
月面初の住職
西暦2103年。人類は宇宙に進出し、火星に都市を築き、エウロパに探査基地を設けていた。しかし、地球では相変わらず国家間の対立が続き、資源の枯渇と環境破壊は深刻な問題となっていた。
かつて「共生経済学」の旗手として名を馳せた橘 一誠(たちばな いっせい)は、世界の経済システムを根本から変えようとした。利益追求のための競争ではなく、あらゆる生命との共存を軸にした新たな経済モデルを提唱し、それを実現するために全財産を投じた。
彼は大企業からの協力を取り付け、国家を巻き込み、地球規模の社会改革を試みた。しかし、既得権益層の激しい抵抗に遭い、最終的に全てを失った。詐欺のレッテルを貼られ、財産も地位も仲間も奪われた彼は、再起不能なレベルの挫折を味わった。
「ならば、せめて最後にこの世の貸し借りを清算しよう」
彼は世界中の恩義のある人々を探し出し、わずかに残った資産と知識を使って彼らの人生を助けた。かつての盟友たちの事業を陰で支え、病に苦しむ恩師の治療費を肩代わりし、若い才能のある者たちに未来を託した。そして、彼が返すべきものをすべて返し終えたとき、彼の手元には何も残っていなかった。
それでも彼は満足していた。彼は全てを終えたのだ。
そして彼は決意する。
「余生を、地球ではなく、月で過ごそう」
彼は月面の静寂にこそ悟りがあると考えた。最先端の科学技術を駆使し、月面に木造の寺院を建設した。これは彼が最後に残った資金で手がけた唯一の個人的なプロジェクトだった。
地球から取り寄せた特別加工の木材と、ナノテクノロジーを駆使した耐熱・耐放射線コーティングを施し、日本古来の建築技術を融合させた「月面庵(げつめんあん)」は、無重力環境でも耐えうる構造を持っていた。
彼はそこで一人の住職として生きることにした。
毎日、庵の前に座って母なる地球を眺める。地球は青く輝き、彼がかつて命をかけて変えようとした世界は、遠く手の届かない存在になっていた。しかし、彼はもう執着しなかった。ただただ、この宇宙の存在そのものに畏敬の念を抱き、静かに祈りを捧げる日々だった。
彼の庵には、地球から時折訪れる少数の巡礼者がいた。彼の名を知る者もいれば、ただ月面にある奇妙な寺を見に来た者もいた。彼はどんな訪問者にも穏やかに接し、茶を振る舞い、ただ静かに語り合った。
それから十年が経った。
月面庵の住職となった橘一誠は、年老いていた。彼の身体は重力のない環境で弱り、もはや地球に帰ることはできなかった。しかし、彼は最初からそのつもりだった。
ある日、彼はふと考えた。
「私は、何のために生きているのだろうか?」
すべてを投げ打ち、貸し借りを清算し、ここで静かに暮らしてきた。しかし、それすらも自己満足だったのではないか。彼が本当に為すべきことは、何だったのか。
その答えを見つける前に、カレの意識はこの神秘的な時空に戻ることはなかった。
彼の亡骸は、月面庵の本堂に横たえられたままだった。
そして、奇妙なことが起こった。
月面庵の位置を示すビーコンが突然消えたのだ。月面を周回する人工衛星が確認したが、そこにあったはずの木造建築は影も形もなくなっていた。まるで最初から存在しなかったかのように。
地球の人々は噂した。「彼はついに宇宙と一体化したのではないか」と。
しかし、真相は誰にもわからない。
<<<<<<<<<<<投げ銭回収ライン>>>>>>>>>>>
ここから先は
¥ 100

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?