夢のような生活 ― 続「余生という時間」
仕事もせずに毎日のんびり暮らしてみたい、というのは万人の理想を集約した常套句のように使われている言葉ではあるけれども、稀に仕事が好きでたまらなくて休日を返上してでも働いているような向きもいれば、なかなか上手い仕事が見つからずに尋ね歩いている向きもいる訳で、誰にでも当てはまる謂いではなく、これは経験から言えることだけれども、自分の適性だとか相性に合った仕事に就くことが出来たならば、言われるほどに仕事も苦にならなくて、それなりに満たされた日々を過ごすことが出来るものである。だから仕事の全てが全てつまらないものなのではなく、始まりに戻って、仕事もせずに、とかいう願望が頭をもたげるのも、それは世の大半の向きが、適性や志向に見合った仕事に就くことが出来なかった、という残念な雇用事情、人事の悲哀の裏返しということになる。
もちろん、だからと言って、好きな仕事に就くことが出来たなら、当人は必ず幸福になるという保証など何処にも無くて、仮に将来はプロ野球選手になりたいと願う若者が希望を叶えて、万に一つのチャンスを掴み、晴れて球団に採用されて一軍に配属されたとしても、これは部活動やサークルなどとは勝手が違って、毎日が同僚との生活を賭けた競争で、二軍落ち、戦力外通告に怯えながら練習を続ける人生が、果たして幸せな人生と言えるだろうか。その重圧に耐え、且つまた結果を残してこそ、法外な高給が受け取れる身分なのであって、ただ好きであるとか、燃えているとか、そんなロマンチックな青春の夢だけでは乗り越えることなど出来はしない。無論、それは文筆業にも当てはまる話であって、ただ書くことが好きで、たまたまなのか、実力なのか、名のある賞に入選でもして、いよいよプロの作家としてデビューする機会に恵まれたとして、朝な夕な締切に追われ、アイディアの枯渇に呻吟し、言わずもがな盗作など許されるはずもなく、いよいよ進退窮まって、自ら生命を絶った先人の悲劇には事欠かない。
これはいささか負の側面、極端な例を挙げたのだけれども、それでは一体、ストレスも無く、前向きに生きることの出来る人生というのは、どのような人生を言うのであろうか。考えるまでもなく、親の遺産を継いだり、宝くじの一等でも当たらない限り、ヒトは仕方なしに働かなければならなくて、それは此の国の憲法でも、「勤労の義務」などと言う「納税の義務」とワンセットの課役が定められているものだから、残念ながら、働かない生活というものは社会的に認められてはいない。それで、どうしても、その仕事という必要悪と、誰しも折り合いを付けなければならなくて、今言ったように、望んだ仕事に就くことが出来たからと言って、毎日を安穏に暮らすことなど出来る保証は無いのだから、ここは一つ発想を転換して、解決の矛先を「職業」そのものに求めるのではなく、その職業、すなわち仕事に対する向き合い方、「姿勢」に転じて考え直してみては如何だろう。
これは仕事に限らず、失望や挫折というのは、何かを期待する、理想を手前勝手に描くから、その反動として失われた、喪失した状態を言うのであって、初めから何事につけ、当てにしなければ、失うものなど何も無くて、パイロットになりたいと夢を見るから、タクシーの運転手に落ち着いて悲観し(無論、その反対もあり得る)、クラスで一番の美人に熱を上げるから、振られて校舎の裏で泣くことになる。だから、何かになりたいとか、誰かと結ばれたいとか、そんな自助努力では解決しない(決定権が自分には無い)他力本願に結果を託すから、報われずに自分という存在まで否定し、やがては社会や世界を恨むことになる訳で、そもそも、運を天に任せるような生き方は、博打とさして変わらない。
要は、そういう当てにならない対象を当てにするのではなくて、自分の力だけで成就出来る、あるいは満足出来る対象にこそ、時間と、資本と、体力は注がれるべきなのであって、例えば、評価の揺るぎない芸術であったり、誰に対しても態度を変えることの無い自然であったり、そういった意志を持たない、普遍(不変)の対象こそ、信じるに足る、当てになる伴侶とすべきもので、これからは、価値観を根底から改め、可能な限り多くの時間を、それらと共に過ごすことに、ヒトは工夫と努力を重ねるべきなのではないだろうか。だから、どんな仕事に就いているとか、どんな肩書を持っているとか、そんな有効期限と賞味期限のあるようなラベル(レッテル)を有難がるのはやめて、良い意味で「当てにしない」日々を送ることが、心穏やかな、ストレスの無い毎日を実現する為の術と言えるだろう。そして、これは何も、目新しい話をしている訳では全然なくて、世俗の煩悩を落とす、古来「悟り」や「解脱」と呼ばれて来た心理の変化を言うのであって、実は「悟り」も「解脱」も、宗教的な用語でも何でもなく、酸いも甘いも人生の経験をそれなりに積んだ向きならば、やがては辿り着く境地と言えるだろう。
仮に「夢のような生活」というものがあるとするならば、それは物理的に存在する、すなわち仕事もせずに日々を送るような生活ではなく(此の国の憲法では認められていない)、好きな仕事に就くことが出来た生活でもなく、仕事でも、恋愛でも、物欲でも、ともかく、何かを得たい、何かになりたい、などという他力が作用しなければ実現しないような対象を諦め、達観した境地に「悟り」「解脱」した生活、精神の在り方を言うのではないだろうか。だから、一般に「諦める」という、如何にも負のイメージ、挫折したかのような印象が付きまとう言葉の使い方は今日から改めて、より良く生きる為に「諦める」、そういう前向きな使い方に用法を訂正することが必要で、人生の達人というのは、実は日々競争に明け暮れ、対人ストレスに身を蝕まれながら、出世だとか、恋愛だとか、そういう価値の定まらない、やがては劣化する対象には執着しない、呪縛の解けた、いわゆる一般論としての「成功」を上手に「諦める」ことが出来た向きを言うのではないだろうか。
かつて、洋の東西を問わず、賢人(仙人)と呼ばれる向きは、往々にして人里離れた僻地に居所を求め、晴耕雨読、書画に親しみ、音曲を愛する暮らしを送っている姿であって、それは達人としての生き方、本当に価値あるモノや暮らしの何たるかを象徴的に描いた、具現化した存在だったはずである。だから、もし「夢のような生活」を送りたいのであれば、その賢人に倣って、今日からでも、当てにならない対象から、普遍(不変)の対象へと価値観の軸足を移すことが第一であって、プレゼンの成否であるとか、男女の恋心であるとか、ヒトの数だけ変動するような不確定要素に満ち満ちた世界の中で、五百年間モナリザは微笑みを続け、ウルビーノのヴィーナスは艶めかしい身体を横たえている、そのことが意味する真理に、想いを巡らせることである。
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