームに限らず不要不急とされたあらゆる娯楽を肯定する、天下のソニーにふさわしいCMソングだ。
だが、米津玄師の新曲としての「POP SONG」はどうだろう?
この続きは「後編」をお読みください。
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