写真集を眺めて自分も久しぶりに作らねばと思う
母が退職前になって、職場の本棚に置いてあった写真集のことを口にした。
とても美しかったらしく、名前がはっきりとわからないと繰り返しながら空の美、地の美…とかだった…と呟く。
その次の日、「正確な名前がわかった、天空の美、地上の美。だった!」
オンラインで検索し見つけた本を購入し、家に届いたものを母と確かめる。
なるほどそういう記憶の綴じ方もあるなぁ…と思う。写真集。
アルバム発刊する事を常に日常普通とする家庭に育ってこなかったので、私は基本アルバムの中身で人にうったえかけることをしない(家族写真を見せるのって、普通か?)が、本を創るということはやっぱり素晴らしいよなぁと思う。
それで、上の話よりだいぶ前のことになるが。ある時、後輩を元気づけようとする友人から「後輩の写真撮ってくれ」と言われ、写真はとても美しく仕上がったので写真集を3冊作ってその子とその子のご両親にあげたことがあったのを思い出す。
詳しい話は人を傷つけるので省くが、その”元気づける”というのはそもそもの話、彼女がずっと恐怖症みたいなものになってしまったきっかけのことを「きみになら頼める気がするんでお願いできるか?お金はもちろん払うよ」と言うので、「お金もらえんの?え、まじ?」と言うノリであった。
彼曰く、彼女はカメラマン気取りの一般既婚女性に酷いクレームをつけられたらしい。
彼女の美しさを理由に「カメラ機材を買ってあげた」と上から目線のままずっと撮られ、その上で”機材代を要求する”という乱暴な手をとった人がいたらしい。その結果『撮影に気乗りしない』という個性を持っていた。
女優のたまごだった彼女は大人からのそんなハチャメチャな我儘に付き合わされ、彼女は一時的に女性恐怖症になったらしかった。タレント養成所の上司の言う言葉すらどれもただのストレスだったらしく、自己アピールがだんだん歪なものになっていっていた(言ってしまうが、確かにアイコンの写真は加工がちで「いやもうちょっと実物のほうが可愛いだろ」と思うなどした)。私はよくわからないそのカメラマン気取りの女性でもほぼ確定で持ち得ないカメラ(毛穴まで写すほどの機材のため少しドン引きを隠した若い女性の表情筋を凄いなと思うなどした)で撮った後レタッチまでしつつ作品として出した。別に面倒でもない。
いっそ面倒なのは、映るのを嫌がる家族くらいだ。私の兄とか。と思う。嫌がるのである。実の身内の方が。そりゃそうだ、私も兄に写真撮られそうになったら「いいけど、何に使うん」と言うだろうし…いやでも嫌そうな顔で絶対やめろみたいな否定はしないかな‥家族写真とか仕方ないもん…。
彼女はたぶん喜んでくれていたし、その後暫くしてお誘いを受け見に行った舞台で立つ彼女の姿は妖精のようだったので、(ああ元気にやってるんだな)と思えた。
…
なんだかいろんな話を聴いたけれど、
要点をまとめれば【美しさとは醜さの中で藻掻くものだ】ということなんだろうなぁと。
私にしてみれば、美しいものなんてあらゆる場所にあって、切り取り方は自由なのだと思ったときが一番美しさに意味があるように思うので、
そこに金銭授受の世知辛さを伴った結果 人にトラウマを植え付けるとかカメラマンの風上にも置けなかったよなぁ…と思う。あんたたぶん、旦那の金で飯食ってるとか突かれたらキレるタイプだろ…。
つまり、生産には苦しみなんてものを度外視する強さが必要なわけだ。
いわゆる【誰かからみとめられた美しいもの】を撮影する、という経験は、それ以後さほど覚えがない。
日常、写真というものをとにかく撮りためてはいるし、インスタで出せばある程度友人からハートが貰えるが、私の今現在の感覚にとっては『本の形にしないと美しいということにならない』のかもしれない。だとしたらさっさと作らねばならない。亀の写真集を。
昔の子亀のころの写真はほとんど撮ってこなかったので(あの頃まだ世間にあったのはフィルムカメラで、写ルンですを買うのは修学旅行の時くらいだった)撮り出せるのは今、今現在の彼らだけだけれど。それでも一応、撮影時間は7年に及ぶのだから。