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米津玄師は「LADY」MVでなぜ白線上を歩いているのか?

 「LADY」のMVは米津玄師扮するガソリンスタンドの店員が清掃中、地面の白線を辿るうちに空想の世界へ入り込み、軽やかにステップを踏みながら日常の倦怠感から解放されていくストーリーだ。

 だが、夢から覚めればそこはいつもの仕事場。何事もなかったかのようにまた淡々と業務に戻る。

 以前、Rockin'onJapanのインタビューで「音楽がうまくいってなかったらとんでもねぇ破れかぶれな人生を送ってた気がする」と語っていた米津。誰しもどこかでボタンをかけ違えれば、この主人公のようにバイトで自活できるかさえ怪しいかもしれない。

散見する過去曲のエレメント

 ガソリンスタンドで働くのがミュージシャンになれなかった米津で、空想の世界がポップスター米津玄師としての輝かしい10年だと仮定すると、数々のヒット曲が散りばめられた世界線は、すべて夢だったのではないか?と思えてくる。

 「KICK BACK」MVにも出てきたコンテナにはメジャーデビューアルバム「Yankee」の文字。

 さらに「ゴーゴー幽霊船」MVで米津自身が描いたイラストのモチーフを逆さまにしたような落書きもある。

ゴーゴー幽霊船MVより

 このロータリーは「ドーナツホール」に見えるし、

 米津が転がしているのは「ピースサイン」の”転がって行くストーリー”かもしれない。

 ショッピングカートで疾走するシーンは「駄菓子屋商売」の歌詞にある”進め!ショッピングカート 僕を乗せ”とかピースサインのアー写そのまんまの描写だ。

ピースサインのアー写


 「M八七」のMVを彷彿とさせるカットもあれば、「POP SONG」や「Loser」「Flamingo」と似たような振付けもあり、遊び回る子供たちの真ん中で目覚めるカットは「パプリカ」にも通じるような気がする。

 いささかこじつけっぽくもなるが、衣装も上半身だけを見れば「Lemon」のそれと似ている。

「Lemon MV」「公式インスタグラム」より

 また、以前この記事でも書いたが、米津の歌詞に4つ出てくる「靴」はすべて片方が脱げ落ちている。

拙記事「米津玄師の服・靴・アクセサリーは何を表現しているか?」より

これを踏まえると、壊れてテープでグルグル巻きにされた靴にも合点がいく。

空想の世界に広がる白線の意味

 「LADY」は甘やかなラブソングの衣を纏ってはいるが、本人曰く恋愛に限らず日常生活の”倦怠感”そのものを表現しているらしい。

・嫌気が差す
・ほとほと疲れ果てる
・もう本当に飽き飽き

 公式のインタビューで米津が自身の仕事や生活、SNSを含む社会風潮についてここまでハッキリと強い言葉で拒否感を露わにするのも珍しい。ユーモアに焦点を当て次々と変身を続けてきた近年の活動さえ、もはやルーティン化してきてると言う。

 MV公開後に配信された数々のインタビュー、YouTubeでのトークからは「自分に飽きたくない」と言い続けてきた米津が、デビュー10年の節目を越え、さらに親友の享年を越え、新たな視点や行き先を希求する”ぼんやりとした苦悩”が滲んでいるような気がした。

 同じ仕事を10年も続ければ、なんかすべてわかったような気になって鮮度が落ち倦怠感を感じることは、多かれ少なかれ誰にでも起こりうることだ。それは米津のように順風満帆に見える成功者であっても同じなのだろう。

 MVでひたすら白線の上を歩く行為は幼少期に経験した無邪気な遊びであり”子供みたいに恋がしたい”という歌詞の具現化だと思う。

 だが、異空間でつまずき、ジャンプし、よろめきながらも白線からはみ出ぬように進んでいく姿は、無邪気さよりも分別ある大人ゆえに守らなければならない規範と自由がせめぎ合うギリギリの攻防のように見える。

 最初は平坦な道路上にあった白線が、だんだん高度をあげ、

 最終的には”一歩踏み外したらおしまい”という高さにまで到達。有名になればなるほど奈落の底は深くなる。

 そして、この危険な白線上でかつてないほどの晴れやかな笑顔を炸裂させるのだ。

 日常からエスケープした空間でさえ白線からはみ出すことができない。律儀に真面目に線上をトレースして行く。笑いながら、踊りながら。これが責任ある大人の、プロフェッショナルの逃れられない現実であり矜恃だ。

 子供の頃は”どこまで白線の上だけを歩けるか?”という心躍るチャレンジだったのに、いつの間にか白線の意味が常識、倫理、正義、寛容、良識…と社会生活に必要な正しさの象徴になってしまったように思う。

 それはコンプラ、ポリコレの大波に乗って加速する。「今日も天気が良くて幸せ〜」とSNSに投稿すれば「雨が降らなくて困っている農家を傷つけるな!」とクソリプが来るような硬直した正しさに絡めとられていく。

 このベストセラー本にも書いてあるが”正義は最大の娯楽”だから。

 この風潮は有名人も一般人も変わらない。米津もまたそんな閉塞感を抱えているのだろう。

本当にくだらないチャラけとか、インモラルな何かがすぐさま道徳的価値観をもって判断されてしまう。
(中略)
人間の表層を切り取って道徳的価値観に照らし合わせる。それは非常に不健康なんじゃないかと思うんですよね。
(中略)
混沌とした、剥き身なものに耐性がなくなっていく気がしています。

2023 GINZAインタビューより

道徳的な規範を強い力で当てはめたりすることは、翻って人間性の否定になるんじゃないかという感じがするんです。

2023 ナタリーインタビューより


 自分は生まれた時からオルタナティブな存在、つまりはみ出し者だと言う自意識を持ちながら、いや持っているからこそありのままを嫌い、時代が変わっても誰にでも共通する普遍的な”白線”を、誰にも真似できない高度や角度で歩き続けてきた米津玄師。

 さすがに疲れてしまったのかもしれない。空想の世界でも現実でも白線は縦横無尽に続いている。だからこそ”行方をくらませる”不可侵のパーソナルスペースは重要だ。”精神と時の部屋”は白線を逸脱したどこかにあるのだろう。

私的であるというのは隔絶されたパーソナルスペースを持つということで、そこでは本来、道徳的な価値観や意味を外と共有しなくていいはず。

2023 ナタリー インタビューより

 米津の後ろ向きとも取れる発言にファンダムは少々ざわついたようだが、彼を心配するのも、ファンを突き放していると悲しむのも違うと思う。

 ジョージアのCMに出てくる「#毎日ってけっこうドラマだ」は小さな幸せにばかりに焦点を当てているが、紆余曲折、右往左往、七転八倒がないドラマに誰が感動するだろうか?

 気怠い日常をピアノのループで表現した「LADY」、夢でもうつつでも白線を踏み外さず歩いて行くMV、インタビューやYouTubeでのたくさんの言葉から伝わってきたことを、一言に要約するならば….

「清濁合わせ呑む」


不安もないハッピーな生活があったとして、俺は不安の無い生活に耐えられるだろうかと思いますよね。

2023 モデルプレス インタビューより

 悲しみも孤独も痛みも苦しみも怒りも不安も、ネガティブな感情を忌み嫌い恐れ排除するべきではないと思う。それらがあってこそ「人生ってけっこうドラマ」なのだ。大切なのはそれらとじっくり対峙し受け入れ自分を見つめ直す覚悟と強さ。そしてそれを美しいものへと昇華できる力だ。

 米津玄師はそんな力強さを持っている。だから彼の歌には聴く者の心を揺さぶるドラマがあるのだろう。

 「#米津玄師ってけっこうドラマだ」


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