『ノック 終末の訪問者』と、理不尽な運命のこと
#2023年映画ベスト10 のタグを見ていた。
たぶん100人分は見た。200はいってないかも。
でもなかったのである。10位に入れている人すら一人もいなかった。
『ノック 終末の訪問者』が。
まあ。わかるのですが。変な映画なので。つらいですし。。。
私も「良い」のかわからない。でも好きだ。
このタグを見たことはきっかけに過ぎず、私の好きな映画を私以外の宇宙全員が嫌いでも別に全然かまわない。
でもせっかく思い出したので、私の今年の唯一無二な映画になった一本、
私の魂の首根っこを掴んでしまって、まるで本人の記憶みたいに居座っている『ノック』のことを、かき集めておく。
誰かにおすすめするレビューとしても
スッキリするための考察なんかとしても書いていない。
私の心がどう動いたかの話だけです。
とはいえ、勿論、強いて言えば鑑賞済の人に読んでもらうほうが良いものだと思います。
結末の話もします。
ある家族が休日を過ごすロッジに突然見知らぬ人々が訪れ、
「貴方たちのうちの誰か一人が死ななければ、世界が滅ぶことになる」
と告げる。
拘束され、強いられる理不尽な選択に当然抵抗する一家。
そんなありえない話を信じるはずがない。
終末カルトの連中に捕まってしまったという当然の認識。
ゲイカップルと養子という家族構成のため、ヘイトクライムも疑う。
しかし時が過ぎるにつれ実際に世界は恐ろしい災害や疫病に浸食されていき、訪問者たちも一人また一人と自発的に命を絶ってゆく。
今、目の前で起こっていることをどう捉えるべきなのか、
何を信じ、何を守るべきなのか?
…みたいな話。
とにかくずっと続く極限の状況が恐ろしく、打ちのめされ、負荷の大きい作品だった。
でも「これは、単純な恐怖を超え、怒りと悲しみを超えたストーリーだ」と思った。
M・ナイト・シャマランという人は超常的テーマを多く取り扱い、スピリチュアルなものへの親しみが強いにも関わらず、無宗教らしい。環境はむしろ整っていて多くの信仰に触れながらも、特定のものを選びとりはしなかった。
そういう感覚には勝手に結構共感する。
人の理解を超えたものはある気がするけど、人が人へ広げてきた宗教には今のところしっくりくるものがない。
『ノック』にも黙示録をはじめとしたキリスト教的なエッセンスが盛り込まれているものの、決してそれについての物語ではない。
この映画では最後まで、人智を超えた意思は不気味に沈黙している。
観客にもわかるかたちで姿を顕したり、意図を説明したりしない。
罪についても罰についても語らない。
これまでのシャマランはどちらかというと「理屈」をつけて風呂敷を畳むことが多めではあったので、このあたりはかなり不満も持たれていたみたい。
だけどこの作品ではそのこと自体がテーマにつながっているように思う。
凄いっていうか、難しいかつシャマラン作品らしいことに、このプロットなのに家族間の不和を一切描かずに緊張を保っていることがずば抜けている。
結婚しているカップルは元々他人であるし、この一家に関しては娘も養子なので誰と誰の間にも血のつながりが一切ない。
それでも彼らは深く信頼しあい、愛しあっている。
だから例えば「自分だけは助かりたい!」もしくは「家族が自分を死なせようとするのでは?」というようなコンフリクトは描かれていない。
そんな程度の恐怖の話ではないからだ。
作劇上もそれは要らないので条件付けが徹底されている。
犠牲となる人間は納得して自ら命を捧げなければいけないし、
もし誰も犠牲にしなくてもこの家族は助かるというのである。
世界は滅ぶが3人だけがこの世に残る。
だから焦点は1つ、疑問は3つしかない。
「訪問者たちはただの気の触れた過激な終末論者なのか?」
「もしそうならどうすればこの状況を抜け出せるのか?」
「もしそうでなかったら…真実自分達に世界がかかっているのなら、一体どうする?」
物語が進むにつれ、訪問者たちの言う通りに災害が起き、疫病が広まり、ついには飛行機が世界中で同時に墜落を始めるという悪夢のような光景が広がる。
一方で選ばれた家族の一人エリックは頭部の負傷をきっかけに「ヴィジョン」を視るようになり、自分達の使命を信じ始める。
そして最終的には訪問者たちが全て亡くなり、
世界の滅亡が決すまで最後の猶予と宣告された数分間、
信じてしまった者と信じたくない者の凄絶な葛藤の末に、決断がなされる。
シャマランはしばしば「信じる」とはどういうことかを映画の中で問う。
超常的な現象を、それを知覚する自分を信じるか。
そして彼の映画では信じることは、行動することを意味する。
エリックは自分を信じ、夫であるアンドリューは彼を信じた。
その死のシーンが唯一画面に映されないのも、たまらない気持ちになる。
結末では、たったひとつの命と引き換えに天変地異は終わりを迎える。
本当に、絶たれた命たちの犠牲と関係があるのかすら明示されないままに、ぱったりと静かな世界が訪れる。
このやるせなさ。
「世界が滅ぶならそれも構わない。3人で生きていこう」
「何故俺たちが?何故彼らのために?」
「だったら俺を殺してくれ!」
アンドリューの誰にでも理解できる怒り。
一方でエリックに犠牲を決断させたのも「世界を救いたい」なんて大それた想いではない。
「娘がこれから生きていく世界を、地獄のようにしたくない」一心からだ。
それは家長としてのヒロイックさでも、勿論母性による献身でもない。ひたすらパーソナルで強い愛。
人は【世界】なんてもののために、その中身の実感も無しに、己の身を投げ出すことなどできない。
結局トロッコ問題でしょと言われるとそうなんだけれど。
でも自己犠牲が結果としてトロッコ問題になっているプロットってたくさんあって、エモーショナルなクライマックスとして描かれていて、結構するっと納得して観てたんだなと改めて気づいたりした。
めちゃくちゃわかりやすいのだと『アルマゲドン』とか。
よく考えたら途轍もなく恐ろしくて悲しいことだよね。例え必要なことだとしても、それとは関係なく。
上に書いた通りシャマランは決して特定の信仰ありきで作品をつくるような人ではないこともあって、私はこの映画をあまり宗教的に解釈する気にはなれない。
でも初めて観てから何度も何度も思い出して、
何度も何度も考えてしまう。
圧倒的な理不尽に呑まれて、
信じられないほどの絶望に晒されて、
「わからない」まま生きる人生のことを。
だってこの世にはあるのだ、
本当に、納得などしようもないほどの理不尽な運命とやらが。
例えば劇中のような災害で、疫病で、事故で。
現実にも起きうる難病で、
あるいは熊に襲われるとか、
無差別な殺人であるとか。
途轍もなく恐ろしく悲しい結末に本当に直面する人も世界にはたくさんいるので、そういった喪失に寄り添う不思議なホラーでもあると思う。
色々と考えすぎて良い方に良い方に解釈してしまっている部分もありつつ、
稀有な感覚を呼び覚ましてくれて、やはりどうしようもなく好きな映画。
あーあ、結構長々と書いちゃった。
この文章はすべて深夜のテンションで書かれています。
何度観ても、最後のカーステのところは質量のある喪失感に涙してしまう。
このとき思い出の曲が流れだすのもまた奇跡的な偶然だよね。
あれは訪問者たちが乗ってきた車であって、この一家の車でもないのだし。
そんなところに「意味」があるのかもまた「わからない」物語なのだ。
<メモ>
『ノック』を観ながら思い出した映画たち
『デッド・ゾーン』『ダークナイト』『アルマゲドン』『天気の子』『フォルトゥナの瞳』