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米津玄師 ビタースイートな「ゆめうつつ」

「ゆめうつつ」がニューシングルのA面ではなく、カップリングとは贅沢の極みだ。深夜、眠りにつく前に報道番組のエンディングに流れることを想定した癒しの歌。多くの視聴者がそう思っていたのではないだろうか?

しかし、”PaleBlue”よりも”死神”よりも、米津の今を示している”ゆめうつつ”は、フルをよく聴いてみると結構なえぐ味を含んでいた。

癒しよりも不穏さを感じたのはなぜ?

 NewsZeroで半年以上に渡り焦らすように小出しにされてきた”ゆめうつつ”。洗練されたサウンドに、フワフワと漂うようなメロディ。しかし、歌詞はアーバンなオシャレワードではない。

「声が出せるような喜びが君に宿り続けますように」

「羽が生えるような身軽さが君に宿り続けますように」

 慈愛の皮に包まれた祈りの果肉には、「革命家の野次」「あんな人には解らない」「間抜けな惑星」「むくれ顔の蛇」など、シリンジの先端から滴る弱毒が注入されている。

 「また明日」と言うヒーリング成分100%みたいな歌詞ですら希望の対岸にあるような気がして、1月にこんな記事を書いた。

「ゆめうつつ」の「また明日」は果たして「See you tomorrow」の意味だけであろうか?

フルを聞くまでは誰にもわからない。

「明日」と言う言葉が「希望」と同義語だったらどんなにいいだろう。
「明るい日」と書く新しい1日が幸福に満ち溢れているとは限らない。むしろ今は不安や恐怖に苛まれることの方が多いかもしれない。

(note:米津玄師の「また明日」につながる大切なこと より)

 さらに、後日公開になったCメロに感じた強い違和感。

「疲れたら言ってよ 話をしよう」

 米津はいったい何を言っているのだろう?

「躊躇わず渡っていく君の元へ」くらいならわかる。”飛燕”で歌っていた「君のためならば何処へでも行こう、空を駆けて」「いつでもここにおいでよね」と誘う”ホープランド”も同じ構造だから。これらを翻訳すれば「歌を届ける」と言うことだと思う。

しかし「疲れたら言ってよ 話をしよう」とはなにごとか?この取ってつけたかのような甘美な嘘はいったい。。。?

”飛燕”との符合と米津の現在地

 そして、ついにフルを聴いた。歌詞を見ながら何度も。そして、気づいたことがある。かつて米津が「自分のことを書きました」と言っていた”飛燕”と符合する多くの言葉と、テーマへのアプローチ方法の相違点だ。

 その歌詞における共通点を見てみよう。

「風」「花」「鳥」「姿」「傷」「君」「淵」「歌」「隠れ」「声」「夜」「旅」「羽」「まだ」「飛んでいく」「誰」「夢」

2曲に共通する言葉は17ワード。そして、その単語を用いた同じようなフレーズも登場する。

も知り得ないが癒えずに増える」
(ゆめうつつ)

を重ねて まだかが泣いている」
(飛燕)
「革命家の野次も届きはしないで踊りましょう。
 君が望むならそのは誰かのに繋がるだろう」
(ゆめうつつ)

の底に 朝のに こそ響くがあると
 呼ぶ声が聞こえたら それが羽になる」
(飛燕)
「躊躇わず渡っていくの元へ」
(ゆめうつつ)

のためならば何処へでも行こう空を駆けて」
(飛燕)

 2曲に共通するのは「優しさと怒り」。そして米津の「少しでも美しいほうに向かっていたい。少しでもよい世界になってほしい。(2017年real soundより)」という思いだ。

 クソみたいな世界の中で、怯え、怒り、右往左往しながら互いに傷つけ合う人々。「開け開けという論調が強くなるたびに、分断までもが強くなっていく。(2021 ナタリーより)」と言う米津の発言は、グローバリズムが進めば進むほど、歪んだナショナリズムが顕在化すると言う現象にも通じている。

 自分とナウシカを重ね合わせ、狂気にも似た怒りと愛で誰かを救おうとした”飛燕”。この曲が世に出た2017年よりも世界は格段に複雑化し分断は進んでいる。

 「自分の意識としてはものすごく怒りに満ちた曲になったと思います」

怒りに満ちた、人を突き放すような曲

 フル解禁直後から、怒涛のような勢いで新曲関連のインタビュー情報が届いた。米津本人の口から語られる楽曲解説を参照しながら”ゆめうつつ”をもう一度見つめ直してみよう。

「また明日」は、やはり明日になればいいことが待っていると言うような安易な綺麗事ではなかった。

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「明日がいい明日だとは限らないし、おそらくしょうもない明日なんですよ。(略)それを受け入れないことには生活というのは始まらない。」(NewsZeroより)

 さらに、こう続ける。

「夢の中が大事だと説きながらもそこに閉じ込めるのもまた違う。(略)平凡な猥雑な明日というものを提示しないことにはフェアじゃないなと。」

”ゆめうつつ”は厳しく残酷な現実と、安らかな夢の中を反復する歌だ。にも関わらず、聴く者はついつい安寧な方を求めてしまう。

 米津がこの曲で表現したかったのは「ゆめうつつ」というボーッとした状態で日々を生きていくことではなく、現(うつつ)に向き合うための、夢と言う”社会と隔絶されたパーソナルスペース”の重要性。そこで過ごすことへの許し。そして、この2つの領域を反復することの大切さなのだと思う。

 また、YouTubeチャンネルのPaleBlueRadioで語られたあまりにも率直な米津の言葉。

「(ビッグな存在になったことで)抱いてしまう過剰な思いやり」
「俺は金持ってるから全部払うよ的な」
「自分がここまで来れたんだからお前たちも頑張れよみたいな」
「余計なお世話をやく悪しきマッチョイズム」
(要約)

 決して天狗になっているわけではないが、知らず知らずのうちに相手の尊厳を傷つけている危険性に気づき、良かれと思ってリスナーを鼓舞してきたことさえも自省している。

 混沌とした世界で迷える羊たちを、成功者としての自分が啓蒙し牽引するのではなく、夢と現の反復を提示するだけで、あえて突き放した曲”ゆめうつつ”。

「疲れたら言ってよ 話をしよう」

 このフレーズは、それでも「こぼれ落ちるもの、見逃されてしまうものをすくい取って、音楽に還元したいと考えています(2021年 朝日新聞より)」と言う米津が、「もし、よかったら。。。」と遠慮がちにそっと差し出したひとこと。

 それは甘美な嘘でも虚無の優しさでもなく、夢の中だけに残された米津玄師の遠い祈りだった。

 君が安らかな夢の中 眠り続けられますように。

 

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