米津玄師はそんな「毎日」を愛している
クソボケナスな毎日
米津玄師は何度となくインタビューやライブMCで日常生活をこんな言葉で形容している。
”猥雑な”、”残酷な”、”しょーもない”….挙句の果てには”クソ”…
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新曲「毎日」は現代を生きる人々の鬱憤を代弁するかのようにリアルだ。それは五月病の新入社員だろうがJ-POP界のトップスターだろうが関係ない。怒り、悲しみ、虚しさ、不安…そんなネガティブ感情は多かれ少なかれ誰もが抱えている。
つまらない毎日なのに暗くない
歌詞に出てくるのはどこにでもいる平凡な男のようだ。最寄駅まで自転車を漕ぎ、毎朝電車に揺られて仕事場に行く。ベルトコンベアーで運ばれるようにただ目の前のことをそれなりに頑張ってこなす毎日。
それが、まるでアニメ映画の効果音のようなサウンドやコミカルな声ネタとともに軽快なリズムで忙しなく展開されていく。
ホームに近づく満員電車のSE、鉛のようなピアノがズーーーンッと重い。さぁ!またしょーもない1日が始まる。ガッタンゴットンと鳴るキックはまるで線路のジョイント音。やけくそが極まったのか?場違いなほど壮麗なストリングスと無駄に明るい歌声が悲壮感をカラ元気でユーモアに昇華する。
「まいに〜ち、まいに〜ち、まいに〜ち、まいに〜ち、僕は〜僕なりに頑張っ〜てきたのにぃ〜」
気に食わないヤツばかり、野良猫にまで八つ当たり。
「俺はこんなもんじゃねぇ」と自分自身を買いかぶり、「こんなはずじゃなかった」と泣き寝入り。(韻踏んでみました)
そんなのが悶々と渦巻いているのに、この曲は暗くもないし湿っぽくもない。音像はバカみたいにキラキラしてるしハチャメチャに弾けている。
彼には”この日々をともに踊りきり、ともに生き尽くす”ダーリンがいるからか?”あなただけ消えないで”、”あなただけ側にいて”と願う大切なレディーの存在が毎日の癒しのようだ。それは同時に”何ひとつ変わらないもの”に彼を縛りつけているのかもしれない。
つまり、小さな幸せを守るために彼は毎日、毎日一生懸命に働き生活を維持していると言えるのではないだろうか?だからこそ、第3者からの”意味がない”とか、”くだらない”とか、”それもうダサい”とか、グダグダグダグダグダ言うアドバイスや説教に中指を立てる。
”わかってんだ!クソボケナス!!!
これが僕の毎日”
それでも毎日は続くけれど
だがもし愛するベイビーがいなかったとしても、彼は同じように歌うのではないか?とも思う。なぜならば、この人はちゃんとわかっているから。
”光るだけがすべてならば、この世界はあまりに暗いのに”
なんとかして光らなければと必死にもがき、キラキラと光るためだけに生きていたら、毎日はどれだけ苦しいだろうか?だから、時には逃げ、余計なものは捨て、駆けるだけ駆けて一息ついて、やるだけやってあとは祈る。
「毎日」は愚痴ソングでも鬱憤爆発ソングでもなく、ポジティブサイコー!な頑張ろうソングでもない。
つまらなかろうが、大変だろうが、辛かろうが、毎日をちゃんと頑張って生きている人たちの日常の歌だ。
時々、心の中で文句を垂れ、KICK BACKの30%くらいのガナリ声で悪態をつきながらも、淡々と笑いながら頑張っている人たちを米津は高みから応援しているのではない。彼もまた同じ目線で一生懸命に生きているのだと思う。働く人も専業主婦も学生も御隠居もみんな同じだ。
何ひとつ変わらないもの
頑張ったとしても変わらないもの
この日々を
”まだ愛せるだろうか?”と言うことは、少なくとも今現在は”愛している”と言うことだ。”はたらけど はたらけど なお わがくらし楽にならざり ぢっと手を見る” と石川啄木も言っていたが、何も変わらないように見えても必ず変化はしている。
さらに”転がるほどに願うなら七色の魔法も使えるのに”と、「心底やりたいことがあって、そこに飛び込む勇気があれば夢見たことが現実になるかもしれないぜ」とさりげなく促してもいる。
とは言え人生はそう甘くはない。刺激的で気分が高揚することもあれば、ホッと癒される時もあるが、黒くてほろ苦いものだ。あれ?これってつまりコーヒー?
そう言えば、ジョージアのCMソングだったっけ。
やっぱやるな、米津玄師!
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