米津玄師って幸せじゃないのかも知れない
「米津玄師の歌詞を因数分解して分かったこと」<第33章>
*<プロローグと第1章〜32章+番外編Vol.1〜3>は下記マガジンでご覧ください。↓
よく晴れた休日の公園。どこかの幼稚園が運動会をやっていた。名前を呼ばれ元気いっぱいに「はいっ!」と小さな手をあげる子供たち。カメラを掲げ懸命に走る我が子を全力で応援する家族。
”絵に描いたような幸せ”が今にも破裂しそうなほどに充満していて、うっかり「この家族にとって、今が幸せのピークなんじゃないか?」と思ってしまい、その不躾な想像を恥じた。
そして、米津玄師がアルバムBremen収録の”UNDERCOVER”について、”ハッピーエンドのあとにある苦悩を想像し、それでも生きていかなければならないという歌”だと語っていたことを思い出した。
願わくば幸せの絶頂で死にたいなと思うことがあるんですよね。喜びとかそういうものはどんどん下がって行かざるを得ないわけで…。
(2015年 Rockin'on Japanより)
ハッピーなエンドがいいんだよ
誰だって喜べるみたいなさ
そんなことを思いながら僕は
ずっと生きてくのか
いつか僕の心が完全に
満たされたとしたなら
その瞬間に僕は引き金を引きたい
(UNDERCOVERより)
全然幸せそうじゃない「幸せ」という歌詞
幸せというものは、その儚さ、曖昧さを知る者にとっては、手放しで歓待できない危うさがある。
米津玄師は13曲で「幸せ/ハッピー」という言葉を使っているが、歌詞にある”しあわせ”は、屈託のない笑顔を見せてはいない。むしろ、瞳の奥に悲しみや怯え、あるいは怒りや諦めを湛えている。
愛する人の寝顔を見て幸せに気づく”ブルージャスミン ”は「幸せなんてのは どこにでも転がり落ちていた」と歌う、唯一とも言える真っ直ぐなハッピーソングだろう。
眠るあなたの瞼の上 流れる睫毛を見てる
僕は気づく これからの日々が幸せだってこと
(ブルージャスミン )
だが、これとて”幸せ”が、まるで永遠であるかのように描いた”救いの嘘”だ。米津玄師という人間が幸せの脆さを知らないはずがない。
幸せの実感は悲しみと表裏一体で、それを手にした瞬間から喪失に備えなければ耐えられない。必ず訪れるお別れもいつか灰になってしまう心も、幸せと共存していることを痛いほど知っている。
今痛いくらい幸せな思い出が
いつか来るお別れを育てて歩く
(アイネクライネ)
心もいつか灰になること
それでいい
ありのままで幸せだ
(乾涸びたバスひとつ)
”失ってからその幸せを思い知る”と言うのは、もはや常套句になるほど普遍的な真実ではないか。
戻らない幸せがあることを
最後にあなたが教えてくれた
(Lemon)
幸せって何だっけ?
そもそも今まで、その意味など深く考えないまま口にしてきた「しあわせ」と言う言葉を、改めて辞書で調べてみて、ちょっと暗澹たる気持ちになった。
”しあわせ”=運の良さなのだ
「幸せ」とは、元々「仕合せ」と書き、それは幸運、運命、ご縁と言った偶発性に委ねられている。
ついでに英語の「Happy」も調べてみたら、Happen(起こる)と同じ語源で、「たまたま起こる幸運なこと」と言う意味だった。ダメ押しをされたような気分だ。
幸せとは自分の意志や努力で得るものではないのだ。”運を持たざる者”にとって、この受け身で消極的な”しあわせ”の定義は残酷でさえある。「結局、運かよ」とモチベーションもダダ下がりしそうだ。
しあわせと幸福は微妙に違う
但し、”しあわせ”と同義の”幸福”は少しニュアンスが違う。
恵まれているとか、ラッキーだ言う実感がなくても心が満ち足りていれば、それが幸福と言うことらしい。つまり、気の持ちようということだ。
足るを知るとか、置かれた場所で咲くとか、身近にある小さな幸せを見つけ感謝することが、シンプルな幸福への最短距離なのかも知れない。
どんな幸せにも終わりがある
米津の歌詞にも、偶然巡り会えた”しあわせ”と、心の満足である”しあわせ”が混在している。
”メトロノーム”は、「去りゆく裾さえ掴めずにいた弱かった僕」が、巡り合えた幸せを逃し、今は他の何かによって満たされているかも知れない相手の心に、少しでも自分の居場所を求めている。
ここでも、決して固定できない幸せの流動性が切なく浮かび上がってくる。失われていくからこそ美しく、愛おしく感じるのはきっと幸せに命が宿っている証なのだろう。
あなたが今どんなに幸せでも
忘れないでほしいんだ
僕の中にはいつも
(メトロノーム)
米津玄師は自ら幸せを拒んでいる?
「過剰なオリジナル信仰なんてクソくらえ」と言う思いが込められたアルバムBootlegを象徴する曲”Moonlight”で「イメージしよう」と繰り返す”心から幸せなあの未来”とはどんな未来なのだろう?
そこには、いかにも独特な米津の幸福観が垣間見えるような気がする。
上記は10年前のツィートだが、この根本は今でも変わっていないんじゃないかと思う。この直後に公式HPにアップした絵本も同じテーマを描いている。
仕事に追われ日々思い悩みながらも一生懸命生きていた心優しい1匹のカリブー。ある日、恐怖・苦痛・悲哀を敏感に感知してしまうアンテナのような角がなければ”幸せ”になれると言われ、それを手放した結果、とても”幸せ”になれましたとさというお話である。
角のない人生を幸せだと感じることは、現代社会をラクに上手に生きていくため方便なのかも知れない。だが、このカリブーがもし米津自身だとしたら、彼は命に変えてでも、その過敏な角を死守しただろう。
心が満たされることが幸福なんだと辞書が定義しようとも、米津の幸せはそこにはない。
こと音楽に関して、被虐的なまでに甘美な苦痛を求め、極限まで痛めつけられた果てに訪れる恍惚はどれほどの快感なのだろうか?
音楽という女王様に導かれた奴隷*にとって、メロディやコードや歌詞やリズムという責め具に弄ばれることが最高の幸せなのかも知れない。
*星野源ANNにゲスト出演した際の本人の「音楽さんの奴隷」発言より
完全に満たされたら終わってしまう。。
安寧な幸せを拒む天才の性は、どこまでも過酷で貪欲で美しい。
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