過度に設定を盛られたキャラは幸か?不幸か?
はじめに
最近作業中延々とアニメを見ています。
バトルものとかはそっちに意識が割かれちゃうので話半分やチラ見でも把握できる程度のまったり系を見ています。
「映画を観るときは映画を鑑賞するときの態度で臨まなければならない」
という謎のポリシーがあるので映画を観ながらの作業はしません。
映画だけはなぜか作業用として消化したくないんですよね。
ただ昨今のコンテンツ大飽和時代、1つのコンテンツのみに集中して意識を割くという行為だけ行っていると一瞬で寿命が尽きるため最近はマルチタスクで色々見てしまうことが多いです。
落語を聴きながら読書をする
ゲームをしながら動画を見る
SNSとニュースを別窓で同時に追う
など。
現在この文章はヤマノススメセカンドシーズンを観ながらタルコフのロード時間を生かして書いています。
うーんトリプルタスク。
自分には合わないなーと思ってたアニメがひとたび作業用として見ると一変して佳作になる、という不思議な経験を最近しています。
たしかゆゆ式あたりは公式がながら視聴をされるの前提に作っている、というような話をどこかで耳にしました。
ソースは出せないので眉唾で捉えていただければ。
家じゃなくて外だったとしても誰かとなんかしながら携帯チェックしてたらそれもマルチタスクになりますからね。現代の人間は生き急いでいる。
なので最近はアニメとAI拓也を交互に見るという最悪な往復をしています。
検索しないでください。
「アニメアニメしている」キャラクター
萌え声で媚びるような声だったり、変な語尾や現実にはあり得ないキャラクター性を持っているのを一時期受け付けなくなりアニメから離れていた時期があります。
「えぇ~~~~!?!?私が○○~~~~!?!?!?」
ってそんなくっそデカい声で言わんでもいいやろ
今でこそいろんなものを摂取しているようにしていますが、
それでもやはり10年代前半の過度なキンキン声が跳梁跋扈するアニメは
まだ克服できておりません。
当時どれくらい萎えていたかと申しますと、
痴女演技をしているはずのAV女優が棒読みだったくらい萎えていました。
当時たい焼きもって「うぐぅ」と言っていたり冬にスーパーカップのバニラ味を外で食べていた方は今何をしているのでしょうか。
大きな声で叫ぶことが場面転換(A⇒Bパートや話数終わり)に便利なことは
重々承知しているのですが、
「お前それいちいち口に出さねえといけねえのか」
って気持ちになるわけですね。
満員電車に乗ってるときに「うぅ~~狭いしあっついよ~~~」
とは言わないし
困ったときに「どどどど、どうしよ~~~!?!?!?」
とも言わないでしょ普通
声を張るときはかなり高音であることがほとんどなので
最近電撃やビームシーンで意図的に画を暗くしてるのと同様に
常に肉声も高音域カットしてくれないかな、と思うレベル。
アニメにリアルを持ち込むほうがどうかしてます!と言われたら
おうそうか!ごめんな!
と言って立ち去っている人(げらうちゅ)です。
独白はあくまでモノローグや心情で語られてるから良いのであって、
思ったことをすぐ口に出すややもすれば積極奇異に見えるタイプの子は
今も昔もあまり好きではなかったりします。
天真爛漫だし悪い子ではないのは分かってるんだけどね。
悪いのは便利だからと使いまくる制作サイドと大人の事情です。
なぜ気になった?
先日、桂正和著 I"s を読んでいた際、
主人公以外のモノローグや気持ちを伝える場面を意図的に排除されているということに気が付きました。(というか単行本で先生本人が言及してた?)
なので我々読者、いわば神の視点からの実はこいつはこうで……
というものが一切存在せず、
A子の本当の気持ちは主人公にも我々読者にもわからない
という状態で物語が進んでいきました。
「無愛想に接してるけどやっぱりアイツのことがスキ……」
「なんで思ってたことと逆のこと言うのよ私のバカバカ」
など、その子の性格を知れるモノローグがあるのが普通なのですが、
ビンタされたときなぜビンタをされたのか作中で一切明言されないわけです。
不甲斐ないから?幼少期の約束を忘れたから?
昨日の喧嘩を清算せずヘラヘラしてたから?
それともただ単に顔を見て急にムカつかれたから?
分からないわけです、知らないわけです、知りようがないのです。
実際の人間関係に近いものがありますが、
普段独白マシマシのコンテンツに触れてばかりいたため
とても新鮮に読めました。面白かったです。
もっと言えば作品の性質上中学生くらいのころに出会いたかったな、と思いました。
上記の作品はかなりリアル風のテイストで描写されており、
どちらかといえばヒューマンドラマに近い仕立てになっています。
ゆえに独白も過度なリアクションも存在していないわけです。
時を戻して現代。
声張りガールは2023年現在も元気に深夜アニメに存在しております。
これは「社会に望まれているから声を張っているのか」
と考えるようになりました。
昨今はひと昔前のように長期的に咀嚼し長く味わう本や映画などの代わりに
ショート動画や動画の切り抜きなど即物的な娯楽に溢れています。
この「何も考えないで再生できるショート動画」は
個人的には劇薬だと考えています。
何もしたくなくてぼーっとショート動画見て気が付いたら2時間経ってたとか過去に何回か経験ありますからね。
面白いところを凝縮or切り抜いてお出しするため
「はい!これはとっても愉快で楽しく笑える動画ですよ!」
と意図的に誘導されている感は否めません。
そのような劇薬ばかり摂取して長時間かけてゆっくり咀嚼するコンテンツに触れないと、根本的な「考える力」を失ってしまうのではないか?
あるいは現在進行形で失われつつあるのではないか?と思うのです。
今は手元にスマホがありすぐに何もかも調べられる状況なのでことさら。
つまり
「声を張らないと知覚していると気が付けない層」に対して
(分かりやすい大声で叫ぶという)アプローチしている
と考えたわけです。
「おいしい!」と言わなければ「おいしくないんだな」
と捉える人が本当に存在する世の中ですから。
最近は伏線を全て回収しないとモヤモヤするという話も耳にしました。
私は解明されていない事象に対しては考察のし甲斐があったりそれを話のタネとして友人と会話をするので悪い印象はあまり受けないのですが、
この批判も上記のショート動画などで脳を焼かれて
どっしりと構えた楽しみ方ができない方の意見なのかな、と思うわけです。
真に危惧していること
私が最も危惧していることは、我々が古いアニメを新規に履修するときにもあれ?と違和感が先行し素直に楽しめない/楽しさが半減することです。
綾波レイの雰囲気を踏襲し派生したキャラクターを
綾波系と呼称することがありますが、
そのままのキャラクターだと綾波レイとダダ被りするorキャラが薄くなるため設定を盛られます。
長門有希はSci-Fi(宇宙人)の属性を付与された綾波系ですね。
後年になって設定盛り盛りになったキャラが当たり前になって、
未来に生きる私たちがいざ当時のアニメやゲームに触れてみたら
「あれ?これだけ???」
となる悲しいミスマッチが発生します。
先日カリガリ博士を見たとき同様の現象に遭遇しました。
100年以上前の白黒映画で新鮮な驚きを求めているほうがおかしいといえばおかしいのですが。
一部意図的にオーケストラが無音になるシーン(強烈な場面転換)など現代に通ずるものがあり見る古典としての視聴価値はあります。
現代のコンテンツに慣れすぎてしまった結果
当時のコンテンツを新鮮に/当時の方が受けた衝撃を得られなくなっている
ということはかなしいものです。
時代が変われば衝撃は変わるというのは不可逆的なものなのでしかたないですが。
例として"serial experiments lain"の画集の中に
電車の中で皆が周りを一切気にせず自身の手にある異様な電子デバイスを覗いている、という奇怪な一枚があるのですが、
現代でそれを提示されたとしても
「スマホ見てるだけじゃん」
と一蹴されます。
当時はゾワッとしたイラストだったんですが時代に追い越されました。
「当時の時代背景を踏まえたうえで視聴しないと感動が味わえないコンテンツ」というものがあります。初代ガンダムなんかはいい例。
いわゆる"子供向けアニメ"しかない時代にヒューマンドラマを織り交ぜた革命的な作品だった(後年の作品に多大なる影響を与えた)と耳にしています。
「昔のこの作品は名作だ!」と言っている人がいて実際に見たところ
思っているほどではなかったため
「あのオッサンが懐古厨なんだ/当時ロクな娯楽なかったんだろうな」
と思うのだけは勘違いなのでやめていただきたく。
映画なんかは白黒時代でも大傑作が数えきれないほどあります。
おわりに
最近20時には爆睡こいているので非常に眠たいです。
本来起きてから推敲してまとめるべきなのでしょうがなんとなく今日中に全部書きたかったためなんとか起きてます。
別に締め切りもクソもないので自己満足ではありますが。
白黒映画の話に触れたのでオススメの映画を一つ紹介して終わりましょうか。
1962年公開のフランスの白黒映画、
La Jetée (ラ・ジュテ)
おススメです。
白黒映画かつ写真映画。
30分ほどしかないので肩ひじ張らずに視聴できます。
アマプラで配信されているのを確認しました、よろしければどうぞ。
それでは。
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