光しかない藤井風
「天は二物を与えず」
この諺を考えた人が、藤井風を見たらなんと言うのだろう?
彼が両手に抱え切れないほどのギフトを持って生まれてきた場所は、愛と音楽に溢れた明るい家庭。両親と年の離れた兄姉にどれほど可愛がられて育ったことだろう。SNSは家族・親族や地域コミュニティ、学友たちとの仲よく楽しげな画像で満ちている。
Instagram @fujiikazeより
健康にすくすくと育ち、進路を巡って親とのバチバチの末、家族全員からの理解と応援を得てメジャーデビュー。
腕利きマネジャーやアレンジャーに恵まれ、スタッフに大切にされ、多くのクリエイターを刺激。そして、当然のごとく幅広いファンを獲得。みんな彼のことが大好きで、それぞれの関係性もピースフルなようだ。
Instagram @fujiikazeより
いったい彼のどこに闇があるのだろう?
作詞、作曲、歌唱、演奏、ビジュアル、パフォーマンス、キャラ。全ての評価軸に次世代の音楽業界を担うだけのポテンシャルが漲っている。
当然、プレッシャーも、産みの苦しみも、仕事や自分自身への苛立ちや孤独も感じることもあるだろう。だが、そんなものはアーティストに限らず一介のサラリーマンにもある。得られる成果にどれだけの差があろうとも、KPI達成に至る道程の厳しさは似たり寄ったりだ。
そこで必死にもがくのは闇でも傷でもない。それは強く逞しく成長していくために生じる"筋肉痛のようなもの"だ。
45歳までトップアスリートとして活躍したイチローは、怪我らしい怪我をほとんどしなかった。その裏には食生活からメンタル面に至るまでストイックな弛まぬ努力がある。
HELP EVER HURT NEVERを信条に毎朝の瞑想を欠かさず、酒もタバコも喫しないベジタリアン。ステージパフォーマンスを上げるためボクシングや縄跳びに励む藤井風もまた、自らを律し精進するアスリートのようだ。日々「怪我をしない、あるいは怪我のダメージに左右されない」心身を鍛え上げているのかもしれない。
ギャップとは「意外性」の魅力
「ギャップ萌え」なる言葉がある。恋とか、沼とか、そんな甘美な地獄に撃ち落とすトリガーのひとつが「ギャップ」と言うわけだ。藤井風沼のファンたちは、口々にギャップの魅力を語る。
「お喋りは可愛いのに歌うとセクシー」とか「超絶ピアノが上手いのにおちゃめ過ぎる」とか?
果たしてそれは「ギャップ萌え」なのだろうか?
これは「ギャップ」ではなくて「多面的な魅力」ではないか?「のに」じゃなくて、「くて」じゃないのか?
「可愛いくてセクシー」「ピアノが上手くておちゃめ」
藤井風のどこをどう切っても毒は滲まないし、煮ても焼いても灰汁が出ない。こんな表情もする、どんな声も出せる、あんな仕草をしたり、そんな眼差しも見せる。それらの全てがファンを魅了する。すべてが光だ。
ギャップというのは、光と闇の両極を有し、その距離が遠ければ遠いほど破壊力が増すものだと思う。
本人が隠している、あるいは無意識の何かがうっかり見えてしまう。これが「ギャップ萌え」だ。
「見てしまった」背徳感と、「自分だけが知っている」という選民的優越感。さらに、見えたのがほんの一部であり、その奥底にある得体の知れない気配に、人は危険を承知でのめり込んでいくのではないか。
光の申し子が照らす世界
藤井風にはそんな矛盾がない。どの角度から見ても”ポジティブな光”が手を変え品を変え次々と現れてくる。光の打出の小槌だ。
持って生まれた光で、少しでも多くの人を少しでも明るく照らそうともがき続ける”光の申し子”。彼の心に世界制覇という野望が渦巻いていたとしても、そこで闘う動機は「愛」なのだろう。
藤井風という光源は、そのバッテリーにファンの愛をチャージされながら、ますますその輝度を増していくことだろう。
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