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旅を生きる ― 続々「日常の再定義」

 誰の言葉か知らないけれど、人生は旅路である、とは良く言ったもので、もちろんそれは、今や百年時代を迎えつつあるヒトの生涯を、山あり谷あり、酸いも甘いも、旅路に譬えた比喩に過ぎなくて、ただ、よくよく考えてみれば、人生とは本当に旅、旅「のようなもの」、ではなく、旅「そのもの」なのかも知れなくて、それは、旅に出ている間だけが、本当の自分に戻ることが出来るからである。二十四時間という天地万物へ平等に与えられた一日の中で、個として、自分として生きることが出来るのは、一体どのくらいの時間だというのだろうか。一歩、玄関から、門扉から外の世界に足を踏み出せば、ご近所に向けた顔を装い、たとえそれが、挨拶程度しか縁の無いお向かいさんであったとしても、最低限、恥ずかしくないだけの他所よそ行きの顔をしなければならなくて、もちろん、職場に着いたら着いたで、上司と話す時の顔、部下に指示する顔、同僚と接する顔と、百人百様、使い分けなければならなくて、気が休まる間もなく、毎日毎日、そうやって誰もが色々な顔をして過ごしている。それでも、独り暮らしであるならば、帰宅から就寝までの僅かな時間は、素に戻ることが出来るのかも知れないけれど、幸か不幸か、家族でもいる身ならば、その妻(夫)だか子だかに向けた、夫(妻)らしい、父親(母親)らしい振る舞いに努めなければならなくて、だから始まりに戻って、二十四時間の中で、個として、自分として生きることが出来るのは、一体どのくらいの時間だというのだろうか。

 確かに、作家である平野啓一郎さんが提唱している「分人主義」という考え方もあって、相手によって変えた顔、その一つ一つが全て自分の分人であり、どれか一つに決めることは出来なくて、要は一人の人間には様々な顔(分人)があるという話で、ただ、分人であろうと何人であろうと、心にも無い同調や服従を強いられている自分を、本当の自分だとは認め難くて、心にも無いのであれば、それは既に自分を離れた自分、すなわち他人になっている。だから、平野さんの説には賛成しかねて、そういう心にも無い振る舞いを強いられている間は、分人ではなく、むしろ演技をしている役者であって、本当の自分というものは、演技を終え、舞台を降りた自分を言う。そして、その演じている、装っているという認識、本当の自分は違うのだ、という自負と自覚があるからこそ、ヒトは正気を保って生きている。

 話を旅に戻して、だから一日の中で、自分として生きることが出来るのは、限られたごく僅かな時間しかないのだから、まるまる二十四時間を自分として過ごす為には、旅にでも出る他はなくて、旅に出ている間が素の自分、気兼ねなく、繕わずに生きることが出来る本当の人生で、人生が旅路というのは、何も譬えではなくて、文字通りの解釈、正確な描写だったと言う話である。もっとも、旅の効用については、前にも書いたことがあって、自分の人生を、演じている自分ではなく、ありのままの自分として生きる為に、ヒトは旅に出て、自分へのご褒美でも、心の洗濯でも、何でも良いから、生きている手応えを感じ、自我を確かめ、世のしがらみという呪縛から解放する。だから、旅の本当の目的というのは、実は観光をする為でも、旨い料理を喰う為でも、温泉に浸かる為でもなくて、素の自分に戻る悦びを味わうことにあるのであって、東京駅でも、上野駅でも良いから、既に入線している車両の予約しておいた席に収まって、やがて定刻のベルが鳴り、ゆっくりとプラットホームから滑り出す瞬間、その茶番という日常から「離れた」という実感は、蘇生にも似た解放と自立の時でもある。

 旅は鉄道の旅に限る、というのは、揺るがない持論で、それは流れゆく車窓の景色を眺めながら、アタマを空っぽにして素の自分に回帰する時間を満喫することが出来るからで、信号だの、車線変更だのに煩わされる、事故を起こせば前方不注意の自動車の旅とは違って、その急行なり、特急なり、鈍行でも良いけれど、ガタンゴトンの規則的な振動に身を委ねていれば、やがては目的地まで運んでくれる安心料が運賃には含まれているからで、それで旅先に蔵元があれば言うことは無く、時間の許す限り立ち寄ることにしていて、予め訪問の趣旨を伝えてあるから、帰りの列車で呑む為の地酒の小瓶と、猪口も忘れずに用意しておいてもらって、試飲を媒介にして蔵元と酒談義に花を咲かせ、帰りは帰りで、旅の記憶を反芻しながら、駅で買ったご当地の特産を肴に一献を傾ける道行きの格別なことと言ったらなく、それはアルコール御法度の自動車の旅では叶わない、鉄道の旅ならではの醍醐味と言えるだろう。

 もちろん、酒が呑みたいから旅に出ている訳ではなくて(ことさら強調すると言い訳がましいけれど)、旅というものは、必ずしも駅から始まる訳ではなくて、その旅の行程を考える、目的地から交通手段、食事をどうするかまで、あれこれと思案を巡らせている時間もまた旅の一頁で、これは良く言われることだけれども、旅は、計画と当日、そして記憶と、三度美味しいものである。もちろん、計画を立てる上では、雨が降った時の為の代案、乗り遅れた時の為の代案と、三つ四つ考えておけば間違いは無くて、降ったら降ったで、それなりの愉しみ方を用意しておけば、それほどがっかりすることも無く、要は、旅という営みに関わる一切を愉しむことが肝心で、折角、休みを取って、つまらない日常を忘れることが出来るのだから、起きてから休むまでの時間は悔い無く、上機嫌に過ごしたいものである。そうやって準備した旅程を全うして、無事に帰りの列車に乗ることが出来たなら、前段に戻って、地酒の小瓶を傾け、地場の肴で一杯、そのささやかな酒宴が旅を締め括り、満たされた一日を終えることになる。

 だから、旅の効用というものは、これも何度か書いたことがあるけれども、大切なことだから繰り返すことにして、素の自分、本当の自分に戻る、ありのままの自分の思考や嗜好を確かめることにあるのであって、それは見方を変えれば、どれだけ日常と言われている毎日が、自分を偽り、あるいは役を演じているだけの虚飾の時間で、ただ一日に占める割合が多いから日常と呼んでいるに過ぎず、実態はすこぶる異常、すなわち非日常であることを認識する、旅はその為の大切な機会であり、正気を保つ為の時間である。だから、長いのか、短いのか、人生という有限の資産を最大限効果的に使いたいのであれば、出来るだけ日常と呼んでいたところの非日常、異常な毎日を、非日常と呼んでいたところの日常、旅の時間に置き換えて、ココロとカラダの安寧に徹することが、今というややこしい時代を健全に生きる為の知恵であり、それはストレスの無かった世界をわざわざ複雑に作り変え、ストレスに満ちた世界にこじらせてしまった人類が、自ら矯正する為の営みでもある。仏教で言うところの「厭離穢土おんりえど」。それは汚れた日常との訣別であり、また漱石の一節が言うように、不浄の地を離れる清々しさこそが、まさしく旅である。

 さてさて、仕事もヒトの付き合いも、さっさと済ませて、何処へ行こう。そうやって次なる旅のことを思案し出したのなら、その旅は、もう始まっている。


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