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忍耐の職人



「忍耐を技術として扱えるようになったら、どれほど世界は変わるだろう?」

大学院生の時、沢村圭介はこの疑問を抱いた。それは単なる精神論ではなく、科学的に「忍耐」を測定し、操作できる技術として確立することを意味していた。彼は心理学と生理学の交差点に立ち、忍耐の濃度や加速度を高める方法を探究することを決意した。

研究を進めるうちに、彼は人間の忍耐が脳内物質のバランスに依存していることを突き止めた。セロトニンとドーパミンの相互作用、交感神経と副交感神経の調整、さらには微細な筋肉の緊張までが関与していた。彼はこれらを体系化し、「忍耐の濃度」と「忍耐の加速度」という二つの概念を定義した。

忍耐の濃度──ある状況において、どれほど長く耐え続けることができるかの指標。
忍耐の加速度──どれほど迅速に忍耐の濃度を高められるかの指標。

研究の末、沢村は「忍耐制御装置」を開発した。これは神経刺激と薬理学的アプローチを組み合わせ、装着者の忍耐を意図的に操作できるデバイスだった。小型のパッチをこめかみに貼ることで、使用者は耐える力を自在に操ることができる。

初めての実験対象は、日常的なストレスに悩む一般人だった。行列を待つのが苦手な人、職場の会議で苛立ちを隠せない人、育児に疲弊する親たち──彼らはパッチを装着すると、まるで悟りを開いたかのように冷静になった。

研究が進むにつれ、政府機関や企業が興味を示した。特に軍や刑務所管理局は、極限状態でも冷静に判断できる兵士や、暴動を起こさない受刑者の管理に利用できると期待を寄せた。市場に出るや否や、「忍耐パッチ」は爆発的に売れた。

だが、ある日、奇妙な報告が上がってきた。

「パッチを長期間使った者が、感情をほとんど持たなくなる」と。

彼らはもはや怒らず、焦らず、何をされても淡々としていた。ストレスから解放されたかに見えたが、同時に喜びや悲しみも失われ、ただ外部刺激を耐え忍ぶだけの存在になってしまったのだ。

沢村は恐れた。自分は人間の精神を制御する禁忌を犯してしまったのではないか? 忍耐は確かに技術になった。だが、それが人間性を奪うものだったとしたら──。

彼は全てのパッチの販売を停止し、回収を試みた。しかし、すでにパッチは模倣され、世界中で流通し始めていた。もはや止めることはできなかった。

そして、ある夜、沢村の元に一本の電話が入った。

「開発者として、あなたに最後の実験をお願いしたい」

その声の主は、政府関係者だった。

「新たなパッチを開発してほしい。人間の忍耐を“加速”するだけでなく、意図的にオーバーフローさせる装置を。敵国の指導者に適用すれば、耐えきれずに自壊するだろう」

沢村は受話器を置いた。

忍耐を極めることは、人間の意志を極めることではなかった。
それは、単なる機械的な耐性の向上に過ぎなかったのだ。

彼はすべての研究データを消去し、森の奥深くに姿を消した。

その後、「忍耐パッチ」の技術は違法化された。だが、密売は続き、人々はなおも「耐える」ことを求めた。

果たして、それは進化だったのか?

それとも、人類の終焉の始まりだったのか──。

(完)

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