信仰入門:聖書・キリスト・罪
参考文献
富田正樹『信じる気持ち : はじめてのキリスト教』
(日本キリスト教団出版局)
序. 新しい視点としてのキリスト教入門
キリスト教神学には大まかに「保守主義」と「自由主義」の二つの立場があります。非常にざっくりまとめるならば、前者は「聖書の筆者が神であり、記述された文章に一切の誤りがない」と主張し(無誤無謬説)、後者は「聖書の筆者は人間であり、各文書には文化的背景の影響やある程度の矛盾が含まれる」と主張します。他方、昨今ではどちらの立場もその見解を見直し、歩みよりの状態となっています。
今回紹介するのは「自由主義」の立場に立つ著者に記され、執筆後に出版停止命令を受けたという衝撃の一冊です。その理由について知るところでありませんが、確かに本書では幾つか過激な表現があります。例えば復活について「生物学的、医学的には、一度死んだ個体が復活するということは、まずあり得ません」(38頁)と述べられています。しかし頁を開くごとにそこでは「キリスト教の価値観を変えてやろう」という野望ではなくむしろ「人間の素朴な疑問」とそれに優しく寄り添う著者の声で溢れており、刺激的な一冊でした。今回はその中から「聖書」、「キリスト」、「罪」の三つにテーマを絞り”信仰とは何か”を考えたいと思います。
1. 聖書をどう読むか
著者は聖書を「ドキュメンタリーではない」(50頁)と主張します。それは聖書そのものがたくさんの写本から組み合わされた文書であり、また昔のギリシャ語(新約聖書の言語)の本には括弧や句読点が無かったため誰のセリフなのか、そもそも肯定文なのか否定文なのかも曖昧な部分があるからです。
今私たちの手元にある聖書はそれらの中から写本として選ばれ、ある程度の解釈がなされた状態で翻訳されたものです。加えて旧約聖書が記されたのは日本で言う縄文時代や弥生時代であり、その時には「後世にこの言葉を残そう」という意図もなく、よってドキュメンタリーの執筆などほとんど想定外だったでしょう。
著者は聖書について「おそらくそれを記録するときに、どの文章についても、『信仰による脚色』が入ってしまったでしょう」(51頁)と述べ「その結果、物語は宣教する目的を持った『一種の歴史ドラマ』になっていったのでしょう」(同上)と結論づけます。
では聖書は読む価値のない文章なのでしょうか。著者はその意見を否定します。そうではなく「聖書から歴史的事実を引き出すよりは、『このような物語によって、聖書は何を私たちにつたえようとしているのだろうか』と考える方が大切なのではないでしょうか」(同上)と言います。
例えば「五千人の給食」(マルコ6:30-44ほか)というエピソードについて、実際にイエスが奇跡を起こして食糧を増やしたのではなく、貧しくともイエスの前で人々が持てるものを分け合った結果、多くの人が少ないもので満足出来たという何らかの記憶が「物語の核」(同上)ではないかと言います。
つまり「聖書を読む上で大切なのは、事実性ではなく、そこに表された真実のメッセージなのです」(同上)と結論づけています。
2. キリストとは誰か
イエス・キリストの生涯、とりわけ誕生から十字架の“間”にこそ、彼がキリスト(救い主)であることの証と、人々を救おうとしている姿が垣間見られます。
そう言うと当たり前に聞こえますが、例えばほとんどの教会で唱えられる使徒信条ではキリストについて「主は聖霊によりてやどり、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ…」と公生涯の部分には触れられていません。また中には「生誕・十字架・復活以外は特に注目しなくていい」と主張する人もいます。
しかし福音書の物語のほとんどはキリストの活動について記されており、むしろそこにこそ「キリストとは誰か」というメッセージが隠されていると考えられます。
2000年前、貧しい人や病気の人は「罪深いから神に罰せられたり、悪霊に取り憑かれているのだ」と罵られ、社会的にも低い地位にいました。
しかしキリストはむしろそのような人たちのもとに駆け寄り、福音(良き知らせ)を告げ知らせました。それと同時に彼は当時ユダヤ地方を占領していたローマ帝国の言うことを聞き続ける政治家・宗教家たちを猛烈に批判しました。その批判もただ自らの感情に任せたのでは無く、聖書(当時は旧約聖書)を根拠に討論・活動をしていました。
そのことから著者は「イエスは新しい宗教をつくろうとした教祖ではありません。イエスはただ目の前の人を癒し、ひたすら純粋に神への信仰を守り、行動に表そうとしただけであったと言うことができます」(29頁)と述べています。つまりキリストは旧約聖書の時代から語られている神の言葉を徹底的に実践した人であったと言えます。
3. 罪とは何か
キリスト教では「罪」という言葉がよく出てきます。ですが、著者はまず「罪という日本語が悪い」(74頁)と前置きし、その理由について「『罪』という言葉は、もともと聖書が書かれたヘブライ語やギリシャ語では『的外れ』という意味の言葉です」と述べます。つまり「罪」とは犯罪行為や呪いのようなものではなく、もっと根本的なもの、「神さまの願いからはずれている、神さまの思いになっていない、神さまから離れている…そういう状態をさす言葉」(同上)です。また人は生まれ持ってその罪を抱えています(原罪)。その意味で「人は生まれたときから、神から離れ、神のことを忘れて生きようとする生き物」(同上)なのです。
またキリスト教では「罪」とともにそれを「悔い改めなさい」という言葉もよく耳にします。著者はこれも本来の意味とはかけ離れたイメージ(反省、やり直し等)で使われていると言います。「実は『悔い改め』という言葉も、もともとは『方向を転換する』『ものの見方を一八〇度変えてみる』という意味なのです」(75頁)。
旧約聖書では膨大な数の罪のリストや掟があり、みな何をすれば、どのくらいこなせば神の前に正しいのかと議論をしていました。しかしイエスはマルコ福音書12章29-31節で第一に「神を愛すること」、第二に「自分自身のように隣人を愛すること」ことが掟であると言い「大胆にも昔から伝わる膨大な数のユダヤ教の戒律を、このふたつにまとめてしまいました」(同上)。
このことから「罪」と「悔い改め」について考える時、大切なことは「私たちも、自分の行ないや考えが神を愛することになっているのか、人を愛することになっているのか、いつも心がけながら生きてゆく」(同上)ものの見方の転換と言えるでしょう。
総括. 私にとって信仰とは
「聖書」、「キリスト」、「罪」、これらはキリスト教信仰の核となる要素です。著書を開くと更に詳しく、そして優しく語られていますので是非一度手に取ってみてください。
長く信仰を持っていても案外この核となる要素(とりわけ「罪」について)についてはそこまで知らないという方もいます。ですが土台をある程度知っていると生き方そのものも変わってくると思います。
また本書は「序」の項目で述べた通り「自由主義神学」という立場に立って記された本です。ぜひ様々な立場・見解の書物にも目を通してみてください。段々と「信仰とは何か」という視点が豊かに広がりを見せると思います。