米津玄師「POP SONG」に影響を与えた!かもしれない映画
昨年の米津玄師はシングルを1枚リリースしただけで、音楽家としては何もしていなかったと語っている。その間は家で映画ばかり観ていたそうだ。
クライムムービーが「POP SONG」にどのような影響を及ぼしたのかを、勝手な想像で考察してみたいと思う。
善悪の逆転、狂った信念による犯罪がテーマの映画
シリアルキラーやサイコパスなどの犯罪をモチーフにした映画は多い。ショッキングな事件や常人の理解を超えた悪役を媒介に、人間に潜む欲、悪意、弱さ、醜さ、愚かさ、恐ろしさを抉り出したり、それさえも見えない不条理を突きつけてくる。
このような映画をメジャーどころだけでも思いつくままに列挙すると・・・
( )内は監督名
太字は米津自身が観たと言及している作品
セブン(デヴィッド・フィンチャー)
CURE(黒沢清)
機動警察パトレイバー劇場版(押井守)
その男凶暴につき(北野武)
ダークナイト(クリストファー・ノーラン)
タクシードライバー(マーティン・スコセッシ)
時計仕掛けのオレンジ(スタンリー・キューブリック)
ゾディアック(デヴィッド・フィンチャー)
復讐するは我にあり(今村昌平)
悪の法則(リドリー・スコット)
羊たちの沈黙(ジョナサン・デミ)
ブルーベルベット(デイヴィッド・リンチ)
凶悪(白石和彌)
冷たい熱帯魚(園子温)
ジョーカー(トッド・フィリップス)
ノーカントリー(コーエン兄弟)
ミッドサマー(アリ・アスター)・・・などなど
これらの中からPOP SONGに影響した”かもしれない”作品をいくつかピックアップしてみた。
<CURE>
ひと皮剥けば誰にでもありそうなドス黒い感情や欲望を解放し、癒しを与える”邪教”の伝道師が仕掛ける連続殺人。その犯罪を追ううちに自らが”邪教”に侵食されていく刑事の物語だ。
邪教の伝道師である間宮(萩原聖人)は、自らが手を下すのではなく催眠術を使って殺人を教唆する。被害者は間宮が殺したい相手ではなく、催眠をかけられた人間が潜在的に殺したいと思っていた人物だ。
この映画には「POP SONG」のヒントになっていそうな具体的なエレメントがいくつかある。
例えば、”猫足のバスタブ”。若干唐突な印象もあるこの言葉のインスピレーションはどこからきたのか?
その答えはもしかしたら、刑事(役所広司)が間宮の隠れ家で見たこのシーンかもしれない。
被害者の遺体にはすべてX字の傷が残されているのだが、手足をX字に捻られた猿のミイラが発見されるのがこのバスタブなのだ。まるで呪術儀式の現場のようではないか。
このシーンを見てから「唱える呪文はビビデバビビデブー」を聴くと、米津が邪悪さを解放しにやってきた伝道師のようにも見えてくる。
プレステ のCMと言う側面から見れば、兵士たちが「自由と遊び」を手に入れたハッピーエンドで終わる。
しかし、解放された兵士たちが脱ぎ捨てた鎧兜が、”理性やモラルのメタファー”だったとしたら…。飛び出した先の別世界は楽しい遊びのパラダイスなのだろうか?
さらに、この作品には刑事本部長の藤原と間宮のこんなやりとりがある。
藤原がきちんと名乗っているにもかかわらず、間宮は執拗に「あんたは誰だ?」「誰?」「誰だ?」と繰り返す。
「刑事部長の藤原、あんたは誰だ?」と詰め寄られ「キミ、私の何が聞きたいんだ?」と狼狽する藤原に、間宮は呆れたようにこう言い放つ。
<セブン>
ついでに言えば、「セブン」にも「お前は誰だ?」と聞くシーンがある。犯人から刑事にではなく、刑事から犯人にだ。
その答えは「私が誰かなんて意味はない」
犯人の思惑通りに、主人公自身が”7つの大罪”を完成させてしまう結末をこの歌詞に当てはめるとゾワっとする。
<ノーカントリー>
こんな堂々巡りの果てに「その構造自体を音楽で表現することに意味があるんじゃないかと思った」と言う米津。
「ノーカントリー」には、”残酷なまでに人を傷つける”どころじゃ済まない殺し屋が登場する。
どんなにイカれてていようと、それを「まとも」だとしている人間にとっては、自分以外が「どうかしてる」と逆転することを、極端なまでにデフォルメされた”シガー”と言うキャラクターを通して描いた作品だ。
シガー(ハビエル・バルデム)は、ただ粛々と業務を遂行していく。そこには、悦楽もない代わりに良心の呵責もない。「ユーモアを持たない男」と称され、生真面目にきっちり仕事をやり遂げる勤勉さ。
「話せばわかり合える」なんて希望が通用しない”別世界”が厳然としてあることを、この作品は淡々と突きつけてくる。今、起こっている侵略戦争にも通底するようで恐ろしい。彼には彼の確固たる理屈がある。
<悪の法則>
そして、ノーカントリーの原作者であるコーマック・マッカーシーが脚本を書き下ろしたのが「悪の法則」だ。自分の住む世界からは想像もできない”別世界”に、足を突っ込んでしまった主人公の行く末は無様で悲惨だ。
事件の黒幕であるマルキナ(キャメロン・ディアス)と恋人との会話。
身も蓋もないほど冷酷だが、これが彼女の世界であり、言われてみれば、嘘偽りのないリアルにも思えてくる。
誰もが心の底では、あいつもそいつもみんな変だけど”自分だけはまともだ”と思っているのではないだろうか。
<凶悪/復讐するは我にあり>
この2作品はなんと”実話”であり、犯人はともに死刑判決を受けている。両作品ともシリアルキラーが登場するのだが、笑っちゃうほど軽やかに息をするように罪を重ねていく。
凶悪
米津が前述のインタビューの続きで語っていたように、「凶悪」に登場する死刑囚の須藤(ピエール瀧)もキリスト教に傾倒し短歌を詠んでいる。
雑誌記者の藤井(山田孝之)が、上告中の須藤の依頼を受けて、事件の黒幕である木村(リリー・フランキー)を追い詰めていくというストーリー。連続殺人がまるで楽しいお遊びのように展開されていく回想シーンがエグい。
死後硬直した死体を焼却炉に突っ込むのに難儀する須藤と、横で見てる木村とのあまりにも切迫感がなくユルいやりとりに、不謹慎ながら吹いてしまった。
これが彼らの日常で、なんなら人助けくらいに思っているのだ。
だが、本当に恐ろしいモノは”まとも”な人間のキレイな上澄みの底に沈殿しているということを、無言のラストシーンが物語っている。それはきっと、何かで攪拌されれば簡単に浮き上がってくる。
復讐するは我にあり
5人の連続殺人事件をベースにした日本映画史上に残る名作。
敬虔なクリスチャンで、欲望を抑え常に自分を律する父(三國連太郎)と、ニコニコしながら罪を重ねる息子(緒形拳)。対照的に見えて根底には同じ血が流れている。
キャッチコピー「惜しくない 俺の一生こんなもん」は「それもまた全部くだらねぇ」に通じる、諦観やニヒリズムとは一線を画す”楽観的な大らかさ”が漂う。
実際、モラリストの権化のように正しく生きる父よりも、極悪人たる息子の方が遥かに人生を謳歌しているように見える。
この作品はどちらかに肩入れするわけでもなく、意図的なメッセージ性もなく、ただ史実をドキュメンタリーのように描いている。観客がどこにフォーカスを合わせるかでまるで違う物語が浮かび上がる。
POP SONGもまた、「まとも」と「どうかしてる」を行き来する歌だ。両義性どころか多面的な意味を内包してる。MVのトリックスター米津は果たして道化か?、救世主か?、それとも悪魔か?
<8 1/2>
クライムムービーではないが、最後に8 1/2(ハッカニブンノイチ)に軽く触れておこう。アーティストやクリエイターなら誰でも経験しそうな産みの苦しみを描いたフェリーニの代表作だ。
主人公はスランプに陥った著名映画監督。アイデアは枯渇し自信を失くし、私生活も最悪で新作の制作が一向に進まない。プロデューサーやキャストや締め切りに追い詰められ、現実逃避する彼は”夢とうつつ”を行ったり来たりしながら苦悶する。
仕舞いには自分に向けて発砲。これは夢か現実か?
そして、かの有名な「人生は祭りだ。共に生きよう」という名セリフから、登場人物全員が手を繋ぎ、昇天するように踊る多幸感に満ちたラストシーンへ。
コントローラーを銃のように頭に当てた米津が歌う「それもまた全部くだらねぇ」は、「人生は祭りだ。ともに生きよう」という意味かもしれない。
読んでいただきありがとうございます。
スキ&シェア&フォローをしてただけると嬉しいです!
*巻末にオマケがあり。よろしかったら是非ご覧くださいね*
*文中敬称略
*歌詞が公式から発表されていないためApple Musicの歌詞を参照しています
*Twitter、noteからのシェアは大歓迎ですが、記事の無断転載はご遠慮ください。
よろしかったらこちらもどうぞ「POP SONG関連記事」↓
<オマケ>
米津が纏っているフェザーの衣装は「8 1/2」や「去年マリエンバートで」「上海特急」など往年の名画に登場するフェザードレスを彷彿とさせる。どれもエレガント且つ妖艶で美しい。
また、米津は自身のイラストについて、エドワード・ゴーリーの影響を受けていると告白してるが、POP SONGのジャケットのイラストはどこかティム・バートンの風味がする。
しみじみと絵が上手いと思う。いつの日か米津玄師の絵本か漫画が出版されることを願っている。
*インスタグラムアカウント @puyotabi
*Twitterアカウント @puyoko29
米津玄師を深堀りした全記事掲載の濃厚マガジンはこちらです。↓