僕という人間
僕という人間はどうしようもなく人間なのです。
周りに流され、頼り、それでも自分のどこかに価値があると信じてものすごく小さなことで落ち込んだり、開き直ったりして怠惰ながらも自分という人間にわずかな希望を持ちながら、名言に共感し、名曲に感動して、名作に惹かれて、偉人に憧れ、贅沢ですが人間らしく生きてます。
現代においてすでに人は生きるために、生き残るために、子孫を残すためになど動物的な生存ではなく、より幸せに、より充実した文化的な生存を目的として生活している。
簡単に言うといかにお金を稼ぎ、いかに周囲に認められ、いかに満足した人生を送ることができるのかが大切である。
こういう風に書くと僕はいかにも金持ちな嫌味な人を想像してしまうが間違いではない。
匿名の善意はお金がない自分への慰めにしかならない。
僕らが生きる3次元においてお金は時間であり、時間はお金である。悲しい。これに抗えないのは物理や科学ではなく神のせいだと思う他ない。
お金があればなんでもできる。
お金があればあの子と焼肉に行ける。
お金があれば本が読める。
お金があれば好きな子に振り向いてもらえる。
お金があればなんでもできる。
お金があれば。
悔しいけれどお金は大事。
僕はお金がない大学生だが、親の仕送りや優しさで贅沢な暮らしをさせてもらっている。
申し訳ない。はたして自分にその恩を返せるだけの力があるとも思えない。心が豊かであればお金なんて。思ったことはある。信じたことも証明しようとしたこともある。情けない。
ただ、初めに言ったように僕は自分にわずかながら希望を持っている。お金持ちになる。ビッグで優しい人間になる。そうした決意はある。ただどうしようもなく怠惰な自分に飽き飽きすることもある。
それでも生きていかなければならない。
社会がそうであるならばそうでなければならないように。
諦めているわけじゃない。
僕は僕でありながら社会を生きて満足のいく人生を送っていかなければならない。